49:人は、結局自分の選択のために代価を払わなければならない

 結局のところ、彼女は自分が聞いた卜東延の内心にある本当の考えについて何思に話さなかった。そもそもこれは重要なポイントではなかった。

 秦夏笙は膝の上の手を無意識にぎゅっと握りはじめ、何度か深呼吸して、やっと落ち着いた。

「東延が私を愛していないことも、東延が私を利用することも私は受け入れられますが、彼が私の献身を見下し、私の『キャリア』を軽蔑することは受け入れられません。私の献身、私の苦心、彼のために負担したすべてについて、彼は感謝しなくてもいいですが、軽蔑するべきではありません……」彼女の姿勢はぴんとまっすぐだが、こわばりすぎたせいで微かに震えている。

 何思は気づかないふりをし、目に涙を浮かべながらも頑なに泣き出そうとしない女を静かに見つめている。彼は蘇小雅に対してあんなに色々言ったとしても、今となってはこの犯人に同情せずにいられず、秦夏笙に感情移入している。

 婚姻は、世の中で最も複雑な関係の一つだ。フランスにはこのようなことわざがある。「婚姻は、敵に囲まれた砦だ。城外の人は中に突進したいが、城内の人は抜け出したい」という。

 夫婦の間の愛と憎しみは、他人が完全に理解したり、同じように感じたりすることはできない。目の前の秦夏笙が良い例だ。

 彼女は、夫が裏切っても、夫が自分を利用しても怒らない。ひいては彼女が考えているのは、どのように夫と婚姻関係を維持し、いかにより一層夫をサポートするかということだ。彼女にとって、サポートしている相手は、もう卜東延というより、彼女と卜東延の家庭だったかもしれない。卜東延も彼女にとっては単なる夫という身分ではなく、「家庭」の名誉勲章なのだ。

 その中の感情があまりに複雑にもつれたために、当事者でもはっきり話さないのだろう。

 秦夏笙は、愛の挫折によって殺人しようとしなかったが、自分の努力が蔑視されたことによって理性を失った。理解しにくいようだが、理の当然のようにも思われる。

「トンカ豆の木を植えたのはただ思いがけないことでした。東延自身トンカ豆という香料が好きで、トンカ豆を使ったスイーツを買って帰って皆に分けてあげていました。だから私はトンカ豆の木を植えれば、将来デザートに使えるかもしれないと思いました」秦夏笙は犯罪の過程を述べ始めた。口調は、背筋がぞっとするほど冷静だった。

「私は一人の母親であり、妻です。家族が口に入れるものが一体安全かどうか、清潔かどうか、自ずと確保しなければなりません。国内ではトンカ豆を香料として使うことが禁止されていませんが、海外ではトンカ豆を食べすぎて亡くなった例があったので、当然、私はより一層気をつけなければなりませんでした」

 秦夏笙はもともと賢く腕が利く人なので、資料を調べて完全に理解するのは、彼女にとって呼吸することと同じく自然なことだった。彼女は早くからトンカ豆の危険性を知り、資料を調べていく中でムラサキウマゴヤシと内出血の症状に関することも知り、最後に、抗凝固薬の誤用、濫用が引き起こした医療トラブルの判例をいくつか調べた。

 当初は、秦夏笙はただ習慣的に資料を調べるだけだった。忙しくて追いつめられ、子供と夫を中心に生活している主婦である彼女は、相変わらず細切れの時間を使って色々な知識を学ぶ習慣があった。そもそも、奥様グループの一員になりたければ、もともと常に自分を充実させていなければならなかった。

 しかし卜東延に殺意が起きると、トンカ豆に関する知識が秦夏笙の頭に浮かび上が理、彼女はほとんど一秒も迷わず手を下すことを決めた。

「この質問をするのは三度目です。どんな人が人を殺しますか?」秦夏笙は何思を見つめたが、相手からの返答は依然としてなかった。だが、もうどうでもいい。彼女の心にはすでに答えがあった。「私は誰でも殺人の犯人になる可能性があると思います。どの殺人者も、はじめは皆普通の人です。だけど誰も思いもよらない、もしかすると彼自分でも思いもよらないところで、人を殺すのです」

