56:のどかな住宅区に起こった一家殺人事件

 現代医学の力およびセンチネルの常軌を逸する回復力で、骨折の類いはもう少し時間がかかる以外、馮艾保が病院を出た時点でほかのかすり傷や青あざなどは八割程度回復していて、あと一、二日もすれば全快するといったところだ。

 それに比べて、鼻筋の傷はひときわ目立つ。二日目にオフィスに入った途端外回りに出ていない同僚たちをどこの凶悪犯に襲われたのではと驚かせ、慰めの言葉をふんだんに浴びせられた。上級の馮艾保にここまで深手を負わせられる人間もそうそういないから、無理もない。

 馮艾保が笑って同僚たちを誤魔化す光景を岳景楨は捉え、そして蘇小雅に目を向けた。

 若いガイドは心配そうな目つきで遠巻きに馮艾保を眺めている。その顔に不安以外にも怒りが込められているが、怒りの矛先は馮艾保ではない。

 岳景楨は少し考えてから、腕に装着している小型コンピュータに入ったばかりの資料を一瞥し、蘇小雅に声をかける。「蘇小雅、ちょっとこちらへ」

「はい!」蘇小雅は忙しなく立ち上がって上司の後ろについていき、律儀にドアを閉めた。

 ブラインドは下ろされて、外からの視線を一切合切遮った。

「まあ座れ。何か飲み物でも?」岳景楨は冷蔵庫を開けた。中には炭酸飲料といったソフトドリンクが入っている。

 蘇小雅は塩レモンサイダーを手に取って蓋をひね開けて二口飲んだ。

「研究所から相性テストのレポートを送られてきた。お前らは刑事だから、法律に沿ってまずは私という直属上司を通知するようになっている」岳景楨は雑談を好むタイプではなく、まっすぐに本題に入ってレポートを映し出す。「お前と馮艾保の相性は小数点四位以下切り捨てで97.235%だ」

「えっと……」その真っ赤な数字を見つめて、蘇小雅はなぜ馮艾保の両親が薬を盛ってでも二人をボンディングさせるようとする理由がわかったような気がした。

 しかし幸いなことに、彼らはボンディング熱のせいでセックスをしたが、肉体も精神もボンディングしていない。蘇小雅はこのことで安堵し、ざまあみろとさえうっすら思っている。

「なぜ昨日お前ら二人が揃いも揃って休んだのか、馮艾保の傷は誰がやったのかを詰るつもりはない……」岳景楨はそう言ったが、これは事実を知っているが二人のプライバシーを尊重するべくあえて言及しないだけということを意味している。

 それは蘇小雅にも伝わった。感謝感激という風に上司にうなずく。昨日馮艾保が激怒した何思に エンパス(empath)に甚振られ、ネズミもカナリアにつつかれて被毛がまばらになって無数の爪痕を残されたから、今日になってもあれほど目立った外傷が残っていることも黙っておこう。

 もし相性のことが何思にバレたら、彼は警察局に駆け込んで、馮靜初保澄夫婦に嵌められないように馮艾保と距離を置けと、蘇小雅に退職を求めてくるだろう。

 蘇小雅は昨日の午後、何思が馮艾保を散々殴った後、自分の心配そうな顔を見ると、目が眩んで、その場で尻もちをついたことを思い出した。その時、何思はキーキーと鳴くネズミを掴んでいて、険しい目つきでネズミの性器を睨んでいた。何思がいっそのこと禍根を絶とうかと考えていることは誰から見ても明白だ。

 馮艾保ほどのセンチネルでも思わず両脚を寄せた。少し慌てた顔でびくびくしながら何思の指を見つめて何一つ言葉を出せなかった。

 睨み合いがしばらく続き、ちょうど帰宅した蘇經綸が楽しげにこの局面を打開してくれなかったら、二人はもう一日休むことになっていたかもしれない——蘇小雅は精神のためで、馮艾保は傷を治るためだろう。

 最後に何思は暗い顔でネズミを投げて馮艾保に返し、自分のカナリアをしまった。そして複雑な目つきを蘇小雅に向ける。「小雅、お前……」

 何思の目も節穴ではない。紺は棚に登って釣り上げた目で捕食でもしようとするようにカナリアを睨みつけている。あんな風に睨みつけられているのだから、おとなしくネズミを馮艾保に釈放するしかなかった。

 蘇小雅は頬を赤らめたが、依然としてしらを切っている。紺はただの猫だ。ただの猫が悪巧みなんてするわけないだろう?

