第三案:limbus

57:凶悪犯にはいつだって異名がついている

 血生臭さといえば、前の卜東延事件の吐血で血まみれだった光景には及ばないし、一家の主の死体が居間の中央にぶら下がっていなければ、一目でここが犯罪現場だと分かることもなかっただろう。

 しかしよく見れば、名状しがたい恐怖ととてつもない威圧がストレスとなり伝わってくる。

 犯罪現場では始終悠々自適と、まるで天が落ちてきてもどうせ誰かが持ち堪えてくれるとでも思っていそうな馮艾保でさえ思わず背筋を伸ばし、珍しく真剣な表情をしている。これはかえって蘇小雅に安心感を与えた。

「謝警官、被害者の身元はもう割れましたか?」馮艾保は現場の仕切り役を引き取ったが、だからと言って安華区の刑事に上から目線な態度を取らない。

「はい。被害者はこの民家の持ち主で、男性の方はシャンイーンミーンといい、下級のセンチネルです。彼の妻はチャオイーチェン、下級のガイドで、二年前から結婚しています。この民家はもともとリーアンさん、すなわち第一発見者のもので、孫娘が結婚し、彼ら一家に贈ろうと用意したものでしたが、孫娘夫婦がファンリン市に転勤し、当地でも家を買ったので、この民家は空き家となりました。黎安さんのような年寄り一人で民家を両軒をも整理整頓するのは到底できず、結局売却することにしました」謝警官は説明しながら小型コンピュータをあちこちいじり、資料を馮艾保と蘇小雅に送った。

 馮艾保はすぐに資料を開けなかったが、ざっと目を通すようにと蘇小雅に目を配った。

「第一発見者と通報者は?」

「黎安さんはそんな年ですし、ショックを受けてしまったので、先に帰して休ませることにしました。供述が終わったら病院に行かせますが、何か彼女に聞きたいことはありませんか?」謝警官には馮艾保相手でも、センチネルを前にしたミュートがよく表すような緊張感がなく、いつも筋道を立てて話している。

 蘇小雅は彼に好奇心を込めた眼差しを向けた。どうりでミュートでありながらもセンチネルとガイドが引率する警察隊で地域刑事班の班長を務められるわけだ。優秀さが並外れているに相違ない。

「ちょっといい?」馮艾保は棚に置かれた瓶に入っている胎児を見てから、あまり現場に注目を向けず、汪監察医に死体の状況を尋ねてもいなかった。

「ええ、お連れします」謝警官ことシェイイーヘンは蘇小雅に目を向けた。「こちらのガイドさんもご一緒ですか?」

「蘇といいます。小蘇と呼んでも構いません」蘇小雅は慌てて自己紹介を済まし、頭を横に振って謝警官の誘いを断った。「僕は大丈夫です。ここに残って何か手がかりはないか探してみます」

 それを聞いて、謝警官は複雑な苦笑いを浮かべたが、これ以上追及せず声を潜めて返事する。「若者が現場に残って経験を積むのもいいですね。では馮警官、どうぞこちらへ」

 馮艾保は現場を出る前に蘇小雅に一瞥をくれた。サングラス越しだが、彼の目に称賛が込められていることに蘇小雅は気づき、気分も少し良くなった。

 二人がいなくなったあと、現場には中央警察隊の人間しか居残っていない。蘇小雅と汪監察医とは数回顔を合わせている知り合いであるため、彼は挨拶をかける。

「馮艾保に現場に残るように言われたのか?」汪監察医は紙に何やら書き込みながら、俯いたまま蘇小雅に尋ねた。

 蘇小雅は肩を竦めてみせる。はっきりとは言っていないが言外に匂わせているし、ここを出る前の眼差しもそう伝えている。

「男性被害者の死亡時刻はおよそ六時間前。あとで下ろせる」汪監察医はペンの先をぶら下がっている男性に向ける。軋む音はすでに止んでいる。先ほどまで軋んでいたのは初歩的検証で移動させたからかもしれない。

「では女性の方は?」わざわざ分けて伝えているのだから、死亡推定時刻が結構ずれていると予想できる。

「女性の方は八、九時間前だろう。ところが死因は……」汪監察医は少し躊躇ってから顔を上げて、このあどけない目が大きく開き、幼さの残っている若いガイドを見つめる。「心の準備はできたか?」

「はい」蘇小雅は律儀にうなずく。汪監察医に未成年の子供だと思われているのを知っているが、センチネルはガイドに庇護欲を掻き立てられる本能を持っているのもあり、蘇小雅は少し気恥ずかしさを覚えたが抵抗とまではいかなかった。

 しばらく蘇小雅を見つめ、彼が強がっていないのを確認してから、汪監察医は「見せてやるから、ちょっとここへ来てくれ」と言った。

 二人はサイドテーブルのそばで足を止めた。女性は腹部の上に両手を重ねている。顔は安らかで、血色さえ残っていれば、命を失ってずいぶん経っているのではなく、ただ眠っているように見えなくもない。