「俺はそう思わない」何思はついにやっと口を開き反駁した。彼は静かに秦夏笙を見つめている。彼女は釈然とした表情で、目尻からゆっくりと涙がぽとりとこぼれた。「確かに、ある普通の人がある日殺人犯となることを確実に知ることのできる人はいませんが、自らの殺意を耐えられる人もいれば、できない人もいます。知っていますか?あなたには離婚する選択肢もありました」

「私はなぜ離婚しないといけません?」秦夏笙はくすっと笑うと、信じられないような顔で何思を見つめていた。「私はなぜ離婚しないといけませんか?離婚して何かいいことがありますか?私の二十年の愛情、十六年の献身など、これらの時間はもう戻りません。さらに事実上、私の家庭で完璧ではないところは、ただ卜東延だけです。どう選択するべきか誰の目にも明らかではないですか?ただ、私の計画では、彼は思いがけずに死んだようである必要があり、体が極限まで疲弊して、ある日急死するはずでした。私は彼の妻として、誰も驚かせることなくこの死体を火で燃やし、埋葬することができます」

 何思は聞きながら、思わず冷汗が出た。確かに、全てが秦夏笙の計画通りで、途中で思いかけずビタミンEを送った王平安がいなければ、卜東延は人に知られないまま死んでいたかもしれない。

「私は本当に頭がおかしいのかもしれません……」秦夏笙は軽くため息をつき、頬の側の髪の毛を耳の後ろにかけると、自嘲的な笑みを浮かべて言った。「私はどうしてこの男が冷酷で薄情だと最初から気づかなかったんでしよう?私は昔こんな人ではなくて、世界は素晴らしく、人々は善良だと信じていました。ガイドの能力を持っていても、使おうと思ったことはありません。長年ずっと、間違いなく一度でも使ったことはありません……なのになぜ耐えられなかったんでしょう?」

「俺は、これはガイドの能力が引き起こした結果だと思わない。卜東延の本音が聞こえたとして、あなたには殺人ではなく離婚を選ぶこともできた」

 何思は手厳しく答えた。「あなたは今でも俺の感情に影響を与えて感情移入させようとしている。秦さん、あなたに感情移入するわけがない。どんな理由であろうと、卜東延がどんなにひどい人でも、あなたには殺人以外の選択肢があった」

 この言葉によって、秦夏笙の表情がこわばった。彼女は依然として涙を含んだ目で冷ややかに何思を見つめているが、かすかに憎しみが滲み出ているようだ。

「私は、常に最も正しい道を選べるあなたが羨ましいです」最後、秦夏笙は冷笑して皮肉を言った。「何警官、愛情とはこんなものではありません。私は人を殺すと思いもよりませんでしたし、手を下す時にためらわなかったわけではありません。でも、もしあなたの一番近くにいる恋人が自分を蔑むのが毎日のように聞こえている時でも、あなたが自分の善良さを保てるよう望みます。言いたいことはもうありません。私の弁護士に連絡してください」

 尋問はこれで終わった。

 秦夏笙は自らの犯行を認め、協力度が非常に高い上、これ以上彼女に回答が求められる腑に落ちない点はまったくなかった。

 何思はうなずくと、書類をすべてファイルに戻した──その実今回の尋問では彼はほとんど用意した資料を使わなかった。秦夏笙は今回のことをあまりに長く胸の奥にしまっていたため、全て吐き出してやっと少し気分が良くなったみたいだ。

 隅にあるプリンターから秦夏笙の自白が印刷されて出ると、何思は取って秦夏笙の前に置いた。「どこか間違えたり、書き落としたりしたところがないか詳細に見てください。問題がなければここにサインしてください」

