58:あれが連続殺人事件だと、最初は気づいていなかった

「あの人は誰?」蘇小雅のエンパスempathは引っ込んだままだが、本能的に馮艾保の腹立たしさを捉えた。もはや嫌悪と怒りに近いそれはセンチネルの凛とした雰囲気と相まって、若いガイドに切り刻まれるような痛みを与える。

 あの中年男子がろくなものではないのは明らかだ。

「『未解決犯罪追撃』というコーナーのメインライターだ。君も知っているだろう?」馮艾保は蘇小雅に一瞥する。「殺人鬼の異名つけに躍起になっていてね、前の卜東延事件も、秦夏笙にはセレブ・ブラック・ウィドウという名前をつけたんだ。彼のネーミングセンスはと言えば……まあ」

 セレブ・ブラック・ウィドウ?蘇小雅は眉をしかめる。彼はいまだに秦夏笙を同情していて、責める気になれないのだ。なおさらこの異名を好ましく思うことができない。

「つまりララバイキラーっていうあだ名も彼がつけたのか?」蘇小雅は尋ねる。

「そう」馮艾保は少し頬を掻く。片手でハンドルを握り、片手でハンドルに置きっぱなしで、気だるげに語る。「いったいどこの誰が情報をリークしたのか、こちらもよく掴めていない。この事件自体は公にしてなかったし、協力している報道機関とも秘密保持契約を結んでいる。連続殺人事件を公にすると、集団パニックを引き起こしかねないからね。それに、あれが連続殺人事件だと、最初はこちらも気づいてなかったんだ」

「どういうこと?」蘇小雅は時間をあの男のような野次馬に費やしたくない。ああいう人間はハイエナのように、腐肉の匂いを嗅ぎつけた途端群がり、遺された人間の気持ちを顧みようともしない。

 これは蘇小雅があれからあの雑誌やあのコーナーを読まなくなった理由でもある。ララバイキラーが大ヒットして雑誌もライターも味を占めたせいか、あれから事件の描写はあたかもライター本人が目撃者かのようになっていった。その後、とある母親が子供を殺したのに、子供をコヨーテに連れ去られたように仕立てた事件を扱ったのだが、そこであの母親の残酷さ、生後四か月の赤ん坊にどうやって手を下したのか、どうやって社会の人々の目を騙したのかなど、詳しく生々しく書き連ねていた。そのせいで当の家庭は離れ離れになり、例の母親は最後に自ら命を絶った。

 しかし実際この事件では、母親も確かに容疑者の一人であったが、父親のほうが容疑が深い上に、父親の不倫相手三人に彼女たちの子供二人、父親の兄弟四人、母親を慕っているストーカーとほかにも参考人と容疑者がいたのだ。

 何より胸糞なのは、母親は自殺未遂で植物状態になり、しかも三か月後に事件は解決した。子供は本当にコヨーテに連れ去られたのだった。母親も父親もその他容疑者全員は潔白であり、この事件は不幸がいくつも重なった意外に過ぎなかった。

 もちろん雑誌が謝ることはなかった。責任転嫁に長けている彼らもといあのコーナーのメインライターは、わざわざ記事を書いて、この事件及び結果の責任をすべて警察のほうになすりつけた。自分たちは警察の行為に目を光らせているに過ぎない。母親が自殺したのは警察の保護が行き届いていなかったせいなのではないだろうか?もしあの記事がなかったら、警察はたった三か月で事件を解決できただろうか?これ以上不幸が続かないように、くれぐれも杜撰な部署を切り落とし、仕事の効率をさらなる高めていただきたい、と書かれていた。

 蘇小雅もあの記事を読んだが、なんといえば良いんだろうか、筋が通っているように見えるものの、行間にひねくれた見方が挟まれていた。まだ子供だった彼も自分の能力に気を使うだけで精一杯だったので深く追究せず、いっそのことあの雑誌とコーナーを読まないことにした。

 今となって警察隊の一員になり、しかも中央警察隊特捜班に所属している彼は、この記事を思い出すとハエを千匹をも吞み込んでしまったような気持ち悪さがこみ上げてくる。汪監察医と馮艾保はなおさらのことだろう。どうりで二人はララバイキラーの話になった途端、露骨に機嫌を悪くしたわけだ。

