第四夜:狼の遠吠え(2)撫でていい?

「我が名は、『狼王』──アザット・メメティ」

 通学途中に寧遠はあの大型ビジョンに登場した男の姿を見たとき、最初は困惑した。

 死んだ父は、ミラーズシティの一部の地区で人狼の頭目が人狼たちの面倒を見ていたものの、大きな成果が得られず、人狼を団結させる指導者はこれまで出現しなかったことを嘆いていた。

 人狼に皆を率いる王者が居たたら、必ずや種族の運命を変えることができるだろう。

 他に父親が話してくれたミラーズホロウで古来より伝わる予言は、「この地で生まれし赤子は、悲劇を経て成長し、苦難を経て力をつけたなら、やがて闇夜を払う勇者、夜明けの戦士、予言の王と呼ぶであろう」としている。

 ──このアザット・メメティと呼ばれる男はその予言の王なのだろうか?寧遠はあれこれ考えていた。

「ミラーズシティは今日より正式に『人狼トゥーラーン』になる……我はこの地を支配する唯一の統治者なり。人狼は如何なる種族をも凌駕する最高の権利を手にした……」

 寧遠は大型ビジョンに映った狼王をぼんやりと見ていた。

 最も辛いとき、自分が人狼としてこの世に生を受けたことを恨んだことがあった。

 寧遠は自分の全てが嫌だった。漆黒の夜に狼に変身する自分が嫌だった。人肉を食べなければ生きていけない自分が嫌だった。邪悪な怪物になることが嫌だった──俺はなぜ人狼なんだ?なぜ人間じゃないんだ?

 だがこの男は寧遠に「君は人間より優秀だ。君の体には高貴な血が流れている。君は自分の種族を誇りに思うべきだ」と語りかけた。

 その男の出現は、まるで寧遠の薄暗い人生に差し込む一条の光だ。

 学校に着くと、寧遠は自分の席に向かった。他のクラスメイトは談笑していて、誰一人寧遠に目を合わせなかった。ちょっかいをかける者もいなくて、歩青雲もそうしなかった。

 誰が見ても、ここ最近の歩青雲は最高潮に機嫌の悪いことがわかった。

 毎日の保護観察に加え、少し前にナイトクラブで神民が人狼退治に失敗したことに関連性があるだろうと寧遠は考えた。歩青雲が誇りに思っている叔父もそのメンバーの一人だったかもしれない。

 事情を知らず、歩青雲の前で神民を批判した生徒たちは放課後に暗がりで歩青雲の取り巻きに徹底的に殴られた。

 放課後、家に帰ると、寧遠は来客に気が付いた。その者は前に食糧を送ってくれたあの遠い親戚の叔父だった。

 叔父は寧遠母子のことを同情し、『羊肉』をたくさん送ってくれただけではなく、寧遠が自力で食べていけるよう、アルバイトも紹介してくれた。

 寧遠は肉を煮込むと、母に先に食べさせてから、自分も少し食べた。

 少し元気を取り戻すと気合を入れて、母の体を洗い、家にあったゴミの大半を片付けた。

 その夜、寝る前に彼の母親は久しぶりに寧遠に話しかけた。「トゥルディ……こんな母さんでごめんね。母さんがいなかったら、お前も楽できただろうに」

「お母ちゃん、そんなこと言わないでよ」寧遠は彼女を軽く抱きしめながら言った。「お母ちゃんがいなくなったら、俺も生きる理由がなくなる」

「ダメ……お前は生きなさい。トゥルディ……生きて……」

 今日は不思議なことに良いことしか起きなかった。寧遠は、人生にはまだ期待できることがあると信じ始めていた。


*****


「……昨夜、チャリティディナーが開催されたミラーズフィナンシャルタワーでテロ事件が発生しました。人狼たちはヘリコプターに乗ってビルに突入して、多くの死者と負傷者が出ました……

