第四夜:狼の遠吠え(1)お前の母ちゃんはゴミを喰うほど頭がイカレてるらしいな

「ミラーズシティの皆さん、おはようございます。昨夜は平和な夜でした。人狼によって殺された犠牲者はいませんでした」

 いつもと変わらない朝、いつもと変わらないニュース、まるで終わりのない悪夢のようだ。

 新しい一日が始まり、ベッドで目が覚めても、ニンユアンは今日に何も期待していない。自分の人生に何も期待していないと言うほうが正しいかもしれない。

 寧遠は決められた命令に従うロボットのようにベッドを降り、暗がりの中から手に取った学校の制服を着た。

 この部屋には電灯があるが、電球が早々に壊れてしまった上、電気代をしばらく滞納していたため、電気の供給もストップされてしまった。

 部屋の唯一の窓を開けたら、日差しが差し込むかもしれないが、外には首都区で最も汚いゴミ置き場の一つがあり、ずっと見ていると吐き気がするから窓を開けようとしないのだ。

『神扉閉じ給う時窓開け給う』という言葉があるが、寧遠が部屋のドアを開けても、外も同様に地獄なのだ。

 狭いリビングには山のようにゴミが堆積していて、人が足を置ける場所が全くないのだ。

 ゴキブリがビニール袋を行ったり来たりして、ハエが果物の皮に対して興味津々であり、そして蛆虫が食べ物のカスにおぞましいほど繁殖している。

 寧遠はゴミに埋もれてしまわないように注意しながらゴミの上を歩き、なんとかトイレにたどり着いた。

 水道は既に止められていたので、寧遠はかき集めた雨水を使って歯磨きと顔洗いを行った。前回いつ歯磨き粉を使ったかは、いつのことだったかもう忘れていた。

 リビングに戻ると、ゴミの山の片隅で髪がボサボサで顔が垢まみれで、体中も汚れている中年女性が、ちょうど腐った肉を口の中に放り込もうとしている姿が見えた。

「お母ちゃん!それ、食べちゃだめだ!」寧遠は慌てて彼女を止め、その手に持っている腐った肉を奪い取った。「食べられる物を探してくるから、こんな汚い物を食うな。病気になっちまうよ」

 女性はぼーっとしながら寧遠を見ていて、無意識のうちに自分の指を噛んでいた。十本の指の先端は長い年月で染みついた噛みつき癖のせいで、既に血まみれになっていて、骨すらうっすらと見えた。

「お母ちゃん、学校行ってくるね」寧遠が優しく母の手を口から引き離しながら、「俺が帰ってくるまで、待っててくれよ?」と言った。



*****


 寧遠が家を出て、秋の日差しを浴びた通りを歩くと、周りの人たちは賑やかだったが、彼だけはまるでこの世界から取り残されたように生気がなかった。

 彼は安平高校一年D組の生徒だ。学校への通学路では、周りには同じ制服を着た学生がいた──もちろん、皆制服は綺麗だった。

 寧遠のそばを通り過ぎる人は、思わず眉をしかめ、鼻をつまむか、わざと迂回した。それは寧遠のそばに一秒いるだけで汚くなることを怖がっているように見えた。

「待ってくれ!おい、千陽!なんでいつも速く走るんだよ!」

 一人の少年が息を切らしながら自分の友人を追いかけた。その非常に目立つ高身長と容姿ゆえに女子生徒から人気があり、学校のゴシップをよく知らない寧遠でさえ彼が誰か知っている。