「弁護士が来てから見ます」これは秦夏笙が何思に言った最後の言葉だ。彼女が送検されるまで彼らは一度も言葉を交わさなかった。

 もちろん馮艾保も蘇小雅もそうだ。

 この事件は不愉快な余韻の中で幕を閉じた。


 ※※※


 秦夏笙は粛然と留置場の木の床に座っており、まるで美しい彫像のようだ。

 中央警察署の留置場は、広く清潔で、ひいては立派で居心地が良いと言える。現在拘束されている犯人はそれほどいないので、全員単独の居室がもらえた。

 彼女は弁護士に相談し終えたばかりで、子供と両親と面会した。卜東延の両親は、孫に対して特別な感情を抱いていなかったが、息子の遺産を横取ろうとしていた。義理の娘は殺人の主犯であり遺産の相続権を剥奪されたため、すべての遺産は三人の孫の手に落ちる。このような理由で彼らは孫の親権を奪おうとしていた。

 彼らの思い通りにさせるわけがないでしょう?秦夏笙は顔には表さないが、心の中で冷笑した。

 卜東延はこの夫婦に甘やかされ、わがままで残酷で冷淡な人間に育ち、それから彼女の人生を潰した。

 彼女は、隣町の郵便私書箱まで一枚の手紙を送るように弁護士に頼んだ。その中には、彼女が子供と自分の両親を守ろうと決めた覚悟が入っていた。

 命はもちろん大切だが、時には死も同じく大切だ。

 彼女は二年ほど前のある秋の日の午後を思い出さずにいられなかった。あの時、彼女は卜東延の不倫に気づいたばかりで、恐ろしくてなす術を知らず、夫に正直に白状しようか迷っていた。彼女はつらくて、卜東延が自分を裏切ったと信じたくなかった。しかし悲しいことに、彼女には泣く時間と力さえなかった。

 彼女の生活は子供と夫でいっぱいで、一分一秒でも自分の時間はなかった。

 秦夏笙は自分が強く、何とか耐えられると思っていた。夫が家に帰ってきて表面上平穏を維持する限り、彼が男の体の下に寝て何か卑しいことをしても、見て見ぬふりができると秦夏笙は思っていた。

 しかし、彼女は自分の忍耐力を過信していた……いや、そうは言えない。彼女は世の中の全てのものには忍耐力の境界値があるということを忘れていた。ひとたび限界を越えれば、目の前に待っているのは崩壊である。

 彼女は崩壊した。

 あの日、空がイチョウで黄金色に染まっていたのを彼女はまだ覚えている。彼女の家の近くの公園に広いイチョウの林があった。彼女は子供を連れてイチョウを見にいくのがいつも好きで、ギンナンを拾って家に持ち帰りおかずに加えた。家では彼女以外の四人はみんなギンナンを食べるのが好きだった。

 彼女はそのことがどのように起こったのかを忘れた。今でも思い出せない。彼女はただあの日両親が子供を預かってくれて、めったにないこんないい天気なんだからと、のんびり気晴らしに行かせてくれたことだけは覚えている。

 もともと、すでに子供を迎えに行くと約束した時間がやってきたのに、一体全体なぜ彼女は行かなかったのか?秦夏笙は気がつくとぼうっとイチョウの林の中に座り、手の上に七、八個のギンナンが落ちていて、片方の靴が数百メートル向こうに投げ飛ばされて足裏にはすり傷がいくつかあり、もう片方の足は靴を履いたままだったが捻挫していたことだけは覚えている。

「どうぞ、水を飲んでください」そばで若い男の子の声が伝わり、優しく、甘ったるく、まるで温泉のように彼女を包み込んだ。

 彼女がぼうぜんとそちらを見ると、知らない若い男の子がいた。きっとまだ未成年だ。青い目はきれいな空のようで、微笑をたたえてほんのり湾曲していた。

「あなたは誰?」秦夏笙の頭はまだ真っ白で、舌もうまく動かないため、質問がのろのろしていた。

「レン・チェスタです」男の子は手に持った水を彼女に渡してみた。「お姉さん、水を飲みましょうか?今きついでしょうから」

 秦夏笙は確かにきつかったが、その水を見つめた。彼女の慎重さは知らない人の飲食を簡単に受け入れないように注意している。思わぬことが起こりやすい。

「心配しないでください。この水はまだ開けていないです。さっき自販機で買ったものです。それとも、今から水をもう一本買ってきましょうか?」レンはなだめて言った。彼は若いが、事を成すのが行き届き、話し方も人を安心させる。