 紺が仄かに蘇小雅の態度を示したこともあり、我が子を守ろうとする獅子のような何思も怒りが冷めて、肩をすくめで身を引いた。馮艾保に両親にこれ以上蘇小雅を嵌める機会を与えるなと脅かしをかけてから、キッチンに引っ込んで蘇經綸の料理に付き合うことに……あるいは旦那に慰めてもらうことにした。

「蘇小雅、馮艾保の両親はどのような人物なのか、お前もわかっただろう」岳景楨の厳しい声が若いガイドを現実に引き戻す。厳かな目で見られ、蘇小雅は思わず身震いし、力強くうなずいた。

 馮靜初と保澄がいかに社会に貢献したのかを言っているわけではないのは明白だ。彼らがいかにセンチネルとガイドのボンディングを強く認め、病的に息子をコントロールしようとしていることだ。

 岳景楨は満足げにうなずく。蘇小雅が理解しているのを見て、続けた。「お前と馮艾保はまだボンディングしていない。これからはくれぐれも注意してもらいたい」

「わかっています」蘇小雅はまたもや怒りと嫌悪感がこみ上げてきたが、現時点ではそういった感情を抑え、あの夫婦を避けるしか手はない。

「ならいい。何かあったら頼ってくれ。さすがに少しの助けは提供できる。遠慮などいらんぞ」これこそ岳景楨が蘇小雅を呼んできた理由だ。

 十年前、まだ特捜班班長ではなかった彼はすでに馮靜初保澄夫婦のやり方を目の当たりにした。そして蘇小雅と同じく憧れていた人物像に幻滅した。あの頃の彼にできることはそう多くなかったが、幸いなことに馮艾保と何思の相性も40%ほどとそんなに高くない上に、お互いにその気が片鱗もなかったから、馮家夫婦にも手を出す隙が無く、無事に何年も乗り越えてこられたのだ。

 しかし蘇小雅と馮艾保の相性は高すぎた。これほどの相性を持ったセンチネルとガイドは一目惚れするほうが普通だから、この二人はいったい互いのことをどう思っているのか、岳景楨もうまく掴めずにいる。だがそれは二人に手助けをしない理由にはならない。

 いずれにせよ、馮家夫婦は蘇小雅を逃す気が毛頭ないだろう。息子のためにも、自分たちの信念のためにも。

「班長、ありがとうございます」真摯な善意は自然と蘇小雅に伝わった。彼も真摯に感謝を込めて、岳景楨に顔を綻ばせた。

「ああ。もう出てきていいぞ」岳景楨もこれ以上蘇小雅を留めず、手を振って若いガイドを個室から出させた。

 蘇小雅が炭酸水を持って岳景楨の個室を出る。どうやら同僚たちから馮艾保への慰めも一段落がつき、それぞれのデスクに戻って仕事に没頭している。今しがたまで慰められまくった馮艾保だけが給料泥棒さながら、ガーゼを張られたままの顔でゆったりと椅子に体を持たれてスマホをいじっている。

「何してんの?」蘇小雅は顔を寄せて聞いた。

「な」馮艾保はこれ以上何も言わずにスマホを突き出せる。

 研究所から送られてきた相性レポートだ。馮艾保がはっきり言わないのは無理もない。同僚たちに聞かれたらまた注目されるに決まっている。

「まさかこうなるとはね」生々しい97.235という数字を見て、蘇小雅は心底うざそうに炭酸水を飲み込む。

「低くはないだろうとは思ったけど、こんなに高いとは予想外だった」馮艾保はため息をつき、腫れあがった鼻筋を触る。

「まあ、どっちにせよ僕たちとは関係ないことだし」蘇小雅はレポートから目を離し、スマホを馮艾保に返した。「今日は再診日だろう?付き合ってやろうか?」

 病院の治療マシーンは折れた鼻筋をもっと早く治すことができる。二日おきに一回、馮艾保の体質もあるし、四回くらい使えば問題ないと医者が言っていた。しかも医者が言っていたのは「前と同じく、三回再診して来ればいい」とのことだ。両親に深手を負わせられたのは今回で初めてではないのかと蘇小雅は勘ぐってしまう。