 それは南宮樹だ。安平高校で有名なイケメンで、何人ものファンが存在するという、寧遠にとっては雲の上の存在だ。

 南宮樹がうっかり転ぶと、自転車でそばを通り過ぎた少女が心配になって自転車を停め、彼にハンカチを差し出した。

 その少女は浅い栗色の髪をポニーテールに縛り、容姿端麗でエネルギッシュな雰囲気ゆえ、思わず見とれてしまった。

 寧遠は自嘲気味に『転んだのが自分なら、あの子は見て見ぬ振りするだろう?』と思った。

 学校に着くと、一年D組の教室に入り、自分の席に向かったが──その机と椅子は掃除用具入れのそばにあった。

 机と椅子は落書きと傷跡だらけで、黒いガムさえ机にこびりついていて、どれだけこすっても取れなかった。

 傲岸不遜な男子生徒が長い足で寧遠のもとにやってきた。それはクラスの人気者──歩青雲ブーチンユンだった。そばにいる数名の取り巻きがニヤニヤと笑みを浮かべていた。

「休憩時間、焼却炉室に来い」歩青雲が寧遠に命令した。

 休憩時間になって、寧遠が言われた通り、全く反抗する勇気なく焼却炉室にやって来た。

 反抗したことがないわけではなかったが、代わりに滅多打ちや辱めを受けるだけだったので、それに比べたら、大人しく言う通りにした方が割に合ったのだ。

 焼却炉室の外までやって来ると、寧遠を迎えたのは一発の飛び蹴りだった。飛び蹴りが彼の顔に命中した。

 嘲笑の中、寧遠は鼻を抑えながら起き上がると、目の前に映っているのは歩青雲のあの傲岸不遜な顔だった。

「今更来たのかよ?一分遅刻じゃねえか、ゴミ野郎!」

 次に襲ってきたのは歩青雲の取り巻きからの集団暴行だった。取り巻き達はまるで人ではなくサンドバッグのように、寧遠に対して蹴って殴って、暴行を繰り返した。

「てめえ、肥溜めに住んでんのか?体が臭えんだよ!」

「お前の父ちゃんは殺されたんだろ?お前も死んだらどうだ?」

「お前の母ちゃんはゴミを喰うほど頭がイカレてるらしいな。なんで直接うんこを喰わねえのか?」

 拳より傷つくのは、極めて侮辱的な言葉だった。

 寧遠は既に聞き慣れていたが、自分の母親を侮辱されたら、やはり怒りを抑えることができなかった。

 寧遠は全力を込めて取り巻きの一人に殴りかかったが、拳が空振りすると、反撃として更に容赦のない殴打をお見舞いされた。

 しばらく殴っていると、歩青雲はどうやら満足のようで、手を横に振りながら取り巻きを先に行かせた。

 地面に這いつくばる寧遠を見ると、歩青雲はしゃがんで小声で言った。「まだ反抗する度胸があるようだが、お前、自分の立場忘れてんじゃねえか?このクソ……」

 彼が特に小声で言った最後の二文字を聞くと、寧遠の顔が瞬く間にこわばった。

「お前に面白い秘密を一つ教えてやるよ」歩青雲は口角を上げた冷酷な表情で言った。「俺の叔父さんはトーマスという名前の神民で、お前の父ちゃんを殺した者さ。お前の父ちゃんは死ぬ前にお前ら家族の写真を大切そうに持っていたんだぜ。お前がまた反抗するなら、叔父さんに頼んで、お前も、お前の母ちゃんも、殺してやるよ!」

 寧遠は顔がこわばったことに加え、顔から瞬く間に血の気が引いた。

 そのとき、近くから声が響いた。「君たち、何をしていますのか?」

 歩青雲が振り向くと、視線の先には一年C組担任の顧逸庭がいた。

「何でもないです。ただ戯れていただけですよ、先生」歩青雲はあっさりとした口調で答えた。

「クラスメイトをこんなに殴ったことを戯れと言いますか?」顧逸庭が厳しい口調で問い詰めながら、寧遠を地面から起こした。「お前はクラスメイトをいじめています。お前の行いはとても恥ずべき行為です!」

 歩青雲は肩をすくめながら、『俺に対して何ができる』という表情を見せた。

「今回の件は重大ないじめとして記録させてもらいます。同じことを繰り返すようなら、私は校長にあなたの退学を進言します」顧逸庭は冷徹に言い放った。「そして、今日から毎日放課後に保護観察を受けることになります。期間はあなたが間違った態度を改めるまでです」

「先生、話を大きくしても誰も得しないんじゃないですか?」歩青雲が冷笑を浮かべた。「父さんが知ったら、機嫌を損ねるかもしれませんよ」

「步議員は自分の息子がいじめっ子だと知れば、もちろん機嫌を損ねるでしょうね」顧逸庭は歩青雲の脅しを恐れることなく、「主要政策に教育改革を掲げる歩議員の息子は教育がなってないということが知られたら、民衆はまだ彼に投票しようと思いますか?」と問い詰めた。

 歩青雲は「チッ」と舌を打ち、そばにあるゴミ箱を思いっきり蹴り倒し、悔しそうな顔をして去った。

 顧逸庭は首を振った後、ゴミ箱を元の場所に戻して、寧遠に言った。「君は一年D組の生徒ですね?早く保健室に行って薬を塗って休みなさい。担任の先生には私から話しておきます」