 市長が搭乗した救助のヘリコプターが避難中、狼王を自称する人狼から襲撃され、そのヘリコプターはミラーズ川の水面に墜落しました……

 搭乗者には市長と乗組員合わせて全員が死亡したほか……身元がまだ判明していませんが、狼王の可能性が極めて高い遺体も発見されています……」

 テレビで狼王が死亡したというニュースを見て、寧遠はその瞬間茫然とした。

 ──狼王が死んだ?人狼は立ち上がるんじゃないのか?俺の期待は裏切られたのか?寧遠は哀しげにそう思った。

 良いことはいつもあるわけじゃない。寧遠の幸せな時間が少しだけ過ぎて、日常が早々に元に戻った。

 実は叔父が寧遠に紹介したアルバイトは闇バイトだった。結果として寧遠は警察に捕まったが、未成年だったこともあって大目に見られ、厳重注意の後に釈放された。

 寧遠のことを心配していた母親の病状はますます深刻になっていった。

 叔父と仲違いをした後、二度と肉が送られることはなかった。しばらく必要な栄養素を摂取できなくなって、母子二人は体が骨と皮だけに痩せて、骸みたいになった。

 最近、寧遠は歩青雲たちから苛烈な暴力でいじめを受けていないが、常に陰険なまなざしで見られ、暴風雨がまもなく降ってくるような危機感を覚えていた。

 放課後、寧遠が家に帰る途中にチンピラに道を塞がれ、狭い裏路地に連れていかれた後に暴力を受けた。

 歩青雲は顧逸庭の邪魔があるから、学校では自分から寧遠に接触することなく、校外で部外者を使って寧遠を殴ることしかできなかった。

「最近、調子に乗ってるんじゃねえか」歩青雲が寧遠の耳元でニヤニヤと笑った。「だがな、てめえらの狼王は既にやられた。そして、これから神民がてめえらゴミどもを綺麗さっぱり始末するから、首を洗って待ってろよ!」

 寧遠が裏路地から出ると、空は既に暗くなった。寧遠は骨折した左足を引きずりながら家に戻った。

 人狼は生まれつき強力な自然治癒力を持っているため、足が骨折しても自然に復元できるが、そのためには十分な栄養の摂取が必要であり、ずっと飢えていた寧遠はそんな幸運がなかった。