 距離が縮まり、蘇小雅はすぐさま違和感を覚えた。

「彼女の手……アングルが不自然な気がします。ちょっと低すぎたんじゃないでしょうか?」蘇小雅は躊躇いつつも汪監察医に尋ねる。

 女性死体の身に洋服が纏っている。白い麻生地に青色の花模様、型紙はレトロな風格があり、七〇、八〇年代そこらの雰囲気を思わせる。洋服は体にぴったりとしていてくびれを引き立てていて、スカートの裾はよく開いている。

 人間は横たわって両手を腹部の上に重ねているのなら、厚みを持っている掌は体より少し高めの位置にあるのが普通だ。しかし今目の前の女性死体の掌は体より低いところにある。まるで窪みにはまっているようだ。

 忽然蘇小雅はひらめき、棚に置かれているガラス瓶に一瞥してから、信じられないといった風に平然としている汪監察医に目を向けた。

 若いガイドも気づいたのを見て、汪監察医はうなずく。洋服のボタンは体の前方にあるため、先ほどの検視ですでにいくつか解けている。彼はペンの先で少しだけ洋服をめくり、青白い肌とぽっかりと窪んでいる腹部が露わになる。

 女性死体は子宮をまるごと掘り出されたのだ。しかも死体は犯人に血痕を綺麗にされていて青白さしか残らず、いかにも真実味が欠けている。

 蘇小雅は思わずはっと息を飲んだ。喉が言葉もうまく出せないほど乾いていて、彼は固唾を数回呑んでから「つまり、犯人はこの女性を殺してから子宮を掘り出し、その胎児をホルマリン漬けにしてから、死体を綺麗にしたんですか?」と尋ねる。

 汪監察医は若いガイドを見てから、穏やかな口ぶりで「殺してから子宮を掘り出したんじゃなくて、生きたまま子宮を掘り出したんだ」と言った。

 蘇小雅は汪監察医におぞましいものを見たような目を向ける。信じられない。何が『生きたまま子宮を掘り出した』っていうの?

 汪監察医はそれ以上説明をせず、また平然と語り続ける。「細部と手がかりなどは解剖しなければわからない。ただ……もし我々が予想した通り、今回もあの事件の続きだったとしたら、解剖の結果はおおよそ見当がつく」

「予想した、あの事件の続きって?」蘇小雅は先ほどの謝警官の情緒の異常さを思い出す。惨殺事件を前にした怒りというより、無力感に苛まれているような顔だった。

 馮艾保の反応も変だった。普段の彼なら、手がかりを掴むために現場を虱潰しに検証するところだったが、先ほどの彼は注意を第一発見者に向けていた。今の汪監察医の言っていたことを照らし合わせ、一つの説が蘇小雅の脳裏に浮かび上がる。

「昔にも……似たような事件があったんですか?」しかも何回も。

「うん」蘇小雅の問いに汪監察医はうなずいて見せる。「君は入職したばかりだから詳細はわからないだろうが、あの事件は昔マスコミにも報道されていた。さすがにディテールは報道されてなかったが、マスコミは犯人をララバイキラーと呼んでいた」言い終わり、汪監察医は心底嫌そうに口元を歪める。マスコミとこの異名への嫌悪感が溢れている。

『ララバイキラー』という名を聞いて、蘇小雅はすぐさま昔読んでいた報道を思い出した。

 彼が中学三年、あるいは高校に上がったばかりの頃だろうか。三年ほど前の出来事だった。クラスにはとあるゴシップ雑誌社の雑誌を愛読しているクラスメートたちがいて、その雑誌社は有名人や政治家のゴシップのほかにも未解決事件コーナーがあり、いつも信憑性に欠けた事件が載っていた。当時の蘇小雅も好奇心旺盛で、友人たちの傍らで読んでいた。あれは事件の報道というより、サスペンス小説のようなものだった。

 ララバイキラーは八回も連載していて、連載当時は読者たち誰もが続きを待ちわびていた。

 大まかにいえば、警察隊に大いに悩ませている得体の知れない連続殺人犯が次々と下級センチネルと下級ガイド夫婦を殺しているというストーリーだった。夫婦は総じて仲睦まじく、自分たちだけの家を買ったばかりで、待ち望んだ子供をできている。

 ララバイキラーは夫のほうが仕事に出るや外出時、妻一人留守している時間帯を狙って侵入し、妻を殺して胎児を取り出す上にホルマリンに入れて標本にする。そして妻の死体と標本を夫が帰宅したらすぐ目に入るところに置いておく。家に潜んでいた犯人は夫がショックを受けた瞬間を狙い絞殺し、首を吊ったように工作し、いかにも夫が妻を殺害してから罪を恐れて後追い自殺をしたように見せかける。

 ララバイキラーという名をつけられたのは、犯人は片付けが終わって現場を出る前に、子守唄を繰り返し再生で流すからだ。第一発見者は子守唄を聞いて、なぜこんな大音量で子守唄を繰り返して流すのかと隣人のところに行き、そして目の前に繰り広げられたおぞましい光景に腰を抜かせる。