 ちょうど車は赤信号に捕まった。ここはかなり広い交差点で、この赤信号は三分間もあるような気がする。馮艾保はハンドルに身を寄せ、ハンドルを握っていない手で口を押えている。考えをまとめているのだろうか、蘇小雅は彼を急かさずに、大人しく待っている。

 赤信号があと二十秒ほどになったところで、馮艾保は身を張って、なにやらリズムを刻むようにハンドルを指で叩く。「この事件は報道に書かれたものよりも重大だったが、公にしなかったのは、二十年という期間で見れば、あれより重大な事件は毎年起こっているからだ」

「二十年?」蘇小雅は今年で十八歳だ。なんとこの事件の期間は彼の人生を跨っている!

「厳密にいえば、二十三年十一か月と五日だね」馮艾保はいつものように穏やかな声で言うが、それを聞いた蘇小雅は尾椎から頭頂まで凍り付き、唖然として運転しているセンチネルを見つめるしかなかった。

 なぜ馮艾保はこれほど正確に時間を言い切れるかを追及せず、彼が続きを語りだすのをひたすら待っている。

 馮艾保はため息をつき、また指でハンドルを叩いて、しばらく経ってから続けた。「二十四年ほど前、ちょうど今と同じ時期に、首都圏紅林ホンリン区のとある市民階級が多く占めた住宅区に、途切れ途切れの音楽が八時間も続いた。目撃者によると、市民階級は共働きが多く、昼間のコミュニティの住民はほぼ外出していて、音楽がいったいどれほど続いたのか誰も知っていない。ただ隣人は最低でも八時間も聞き続けてようやく堪忍袋が切れて、様子を見に行ったら隣に住んでいる夫婦が死体となっているのを発見し、慌ただしく通報した」

 それが事件の始まりだった。しかし当時は誰もこのような結果を予想できなかった。

 被害者は下級センチネルとガイド夫婦で仲睦まじく、近所付き合いが上手くいっていて、集会にもよく顔を出していた。妻のほうは専業主婦であることもあり、コミュニティではよく活躍していて、ちょっとした有名人とも言えた。

 そのため、あの女性が妊娠五か月目ほどなのは誰もが知っていた。結婚四、五年目にして初めての子供ができたものだから、嬉々として性別披露パーティを催し、隣近所も参加していた。これは事件のおおよそ一週間前の出来事だった。

「当時の現場は今日私たちが目にしたのと結構違っていてね。まず胎児を取り出されていなかった。二つ目は家に喧嘩の跡が明らかに残っていて、被害者ではない血液も検出されたので、片付けそこねた犯人自身の血液だと思われた。三つ目、夫のほうは自殺のように仕立てられていなかった。が、今日と同じく絞殺で、妻のストッキングを用いた。そして最後、妻の死亡推定時刻は夫より二時間ほど早く、死因は打撲による脳内出血だった」と、馮艾保は説明した。

 犯人らしき者の血液が検出されたのもあって、当時はすぐ解決できるだろうと誰もが考えていた。なにせこの時代ではほぼ誰もDNAを保存されているし、仮に保存されていなくても、二次検査で見つけるのも困難ではない。

 ところがどっこい、この簡単だと思われた検査で大きな問題が発生した。

「DNAの検査結果が出て、このDNAの持ち主も見つかった。が、DNAの持ち主は絶対に犯人ではない……というか、この人物の血液は、現場にあるべきものではなかったんだ」馮艾保は横目に蘇小雅を見て、笑みを浮かべて尋ねる。「なぜだと思う?」

「まさか……DNAの持ち主はすでに死んでいた?」

「そう、眉ちゃんに十ポイント」馮艾保は拍手をするように申し訳程度に空いている手で腕を叩き、若いガイドは白目でそれを見た。

 別に難しいことではない。蘇小雅には褒め言葉よりも皮肉に聞こえた。まったくもう!