 しかし彼にこんなことを聞く資格がないし、何思に聞くのも忍びない。また激怒して馮艾保を殴ったらどうする?ネズミが可哀想だ。

 苦悶が湧きあがり、苛立たしくこめかみを掻く。馮艾保はなかなか返事をくれず、イライラして彼を睨みつく。「どのみち、僕はついていくよ」

 馮艾保は肩を竦める。「別に。君が良ければ」

 結局あの日、彼らは再診を受けられなかった。

 二人はやることのないまま午前が過ぎていった。馮艾保はスマホをマナーモードにしてゲームをこっそり遊んでいて、蘇小雅は過去の事件の資料を読み漁った。彼が便利に資料室を出入りし、セキュリティレベルの高い事件を読めるためにも、馮艾保はここ数か月の間通行証を蘇小雅に貸したままだ。

 予約を入れたのは午後三時半だ。およそ二時になったところで、蘇小雅は読み終わった資料をデータベースに返そうと片付けて、まとめていた。

 馮艾保はサングラスをかけて、首を傾げた体勢で椅子にもたれている。ぼーっとしているのか寝ていたのか、鼻は腫れ上がってガーゼに覆われているが、露わになっている口と顎は綺麗なままだ。蘇小雅はまたもや見入ってしまう。

「何を見ている?」馮艾保はいきなり声をかけた。

 蘇小雅も特に驚いていない。エンパスempathを通して馮艾保が起きていることは知っていたし、どれほど見られれば反応するのか彼も気になっていた。

 十分二十六秒……三十秒。

「君の母の鼻筋、どうなってるのかなって考えてるところ」オフィスにはまた例の事務職員しか残っておらず、あの人も資料入力に没頭しているから、蘇小雅もわざわざオブラートに包まずにはっきり言った。

「殴るにしても顔は避けるさ。一応母親だからね」喧嘩はしたし扼死させるところだったけど、顔に傷つけない分にはメンツは立ててやったと馮艾保は言外に匂わす。

 蘇小雅はうなずく。残念という気持ちを誤魔化さずに顔に浮かべている。

 馮艾保は笑い出したが、鼻の傷もあってすぐに笑いを止め、ため息をついた。

 痛そうだ。蘇小雅もどうすれば助けられるかわからず、時計に目をくれて聞く。「じゃあとりあえず病院に行く?早めに治療マシーンを使わせてもらえるかもしれない」

 馮艾保は返事する時間もなく、岳景楨の個室のドアが開いた。中年ガイドは二人を見て顔を上げる。「ちょうどいい、事件が入ったんだ。今すぐ現場に向かって来い。資料は送っておいた。」

 間もなく馮艾保と蘇小雅の小型コンピュータにピピっと通知音が鳴った。蘇小雅はすぐ資料に目を通した。通報番号と現場の住所が書いてある。監察医と鑑識課はすでに向かっているとのことだ。

 現場はアンファー区住宅区にある民家で、通報者は第一発見者ではなく、第一発見者の孫だ。彼は週三回に祖母を訪れているが、今日はいくらインターホンを鳴らしても返事がなかった。玄関に鍵が掛かっていないことから見て、祖母は少しだけ外出して、すぐに帰ってくるはずだったと考えた。

 祖母にもしものことがあったらと焦り、彼は隣人に何か手がかりはないかと尋ねることにした。もしなかったら通報するつもりだった。

 幸いなことに、彼の祖母は確かに隣人の家にいた。ただ不幸にも祖母は気を失っていて、彼の前で繰り広げられていたのは、血生臭い事件現場だった。

 中央警察局から安華区の現場までは車でおよそ四十分を要する。管轄署はすでに現場に初歩的検証を終えており、その上で中央警察局特捜班に援助を求めることにした。

 安華区は首都郊外に位置する新興地域で、若き夫婦および定年退職した年寄りが住民の多くを占める。人口数は少なめで、整理整頓の行き届いた公園緑地が多く、住民の催しや憩いの場にかなり適している。

 現場となった民家はやや古びたコミュニティにあり、安華区の都市計画が立つ前から存在している。住宅価格は低めだが交通の便が良く、他の地域から流れ込んできた住民が少なくなく、若者の割合も大きい。そのため、この時間帯ではコミュニティの住民はほぼ外出しており、馮艾保と蘇小雅は遠くからでありながらも警察車両と公務車両の姿を捉えた。