 夜でも真っ暗な家に戻ると、寧遠は何か違和感を覚えた。

 これまで家に帰ると、当然弱々しかったのだが、寧遠は生きている人間の気配が感じられた。しかし、今日は何も感じなかった。

 寧遠は狂ったようにリビングにあるゴミをかき分けていると、やがて皮膚が灰色になり、体が硬くなった母親を見つけた。

 彼は自分が愛した『月』を抱いてリビングに座っていた。世界が崩れ落ちる音が聞こえていて、どれだけ酷い屈辱を受けても流したことがない涙が流れた。

 昼と夜を繰り返しながら、こうして一週間が過ぎた。

 寧遠は家から半歩も出なかった。学校は冬休みに入ったから、教師も会いにくることがなかった。寧遠はまるで世界から見捨てられてしまったのだ。

 この家と一心同体になり、ゴミの一部と化してしまった。

 今宵は満月の夜、人狼にとってひと月で最も耐えがたい一日だった。

 強烈な飢餓感が巨大な津波のように襲ってきた。飢餓感より耐え難い感覚などこの世に存在しなかった。

 彼の胃には地獄の業火に焼かれるような灼熱感が湧き上がり、全身の細胞は『養分をよこせ』と唸りをあげた。

 家の中にはすでに食べ物がなかった。『羊肉』だけではなく、人間の食べ物すら少しも残っていなかった。

 ──いや、まだある。

 寧遠は母親の遺体に目を向けると、口から思わず涎が溢れ出た。

 人狼同士の共食いは極めて珍しい。なにせ人狼は同胞の肉から必要な栄養を摂取することができないから。だが緊急の状況で、共食いは間違いなく発生していた。

 母親の死後、寧遠は遺体を綺麗にすると、家で唯一まだ清潔だと言える部屋に置いた。

 今は冬で、ここも乾燥していた。蚊や虫が発生しないから、一週間過ぎても、母親の遺体は概ね完全な状態だった。

 しかし、同胞を食べることと、母親を食べることは違った。

 それは自分を生んで育ててくれた人であった。彼女に苦労をかけたのに、まだ恩返しをしていない自分が彼女の血肉を自分の栄養にするのか。そうするより、いっそのこと自殺するほうがマシであろう。

 しかし、脳内では一つの声が繰り返して彼に語り掛けてきた。「生きなさい……トゥルディ……生きて……」

 ──「トゥルディ」、この名前は、「生き残る」という意味だ。

 立ち込める暗雲が月にヴェールをかけた。それはまるで、神がこれから行われることを見て見ぬ振りをすることを示していた。

 鋭い牙で最初の一口の肉を噛みちぎった後、寧遠はまるで千年前に初めて人肉を食べた遠い祖先のように、長く、そして哀しい狼の遠吠えをした。


 *****


「……赤ずきんは桶で水をたくさん汲んで、大きな石製の水槽に水をいっぱい入れた。オオカミの鼻の穴にソーセージの香りが入り、オオカミはその鼻で力強く嗅いで、そして下をキョロキョロ観察していた。

 オオカミは首を長く伸ばしたせいで、その体を下へすべらせて、屋根から落ちて、大きな石製の水槽の中で溺れて死んだ。それから、赤ずきんは嬉しそうにおうちに帰り、幸せな毎日を過ごしましたとさ。めでたしめでたし」

 温かみのある雰囲気の子供部屋の中で、一人の男子高校生が幼稚園に通う妹に物語を読み聞かせていた。今日の物語は「赤ずきんとオオカミ」だった。

 妹は聞き終えると、くりくりした目を大きく開いて興味津々の様子で聞いた。「お兄ちゃん、オオカミって人狼なのかな?」

 男子高校生は彼女の髪を搔きながら笑って言った。「オオカミはただの狼さ。人狼じゃないよ」

「お兄ちゃん、人狼を見たことある?」

 男子高校生は少し黙ってから言った。「ああ、あるよ」

「人狼ってどんな感じなの?」

 男子高校生は妹の頭を軽くポンと叩いて、「そんなこと聞かなくていいんだよ。早く寝ろよ」と言った。

「人狼見てみたいな」妹は目をキラキラさせながら興味津々な顔で言った。「みんな人狼が怖いって言うんだけど、狼とほとんど一緒なら、モフモフしていて可愛いじゃない?」

「人狼が可愛い訳ないだろ。奴らは世界最悪の生き物だ。醜くて凶暴で、あなたは食べられちゃうぞ!」

 牙を剥く狼に扮した兄の姿を見て、妹は驚くことなく、むしろクスクスと笑い出した。

「俺はふざけてるんじゃないぞ」男子高校生は厳しい口調で言った。「人狼はマジで悪い奴らなんだぜ。もう可愛いなんて言ったらダメだぞ。わかったか?」

 妹が不満そうに口を尖らせると、男子高校生は愛情を込めて妹の額にキスをして、布団をかぶせてあげた。

「よし。早く寝ようぜ。明日は学校だからさ」

 男子高校生──歩青雲は妹が目を閉じたことを確認すると、明かりを消して部屋を離れた。

 歩青雲の家は地域で一位二位を争うほど大きくて、装飾も豪華だ。

 議員である父親のおかげで、歩青雲と妹は贅沢な生活を送ることができたが、父親は二人に関心がなく、一緒に食事することもとても少なかった。

 最近、父親が歩青雲に対して唯一気にしていたのは、学校で口やかましい教師が、息子がクラスメイトをいじめたという話を学校に報告したことだった。

 父親も先に事情を把握せず、歩青雲をひどく罵倒し、彼に花瓶さえ投げつけた。『誰がお前を育てているのかもわからんのか』と言って、『選挙に影響するような騒ぎを起こすな』と怒鳴った。