 馮艾保も彼をからかうのをやめて、続けた。「君の言う通り、DNAの持ち主はすでに死んでいたし、葬儀も終わっている。幸い遺品の整理がまだで、櫛から二、三本毛包がついた髪が見つかり、私たちもそこでDNAを再チェックした。しかし残念なことに、DNAは確かに一致している」

「彼が骨髄を提供したことがあって、それを受け入れた人間が犯人だったりしない?」蘇小雅は当ててみる。

 今回馮艾保は誠心誠意を込めて喝采を送る。「眉ちゃんにもう十ポイント!五百ポイント集められたらお兄さんが飴ちゃんをプレゼントしようか!」

 ノーサンキュー!

 蘇小雅はポケットから現場で馮艾保に口に入れられた飴の棒を取り出して振ってみせる。歯の形が小さく残っている。

 飴ならいつでも食べられるから五百ポイントを集める気はない、と。

「で、あの人は見つかったのか?おじさん」そう、お兄さんではなくおじさんだ。馮艾保、隙あらば呼び方を変えようとするんじゃない。そう簡単に変えてやるもんか。

 笑って若いガイドに一瞥してから、馮艾保はすぐさま真剣な表情に戻った。「あいにく、答えはノーだ。あのDNAの持ち主は生に一度もドナーになったことがない。加えて大きな事故に巻き込まれて死んで、体中が燃やされて炭になったものだから、角膜を提供することさえできなかった」

「炭になった?」蘇小雅は眉尻を吊り上げる。

「言いたいことはわかってる。しかし残念なことに、私たちはお骨でミトコンドリアテストを行い、彼と母親の血縁関係を確かめた。それに彼の母親の生んだ子供にも全部当たって、隠し子が存在せず、ここで手がかりは完全に断たれた。犯罪現場にあの血液以外に指紋も毛髪も皮膚も残されてなく、妻のストッキングからも手袋の痕跡しか検出されなかったから、ほかに容疑者を見つけることもできなかった」

 こうなったらこの夫婦の人間関係に当たってみるほかない。しかし数か月の捜査を経てわかった。この夫婦の人間関係はいたってシンプルで、恨みを買ったことがなく、周りに推定死亡時間帯に怪しい行動を取った人間もいなかった。つまり犯人はこの夫婦のまったく見ず知らずの人間であり、接触が一切なかったということになる。

「ここまで来ると当然事件は迷宮入りだ」馮艾保はため息をついた。確かに事件がすべて解決されることはないが、解決できない事件に合うと、警察も自信と士気をくじけられるものだ。

「第二回の事件は一年と一か月後にビージャン区に起きた。同じく市民階級が多く占めたコミュニティで、同じく流れ続いた音楽が隣人の注目を引いた。ただ今回は音楽を止めるよう注意をしに行くのではなく、そのまま通報した。警察が着いてノックしても、インターホンを鳴らしても返事がなかった。しばらく経ってから鍵がかかってないことに気づいて、中に入ったら、今日君が見たのと同じように夫が首を吊っていた。ただ妻の死体は結構えぐいもので、胎児は犯人が素手で膣から無理やりに引っ張って取り出したと思われる」

 いくら馮艾保の声が聞き心地が良くても、蘇小雅は話の内容に怖気づき、小作りな顔が青ざめた。

「まあでも胎児が引っ張られたのは妻の死後だから……不幸中の幸いといったところか」馮艾保は自嘲気味に笑う。

 今日汪監察医から聞いたことと比べて、蘇小雅は苦い顔をして頷く。

 被害者は同じく下級センチネルとガイド夫婦で、妻のほうも専業主婦。結婚して三年ほど経って初めてできた子供。彼らの近所付き合いは薄いとまではいかないが、濃いとも言えなかった。妻の死亡推定時刻は夫の三時間よりも早い。室内にこれといった喧嘩や、侵入者らしき痕跡もないため、夫が妻を殺してから後追い自殺をした事件だと見定められた。

 なぜ音楽、しかも『埴生の宿Home Sweet Home』を流したのかについて、碧江区の刑事は深く追究しようとしなかった。なにせ夫は妻を殺して、自分の子供さえ見逃しなかった狂人だったから、自殺する前にどのようなおかしなことをしても不思議ではない。

 そして事件は毎年、違う地域で起こり続けた。七つ目の事件が起きて、そこでようやく関連性が見出された。

 なぜなら七つ目の事件は偶然にも紅林区に戻って、最初の事件とそう遠く離れていないコミュニティで起きたのだ。

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