 民家に面する道が広く、彼らは適当に車を止めて、直ちに犯罪現場に向かった。

「どういうことだ?」馮艾保は玄関のそばに立っている安華区刑事に尋ねる。彼は珍しくミュートでありながらも刑事を務めている。整った容姿をしていて、垂れ気味の両目は親近感を抱かせる。が、今はくよくよと眉間にしわを寄せている。

「馮警官、お久しぶりです」彼は馮艾保のことを知っていて先に挨拶をかけた。

「これはこれは。シェイ警官、まさかここで会うとは」馮艾保も彼のことは知っているようで、サングラスを外して挨拶を返した。

「あなたが来てくれたのは心強いですが……」謝警官は鼻筋を揉んでため息をついた。彼は礼儀正しくあえて馮艾保の傷に触れずに本題に入る。「あとで現場に入るときは驚かないでくださいね。正直ちょっと……おぞましいです」

 彼の語尾には躊躇いが込められた。それは現場がおぞましいというだけではなく、別の意味を含んでいることに蘇小雅は気づいた。ただそれはいったい何なのかは把握できかねている。

 馮艾保はうなずき、低い声で礼を言った。そして蘇小雅に振り返って尋ねる。「心の準備はできたか?」

 若いガイドは一深呼吸をし、力強くうなずいた。「大丈夫」

 本当のところ、まだ死体が片付けられていない現場を見るのは、今回で初めてだ。ホワイトタワーでも死を目の当たりにしていたが、当時は状況が混乱していたし、陳雅曼の死に方はグロデスクなものではなかった上に、すぐ搬送されていったので、彼にはさほどの精神的な刺激やストレスなどを与えていなかった。

 前回の卜東延事件も監視カメラ越しだったし、その瞬間では死んでいなかったので、見た目こそおぞましかったものの、本物の犯罪現場ではなく、あまり衝撃を受けていなかった。

 そして今の彼は確かに緊張している。エンパスempathでぎっしりと自分自身を抱き締めている。

 謝警官も今回馮艾保についているのは馴染みのガイドではなく、かなり若く、未成年に見えなくもない小さなガイドであることに気づいた。躊躇いはあったがそれを口にすることはなく、先頭に立って二人を室内に連れ込む。

 古びた一戸建てだが、大幅にリフォームをされており、室内は流行りの仕切りなし形式となっている。居間、キッチンとダイニングルームの間に隔てがなく、広々とした空間に念入りに選んだであろう家具から、この家の主がいかに心を込めて暮らしているのかが見て取れる。

 ここは、居心地の良い場所、のはずだった。

 蘇小雅は心の準備ができているつもりだったが、現場の状況を目にした瞬間、彼は自分自身の未熟さを痛感した。

 広々とした空間に、居間であろうという位置に、男性の死体が一体ぶら下がっている。風のせいだろうか、死体は微かに揺さぶられ、天井を軋ませている……

 そして男性死体の真下には蹴られて倒れている椅子がある。椅子の隣に大きなサイドテーブルが置かれており、その上で女性の死体が仰向けに横たわっている。女性は奇妙な顔をしている。自分の見間違いだろうか、なぜか口角が少しだけ上がっているような気がした。

 その女性も当然死体だった。安らかに目を閉じていて、目尻から髪の生え際まで一抹の血痕が引いている。両手は腹の上に重ねていて、両足はサイドテーブルの端から不自然にぶら下がっていて、血色は完全に失われている。まるで蝋人形のようだ。

 二体の死体からそう遠く離れていないところには、多くの家族写真が飾っている棚がある。その棚の真ん中に理科教室でよく見かけるような標本瓶が置かれている。その標本瓶に液体がたっぷりと入っていて、そのなかに蘇小雅を粟立たせ、心臓の鼓動を早め、言葉を失わせるものが浸かっている。

 馮艾保も一言も発さず、ただ飴の包装紙を剝いて口に入れて、蘇小雅にもあげた。彼はびくりと震えて、飴の存在さえ忘れて顔を上げてセンチネルを見つめて、曖昧な物言いで尋ねる。「あのガラス瓶に入ってるのって、胎児?」

「そう」馮艾保は彼に一瞥をした。シンプルな発音がずっしりとのしかかった。

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