 下の階から乱雑な足音が聞こえてきた。歩青雲は酔っ払った父親が帰ってきて、もしかしたら、愛人や娼婦を連れてきたのかもしれないと思った。

 三年ほど前のある夜、歩青雲の母親は外出中に人狼に襲われ、何とか一命を取り留めることができたが、重傷を負った。特に顔の傷は酷く、凄惨極まりなかった。

 父親は顔が醜くなった母親をゴミのように捨て、この一件を口実に、女遊びに夢中になった。

 母親は重傷と夫の浮気のダブルパンチの果て、苦しみに耐えきれずこの世から去った。

 もし歩青雲が人狼を憎んでいるように憎んでいる人間がいるとすれば、それはきっと彼の父親だった。

 歩青雲は父親に関わりたくなかったので、そのまま自分の部屋に戻ろうとしたとき、血の匂いが彼の鼻を刺激し、微かな助けを求める声も聞こえてきた。

「助……けて……」

 歩青雲は驚いてすぐ下の階にあるリビングに行くと、地面を転がり、そして這っている血まみれの父親の姿が見えた。

 父親の背後には一匹の人狼がいた。その人狼は灰茶色をした薄暗い毛皮で覆われ、全身が痩せこけていて、明らかに栄養不足だった。左足を引きずっていて、どうやら骨折しているようだった。

 次の瞬間、灰色の人狼は大きな口を開けて歩青雲の父親に襲い掛かった。悲鳴の中で、人狼は歩青雲の父親の肉を噛みちぎり、腹に飲み込んだ。

 歩青雲は全身に鳥肌が立ち、最初に妹のことが頭によぎったので、すぐさま二階への階段へ向かった。それと同時に、灰色の人狼が走ってきて、その行く手を遮った。

 歩青雲は歯を食いしばって、壁にかかっている装飾用のロングソードを手に取り、「サッ」と剣を鞘から抜いた。

「クソ人狼が、家から出ていきやがれ!」歩青雲が怒鳴った。

 冷たく光る剣先を目にしても、灰色の人狼は半歩も退く様子を見せず、人間の声と狼の遠吠えが混ざったような声で話しかけた。

「お前の神民の叔父はどこだ?」

 その言葉を聞いて歩青雲の目が急に見開いた。

 その瞬間、灰色の人狼は猛然と襲ってきて、歩青雲は慌てて剣を前方に振り下ろしたが、人狼は彼の攻撃を躱し、歩青雲の頸動脈のあたりを激しく嚙みついた。

「クソ人……狼……寧……がっ!」

 歩青雲は血が噴き出す傷口を抑えながら、言葉を出し切れず、力なく倒れた。

 そして、灰色の人狼は二階に上がった。廊下にたどり着くと、ある寝室のドアがゆっくりと開かれた。

「お兄ちゃん?」

 五歳くらいの女の子一人が目をこすりながら、ドアの外を見た。

 女の子が自分の兄ではなく、アイスブルーの瞳をした灰色の人狼が廊下を歩いているのを見たとき、思わず目を見開いた。

「ねえ、人狼なの?」

 灰色の人狼は何も答えず、まだ物足りなさそうに口の周りの鮮血を舐めながら、一歩一歩と女の子に近づいていた。

「お兄ちゃんは噓つきだ。だって、人狼はこんなにもキレイなの……」女の子は驚嘆しながら言った。「撫でていい?」

 灰色の人狼はその瞬間、動きを止めた。一匹の人狼と一人の人類が静かにしばらく互いを見つめた後、灰色の人狼は踵を返し、振りむくことなく去っていった。

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