 寧遠は黙って頷いた。

「もし、歩青雲がまた君をいじめるようなら、私に言いなさい。先生は君の味方ですよ」顧逸庭が優しく言った。「もちろん学校でも家庭でもです。困ったことがあったら遠慮なく言いなさい。先生が助けになります」

 顧逸庭は、寧遠の悪臭が漂う制服から恐らくは家庭にも問題があるのではないかと疑った。

 その瞬間、寧遠は父の死、母の狂気、家に溢れたゴミ……などを洗いざらい話したい衝動に駆られた。

 だが、家族の秘密を考えて、口にしそうになった言葉を呑んでしまった。

 ──この教師は話を聞いてくれても、人狼のことについては同情してくれないだろう……寧遠は心が沈みながらそう思った。


*****


 学校が終わると、寧遠はあの臭いが充満した家に帰ってきた。

 入口の郵便箱には溢れるほどの督促状の他に、厳重に梱包されていて中身が分からない小包があった。

 リビングに入ると、ボロボロのソファでぐっすり寝ている母の姿が見えたので、カビが生えたブランケットをかけた。

 一息つける小部屋に戻ると、壁にかかった写真を見て、目頭がだんだんと赤くなった。

 写真に映る和気藹々とした三人家族は、皆幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 当時、父は健在で母は美しく健康だった。家庭環境は必ずしも恵まれていたわけではなかったが、その頃が人生で一番幸せだった。

 歩青雲の言う通り、寧遠もその両親も人狼だ。

 彼らは他の人狼と同様に、ひっそりと人間社会の中で暮らし、つつましく毎日を過ごしながら、できるだけ人間に気付かれないように生きてきた。

 人間がいない場所では、両親は親しみを込めて自分の「狼名」──トゥルディと呼んでいた。

 人間社会で使う名前の他に、人狼は皆名付けられた狼名があって、それが人狼の誇りだ。

 彼の父の名であるシャムスは太陽を意味し、母の名であるカマールは月を意味する。

 寧遠の父親は勤勉なブルーカラーで、稼いだなけなしの給料は全て家族に捧げ、母親はこのお金を持ってブラックマーケットで肉を買い、家族においしい料理をご馳走していた。

 人狼は皆あのブラックマーケットで買った肉を羊肉と呼んでいる。なぜなら、その肉は『二本足の羊』、つまり、人間から来るものだ。

 二本足の羊の肉は生でも調理されても人狼は食べられて、そして必要な栄養を全て摂取することができる。

 ブラックマーケットで販売している羊肉は一般的に病院または葬儀場から運ばれたもので、品質はまちまちだが高価であるため、羊肉を買えず餓死する人狼は珍しくないのだ。

 上質な羊肉が秘密のルートで売られていることもあるが、少数の富裕層の人狼しか買うことができない。

 それから、寧遠の父親が失業してしまった。うっかり同僚に人狼であることがバレてしまったからだ。社長はすぐに彼を解雇し、解雇手当を支払わなかったばかりか、神民に告発するぞと脅したから、一家三人はその夜に引っ越しを余儀なくされた。

 それから間もなく、一家にわずかに残されていた蓄えを使いきってしまった。

 一家は一番安い羊肉すら買えなかった。普通の食べ物をどれだけ食べても栄養が足りず、全員が死の淵に立たされていた。

 家族のため、彼の父親は危ない橋を渡り、自ら二本足の羊を狩った。

 彼は二回成功した。しばらく、彼の家族は食べることに困らなかった。だが、三回目の狩りで、彼は神民に殺されてしまった。

 教会に目を付けられないよう、寧遠と母親は父親の遺体も敢えて引き取らなかった。

 移り気な人間とは大きく違って、人狼は生まれつき一夫一妻制を大切にしているから、伴侶を選んだら死ぬまで一生を共にする。そのせいで、配偶者を失うことは人狼にとって壊滅的な衝撃だ。

 夫を亡くした母親は精神病を患った。毎日狂乱状態になって、ゴミを拾ってくるだけではなく、食べられない物を口に入れている。

 一家は普段の支払いすらままならず、ましてや母親の医療費を準備することなど到底できない。

 母親の体は日に日に衰えていき、家のゴミは更に増え、日々の生活はますます苦しくなっている。

 寧遠が届いた小包を開けると、中には塩漬けされた羊肉の干し肉が入っている。それは、遠い親戚の親切な叔父が送ってくれた食糧だ。

 寧遠は空腹で仕方なかったのだが、我慢してそれを口にせず、この貴重な食糧を最愛の母親に食べさせることにする。──母親は寧遠にとって永遠の『月』だからだ。

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