 あの報道にこのようなことが書いてあった。「警察の怠慢によりこの事件は七回も発生している。半年の間隔を開けて首都圏、二つの衛星都市の七つの地域を跨っていながらも、犯人はいまだに捕まっていない。これほど杜撰な無能警察は、本当に我々が求めている公僕に相応しいのだろうか?公僕たるものがこれでは、非難されるべきなのではないだろうか?」

 この上ないセンセーショナルさである。クラスメートはガイドばかりで、親族が警察隊で働いているものも少なくなかった。彼らは家族にこの事件の真実性について尋ねたが、あんな風説を真に受けるでないと全部はねつけられたそうだ。

 しかし今思えば、あの報道は多少尾ひれをつけただろうが、大まかの内容はまんざら嘘でもなかった。

 あのゴシップ雑誌はいまだに発行している。売り上げは全国一位とまではいかずとも、二位くらいはあるだろう。あの未解決事件コーナーも現存しているが、内容は子供でさえも真実性を疑うほど猟奇になっている。

「あの事件、フィクションだと思ってました……」蘇小雅は過去の事件データを読んでいる。中央警察隊のデータベースに収納されている事件の量があまりにも多く、彼は直近一年半の事件の資料を読み終えたばかりで、このララバイキラーの詳細にはまだ触れていない。

「残念ながら、フィクションではないんだ……」汪監察医はため息をつき、女性被害者の洋服の襟を正した。助手が二体の死体を解剖室に運ぼうと現場に来ている。「詳細は馮艾保に聞いてくれ。局内のデータベースにも資料が入ってる。今度こそ犯人が捕まるといいな」

 そう言って汪監察医は持ち物を片付けて、二体の死体と胎児の入ったガラス瓶を運んだ車と一緒に現場を離れた。

 室内にはまだ鑑識係が居残っているというのに、蘇小雅は背筋から心底まで悪寒を覚えた。彼は忙しなく居間を出て、玄関へと繋がる廊下に立ち、この広々とした空間をぼーっと眺めている。

「どうした?」後ろから馴染みのある声と気配がし、若いガイドの怖気を吹き飛ばした。彼は振り向いて、飴を口にしている馮艾保の姿を捉える。

「供述が終わった?」

「終わった」

「子守唄を聞きつけて様子を見に来たのか?」彼は黎安さんが現場に立ち会った理由を尋ねている。

「ははっ違ったね」馮艾保はサングラスを外した。細めた目は笑ったように見えるが、そうではないと蘇小雅は知っている。「汪先輩から例の報道を聞いたのか?あのララバイキラー」

「そうだ。僕が中学三年生から高校一年生の頃に、あの報道を読んでいた」蘇小雅 は自ら馮艾保のほうへ近づけた。この方が悪寒が収まるのだ。「で、音楽は流れていたのか?」

「あるにはあったが、子守唄ではなく『埴生の宿Home Sweet Home』という曲だったんだ。多分君が知らない歌手の曲で、組曲というが……あとで聞かせてやるさ」馮艾保は口の中の飴を噛み砕き、蘇小雅と同じように、人間が暮らしていた気配は残っているものの、温もりが失われていた空間に目を向けた。

「君に事件の詳細を聞くようにと汪監察医に言われた」

「帰り道で話してあげるよ。……まったく、もう三年間も起きてなかったのに……」

 馮艾保は髪を掻き立てて、サングラスをかけて民家を出る。蘇小雅も慌てて彼の後ろにつく。

 民家を出た途端、二人はふんだんにフラッシュを浴びた。馮艾保は一瞬呆気にとられたが、すぐ蘇小雅を引っ張って避けた。凛とした雰囲気を身に纏い、若いガイドのエンパスempathは引き裂かれたような痛みが走り、マインドスコープに引っ込んだ。

「よ!馮警官じゃないか!久しぶりだねえ!今回はお前が担当するのかい?」フラッシュが止み、二人はようやくカメラを構えた人間の姿を捉えることができた。およそ五十歳くらいの男で、整った顔をしながらも不気味な笑みを浮かべている。いかにもおこがましく、下心を持って何かを探っているようだ。

 馮艾保はそんな彼に一瞥したが何も返事せず、蘇小雅を引っ張って彼の前を去った。

「おい!馮警官!ララバイキラーがまた事件を起こしたんじゃないのか!おい!」男は無視されたのを意に介さないという風にさらに声を上げる。まるで声がコミュニティに響き渡そうとしているようだ。

 それでも馮艾保は動じないまま車に乗り込んで、男の声を車外に断ち切った。ゴオンとエンジンが唸り、車は走っていった。

 二人が去って、男も叫ぶのをやめた。舌打ちをして「生意気なんだよ、クソガキが」と言い、足元に転がっていた小石を蹴飛ばした。

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