54:彼はこの夫婦の間にできた愛の果実であって、「人間」ではない。

 来るべきものを避けて通ることはできないとすでに腹を決めていたが、後ろで部屋の扉が締められ、鍵をかけられた音が聞こえると、蘇小雅はやはり身震いをし、エンパス(empath)で自分を抱き締めずにはいられなかった。

 自分の緊張と恐怖が収まるように、彼はこれから一晩中過ごさなくてはならないこの部屋を観察することにした。

「ここは私が子供の頃に使っていた部屋。ホワイトタワーに入ってからあまり使わなくなった」

 馮艾保は靴棚から二足のスリッパを取り出して、もふもふしている飾りのついた小さいほうを蘇小雅の足元に置いた。「履き替えたほうが気持ちいいよ」

 馮艾保は靴と靴下を脱ぎ、スリッパに足を通して掃き出し窓のそばに置いてあったフィットソファにドスンと腰を下ろして、気持ち良さげにため息をこぼす。

 蘇小雅は相変わらず慎ましいままだ。馮艾保のことは前ほど嫌ってはいないし、今は友達ランキング一位とも言えるぐらいの仲だが、これほど狭い空間で二人きりになるのは初めて……なのだが、「狭い」というのは相対的概念である。この部屋は寝室にしては十分すぎるほど広いし、しかもバスルームまでついている。

 蘇小雅は少し躊躇ったが、スマホゲームをやり始め、自分にはさほど気を払っていない馮艾保を見て、やっとスリッパに履き替えて、着ていた靴と靴下を礼儀正しく靴棚に並び、お邪魔しますと心の中で呟いてから奥へ向かった。

 面積三十畳以上、四十畳近くもありそうな寝室は蘇小雅の想像をはるかに超えた。バスルームだけでも十畳くらいはあるんじゃないか?すりガラスの引き戸を開け、中を覗き込む。バス・トイレ別の形式にロココ調のスパ浴槽、家庭用のバスルームより、ちょっとしたホテルと言われたほうがしっくり来る。

 部屋にはデスク、雑然とした物置き、観葉植物一鉢にシングルソファ二台。壁一面ほどの大きさもある掃き出し窓はしっかりとロックされていて、窓というより動物園に設けられていそうなガラスだ。掃き出し窓の前に座っている馮艾保は、観察されている動物といったところか。

 ここまで考えると蘇小雅は妙なことに気づいた。彼は身を翻してドアノブをじっくり観察していると、愕然として振り向いた。

「君の部屋の鍵は、外からかけるものなのか?」

「そうだ」馮艾保は一瞥もくれずにゲームに没頭している。どうでも良さそうに「何が問題でも?」と言った。

 何が問題って、問題しかないだろうが!蘇小雅は目を丸くし、信じられないといった風に「鍵が外からかける寝室なんて見たことないよ!」と叫んだ。

 いくら何でも、寝室というのはプライベートの最たるところだ。寝室の主に完全な管理権がないなんておかしいに決まっている!あのホワイトタワーでさえ、個室の内部から鍵をかけられるんだぞ!

 しかし馮艾保の部屋は違った。彼の部屋の内部からは鍵をかけたり開けたりすることができないのだ。その丸っこいドアノブは、恐ろしいほど滑らかだ。

「また一つ賢くなったね、おめでとう」馮艾保はやっと顔を上げて蘇小雅ににやりと笑ったが、すぐ視線を手元のゲームに落とした。繊細でくっきりとした指は素早く動いている。どうやら激戦をしているようだ。

「何がおめでとうなんだよ……」なぜ馮艾保がこんなにも平然といられるのがわからず、蘇小雅は呆れた。こっちは部屋に入って十分も経っていないのに冷や汗で服が濡れそうだ。

 この前の食事で馮家の両親のイメージといえば、煩わしさはあるものの、嫌悪や恐怖とまではいかなかった。今思えばそれは保澄が彼の精神に影響を与え、意識的に彼の抵抗感と恐怖を抑えていたのだろう。

 上級ガイドの影響力がなくなった今、抑えられていた感情が堰を切って溢れだし、間もなく蘇小雅はパニックに陥った。自己制御が効かずに震え、頭の中も混乱していて、どうすればいいのかまったくわからず、エンパス(empath)で自分自身を抱き締め、体を丸めるしかなかった。よりによって馮艾保は我が道を行ってゲームの殺し合いに夢中になっている。