 結局、秦夏笙は、水をもらって開けると、確かに未開封の蓋だった。がぶがぶ半分ぐらい飲んでやっと止めた。体調もやっとの思いで少し良くなった。

 レンは頭を傾け、しばらく彼女を観察していたが、少し元気になった様子を見たら、胸を撫で下ろした。

「私はどうしたんですか……」秦夏笙は聞かずにはいられなかった。

「私のせいです……」レンは頭を下げ、若い顔に後ろめたい表情を浮かべている。「私は未成年のセンチネルです。自分の能力をうまくコントロールできなく、思いがけず野生化みたいな症状になりました。幸いなことに、お姉さんに出会ったので、やばいことがなくて済みました……お姉さん、ありがとうございます」この感謝には誠意のほかに恥ずかしさも帯びている。恥もあれば、感謝もたくさんある。

 秦夏笙はあっけに取られ、相手の感情を感じとったことに気づいた。これは……「私、ガイドの能力を使ったんですか?」

「そうです。お姉さんがレベルの高いガイドで幸いでした。さもなければ、終わっていました」レンは偽りなく笑った。彼は話好きで親切な人だ。秦夏笙は彼から明るい感情を感じることができ、とても心地よくなった。

 それから、レンはさっき二人に起きたことをぺちゃくちゃと詳細に述べた。その間、秦夏笙は、少年の熱い感謝の気持ちで慌てふためき、心の中では恥ずかしがりながらも満足していた。彼女は久しぶりに人に肯定される嬉しさを感じたみたいだ。

「お姉さん、私はそろそろホワイトタワーに戻らなければならないです。助けてくれてありがとうございます。これから何か問題があれば、遠慮なく言ってくださいね!全力で助けます!」夕方、レンが暇乞いし、秦夏笙は少しつらく感じた。子供に対して何か変な考えを抱えているわけではなく、ただ彼女は「秦夏笙」という身分で人と交流するのが久しぶりだった。

 ここ数年は、「秦夏笙」ではなく、卜さん、卜東延の妻である秦夏笙だったのだ。

 彼女は、ガイドの能力はそんなに恐ろしいものではなく、たまに使ってもわるくなさそうだとふと思った。それから彼女は使えば使うほどだんだんこの能力に依存していった……

 レンは彼女と年齢の垣根を越えた友人になった。この第三者に知られない友情は、純粋でかつ素晴らしかった。

 そして、卜東延の自分に対する本当の考えを聞いたばかりで、彼女は苦しく、この世から消えたくてたまらなかったが、未成年のセンチネルであるレン・チェスタの他に、不平不満を聞いてくれる相手は見つからなかった。

 返事をもらえると期待していなかったが、意外にもレンからの返信は早かった。手紙にはこう書いてある。「お姉さんはわるくないです。わるいのは卜東延です。彼はあなたの足を引っ張っています。彼は運がいい人で、ミュートなのにレベルの高いガイドであるあなたの目に留まり、本来あなたを愛して崇拝すべきでした。お姉さん、クマリンって知っていますか?」

 その後のことは、そのまま順調に運んでいった。後に、秦夏笙は、レンがわざと自分を恨みの方へ導いたことに気づいた。だが、最終的には、手を下そうと決めたのは彼女だった。

 彼女はかえってレンに感謝している。なぜなら、彼は彼女を肯定し、卜東延による苦痛から救い、当初は完璧だった道を案内してくれたからだ。

 彼らの連絡は今まで途絶えていない。

 秦夏笙は卜東延にすら我慢したくなかった。当然、卜東延の両親が私欲のために子供の成長を邪魔したり、両親に嫌がらせをしたりすることに対しても、これ以上耐えられない。

 人は、結局自分の選択のために代価を払わなければならない。

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