 蘇小雅は仕方なく、掃き出し窓から一番遠いソファに腰を下ろした。カウチポテトしながらに体を竦め、紺を出して自分に付き合ってもらう。

 どれほどの時間が過ぎたのだろうか、馮艾保は満足げに長いため息をつき、スマホをしまって掃き出し窓のカーテンを引いた――大変なことに、このカーテンは目隠し効果のある素材ではなく、薄手のリネン生地でできている――このような素材はプライバシー保護にまったくなっておらず、馮靜初の身体能力からしたらこのカーテンはあってないようなものだ。

「あの窓でどれくらい見られるの?」蘇小雅は焦るあまりに爪を噛み始めた。ここまで追い込まれるのは久しぶりだ。精神力の使い方を身につけて以来、彼にとって感情のコントロールはお手の物だった。しかし今は子供の頃に戻ったかのように、どこもかしこも不安材料ばかりだ。

「部屋の半分くらい」馮艾保はそんな彼に一瞥し、慰めの言葉をかけずにひたすら窓側から奥へ向かい、ベッドのそばで止まった。

「ここまで」

 確かに、ちょうど部屋の半分くらいだ。

 蘇小雅はソファから跳ね上がった。彼は視野の端にいたからだ。そそくさと後ろに二歩ほど下がってやっと人心地がついた。

 馮艾保は彼の動きに全く動じずに「風呂にでも入って着替えたほうが気持ち良いんじゃない?」と聞いた。

「バスルームって安全なのか?」蘇小雅は自分がピリピリしているのを承知しているが、聞かずにはいられないのだ。馮家の異常さが彼が今までの短い人生で積み重ねてきた世界への認識を超えていて、価値観を揺さぶられる恐怖すら感じる。

「さすがにうちの親はそこまで狂っていない。安心しな」馮艾保はうっすらと笑い、若いガイドの強張った肩をぽんと叩く。

「これから十時間近くやり過ごさなくてはいけないんだ。初っ端から精神をすり減らしてどうする。お湯にでも浸かってリラックスしてくれ。君の服も用意されてるはずだから取ってきてあげるよ。な?」

「うん」馮艾保の言うことがもっともなのは蘇小雅自身もよくわかっている。今は夜九時で、出勤時間は朝八時だ。馮家の両親に解放されるのは早くても朝七時半だろうから、今から緊張して精神と体力を消耗してしまったら、それこそ俎板の鯉になるのがオチだ。

 頭では理解しているが、できるかどうかはまた別の話だ。リラックスしようと頑張ってみたが、無駄にストレスがさらに溜まってしまった。

 馮艾保はというと、自分の親におもちゃのように翻弄されることなんてなくて、普通に実家に戻って一晩を過ごすという風に、いかにも巣立った一般人かのように見える。

 クローゼットを探ってみると案の定、蘇小雅のサイズのコットンパジャマ一着、Tシャツとジーンズワンセット、それとパンツ二丁が入っていた……数秒の間、馮艾保は珍しく固まったが、すぐいつも通りの顔でそれらを全部手に取って、身を翻して蘇小雅に渡した。

「自分で選んで。パジャマのほうが着心地がいい。Tシャツとジーンズは明日出勤のときに着ればいいよ」

 蘇小雅は押し黙ったまま服を手に取り、それらを全部バスルームに持ち込んでバタンとドアを閉めた。

 馮艾保は耳を澄ませてドアの向こう側の様子を窺う。若いガイドはすぐさま浴槽にお湯を張り、素早くシャワーを浴び始めた。どうやら入浴剤にも気がづき、一つ開けて浴槽に入れたらしい。

 若いガイドが前向きさを取り戻し、過度に落ち込んでいないのを確認してから、ようやく馮艾保はほっと安堵のため息をつく。彼は蘇小雅のプライバシーを守るべくバスルームの様子を窺うのをやめて、大股に掃き出し窓の前に戻った。

 しかし今回はフィットソファに体を持たれてゲームをやるのではなく、カーテン越しに静まり返った庭と、いつの間にか庭のベンチに姿を現した二人を凝視するだけ。

 馮靜初と保澄だ。

 夫婦と息子、三人の視線がぶつかり、馮艾保はご機嫌斜めの母に少し微笑んで、口の形で「母さん、少し情っていうやつを残してくれないと、こっちに会う気がなくなるかもしれないよ?」と伝える。

 しっかりと馮靜初に伝わったのは明白だった。彼女はせせら笑い、息子の体をちぎれるような凍り切った目で見つめ返して、同じく口の形で「情なんてなくとも、あなたに抗うことはできない」と伝える。

 馮艾保の微笑みはすっと収まり、蘇小雅だけでなく何思にさえ見せたこともない冷めた表情で母を凝視し、思わず左手で右腕を握る。その動きを馮靜初は捉え、一瞬顔に動揺が走ったが、また元の冷淡な顔つきに戻った。

 保澄は妻や息子のような優れた五感を持っていないし、エンパス(empath)も遠き二階の部屋まで届かないが、妻の動揺を捉えることはできる。彼も息子の方へ目を向け、顔にあったのは元の温もりではなく、妻と同じような冷徹だった。

 馮靜初は保澄に振り向いて何かを話したが、口の形が遮蔽物によって見えなくなったため、何を言ったかはわからなかったが、保澄が不機嫌そうに眉をひそめるのが見えた。

 馮艾保は思わず冷ややかに笑った。

 彼の両親の関係は一目惚れから始まった。別に珍しいことではない。センチネルとガイドのボンディングは一目惚れから始まることが多く、フェロモンの相性が高ければ高いほど恋が実りやすくなる。特に上級のセンチネルとガイドは、一目見ただけで相手との相性がわかることが往々にしてある。

 彼の名前「馮艾保」は、簡単に言えば馮靜初が保澄を愛するという意味である。あの二人にとっては二人の愛情を示す存在で、よりによって彼は上級のセンチネルとして生まれたものだから、思いもよらぬ授かりものだった。

 このような子供は馮靜初と保澄にとっては独立した個体ではなく、彼らの遺伝子を混ざり合った物で、ざっくり言えば彼らの物である。

 彼らの物というならばもちろん、この命を好きなように形作ったり制御したりすることもできる――そう、命ではあっても、子供や人間ではない。

 エリートには我が道を行くものが多いというし、馮靜初と保澄のような天下に君臨し、敵う者などいないエリートならなおさらのことだ。

 馮艾保は親の様子を窺うことに嫌気が差し、掃き出し窓から観察される範囲を退出し、ついでにフィットソファも引きずっていった。この広さのおかげで、彼はほっと息をつくことができた。

 蘇小雅はまだ風呂に入っている。馮艾保はフィットソファにこもったまま、悠々自適に見えるが頭は高速回転をしていて、少しも油断にならない。

 彼の両親はセンチネルとガイドのボンディングが当たり前だと強く思っている。十年前、まだ自分の両親の恐ろしさがわかっていない彼は何思を連れて帰って一緒に夕食を取って、今と同じくこの部屋に閉じ込められ、薬を盛られてボンディング熱を強引に引き起こされた……なんとか無事にやり過ごせたのは、偏に何思がS級でガイドとしての能力が高く、そして彼らの間にその気がなかったからだ。もともと薬というのはただのサポートに過ぎず、五十点を八十点に引き上げることはできても、ゼロを及第点に引き上げることは到底できない。

 しかし薬のせいで馮艾保のフェロモンはかなり長い間乱れていた。彼の両親が用いたのは市販の薬なんて可愛いものではなく、研究開発に使われている強力な薬だった。強引にボンディング熱を引き起こせるだけでなく、ある程度感知を操縦することさえできてしまう。

 簡単に言えば、ゼロを七十点に引き上げる薬である。あのとき取り返しのつかない結果にならず、二人とも無事でいられたのは、本当に運が良かっただけなのだ。

 少し語弊があったのかもしれない……本当は馮艾保は無事ではなかった。センチネルのフェロモンが乱れると幽体離脱のような症状が発生する。彼がマインドスコープに飲み込まれ、外部との連携が断ち切られるところの一歩手前で何思が全力をもって彼の精神状態を安定させていなかったら、今ここであの両親に心配をかけられることもなかっただろう。

 もちろん、あれは十年前の出来事だ。馮艾保も過去に囚われるタチではない。どうせなら、己を鍛えて強くなるほうが両親に縛られる確率が下がる。

 バスルームのドアがガチャリと音を立てて、馮艾保を現実に引き戻した。笑みを浮かべて小雅に挨拶をかけようとしたら、甘くさわやかな匂いがつんと鼻を突いて脳天に届いた。

「おじさん……」若いガイドの体が火照っていて、だぶだぶとしたパジャマを着ているがズボンは履いておらず、白皙でくっきりとした両脚が露わになる。

「僕……熱いよ……」

 飴にも熟した果実にも似たような匂いが爆弾のように馮艾保の精神に炸裂し、甘ったるいフェロモンで頭の中が真っ白になる。息が荒くなり、間もなく彼の体も火照りだした。

「おじさん……」蘇小雅はその甘い声で呼びかける。虚ろな目でふらふらと馮艾保に近づき、匂いの甘ったるさに拍車をかける。馮艾保の理性が少しずつ奪われていき、彼を包み込む。

 これはボンディング熱だ!

 ここで途切れたであろうセンチネルの最後の意識には、深い悔恨が滲んでいた。しかし、もう手遅れだ。

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