猫と鼠はずっと、互いに愛し、殺し合う関係／黑蛋白

48：犠牲とはこんなに残酷な単語だったのか

　二十年前、秦夏笙は国内で最も偏差値の高い高校を卒業した後、一番有名な大学の法学部の試験に受かった。彼女は幼い頃から人権派弁護士になりたかった。今から振り返れば、あの頃の理想は少し幼稚だったかもしれないが、彼女は学んだことを活かして困っている人を助けたいと本当に思っていた。

　彼女の家の暮らし向きは良く、両親ともインテリであり、収入はかなり豊かだった。さらに彼女は一人っ子であったため、生まれてから大きくなるまで、生活のために悩んだ日は一日もなかった。たぶんそのせいか、彼女は無鉄砲なまでに単純な性格に育ち、いつも一番良い面で人や物事を見る癖があった。

　このような性格は決して何も悪いわけではない。将来、彼女は社会の恐ろしさを知るかもしれないが、彼女の人生はそんなに多くの挫折に遭わないことが決まっており、少し調整すれば依然として自分の単純さと善良さを継続することができた。

　彼女が卜東延に出会わなければ。

　彼らは新入生オリエンテーションで思いがけず出会った。卜東延は場所を間違えていた。彼は会計学部の首位合格者だった。シンプルな白いTシャツを着て、洗いすぎて白くなったジーンズに、裾をきちんと入れてベルトを締めており、腰の輪郭はくっきりとして細く、それにすらっとしたスタイルと長い足が加わると、顔が良いかどうかはさておき、このような体つきだけで、色気づいた少年少女に顔を赤らめ、ドキドキさせ、我慢できずこっそり彼を観察させるには十分だった。

　秦夏笙もちょうど新入生オリエンテーションにいた。彼女も卜東延に気づいた。もともと将来のクラスメートだと思ったので、二言三言話しかけた。ただ単に美男子を鑑賞しようと思っていただけで、他の考えはなかった。だが、それから彼らはこの二言三言によってますます気が合い、入学したばかりで友人になった。

「何年も後に私はこの場面を思い返して、ようやくわかりました。東延はわざとやったんです」秦夏笙はカジュアルな服装だが、立ち居ふるまいは依然として非の打ちどころがなく、両手を膝の上に置き、くるぶしを交差して斜めにもたれさせ、他人の話を述べているみたいだ。「彼はいくつか違う学部に行って将来付き合える相手を選ぶつもりだったはずです。彼はずっと事に当たるのに非常に野心とやり方を持っている人で、設定した目標はあらゆる努力を用いて達成していきました」

　何思は静かに聞いており、口を開いて秦夏笙を遮らなかった。

「私たちは最初ただの友人でした。私は異性でも同性でも、たくさん友人がいます。子供の頃から人に好かれやすかったし、私も友達を作るのが好きでした。だけど東延は特別に違って、彼と一緒に過ごす時は特に心地良いです。彼は優しくて、いつも顔色ひとつ変えずにあなたを気にかけたり、小さなサプライズを仕掛けたりして、それにあなたとこれまでいかなる言い争いもしません。あなたはいつも彼から一番心のこもった反応をもらえます。何というか……」秦夏笙はそっとため息をついた。「気づいたら、彼を好きになったことに気づいたんだ」

　好きになった以上、秦夏笙は隠しもしなかった。彼女は率直に物事に当たる女の子だったので、すぐ機会を作って卜東延に告白した。相手が受け入れるかどうかに関わらず、少なくとも明確な結果をもらおうとした。

　卜東延は即座には受け入れず、驚いた顔をした。秦夏笙に告白されるとは全く思いもよらなかったみたいだ。しかし彼は断りもせず、すこし考える時間が必要であると言い、彼らの友情がこのことによる影響を受けないことを望んだ。

　秦夏笙は卜東延が本当に誠実でかわいい人だと感じ、より一層、どうしようもないくらいに彼が好きになった。その後彼らは本当に付き合っているわけではないが、あくまで友達以上恋人未満の関係だった！大学時代を通して、彼らにはそれぞれ求愛してくる者がいたが、ずっと他の人とはカップルの関係に発展しなかった。相手のそばにいて、誰も知らないうちに、カップルのように付き合っていた。

「その後私は妊娠しました。卒業直前、私はちょうど司法試験の準備をしながら、大学院で勉強を続けようとも予定していた時に、自分が妊娠したことに気づきました」ここまで話すと、秦夏笙は長い間押し黙った。

　特殊な取調室のため、何思の能力も制限されていた。彼は、今秦夏笙がどんな感情なのか探知することができない。しかし、表情から推測すれば、彼女はある意義深い回顧に沈んでしまったようで、頭から爪先までかなり消沈している。

　それにもかかわらず、秦夏笙は背筋を相変わらず真っ直ぐに伸ばしている。このようにしてはじめて、彼女は深呼吸をする空間ができる。悔しさに、苦しみに、うれしさに、あるいは他の感情に、撃沈されないみたいだ。

　久しぶりに、秦夏笙はフフっと笑い、初めて背中を椅子の背にもたれかけ、きちんとした姿勢が崩れた。

「東延は私が妊娠したことを知ってとても喜びました。私はあの時、彼が本当に私を愛しているからこそ私たちの子供のために喜ぶのだと思っていました。なので、もともと私は子供を下ろすつもりでしたが、彼の説得とプロポーズによって子供を産むことを決めました」秦夏笙は肺の奥から深々と長い息を吐き出すと、手を伸ばして顔の下半分を覆った。それによって何思は彼女が笑っているのか、それとも……泣いているのかを判断しにくかった。

「あの頃、私は考えが甘すぎて、子供を産むために一年を無駄にしても将来の人生計画に影響しないと思っていました。両親は断固として反対しましたが、私が譲らないから、最後はやはり妥協してくれました。それに、安心して、子供が生まれたら私たちが育てるから、このために自分の歩みを止めないでと言ってくれました。私は本当に彼らに感謝しています……子供を産んだことについて誰に申し訳が立たないのかといわれれば、たぶん私の両親です」

　しかし、両親の約束は結局実現しなかった。秦夏笙の両親が突然考えを変えたわけではなく、秦夏笙側が両親の好意を断ったのだ。彼女は卜東延と結婚した後、男側の意見を受け入れ、自分は学歴が高く、自分で子供を育てられるから、年配者に面倒をかける必要はないと思っていた。それに、子供が幼く、ちょうど母親を必要とする時に、彼女は心を鬼にして子供の権利を奪い取ることができようか？

「安心しろ。この数年、私はしっかり勉強してしっかり努力する。きみはまず俺がしっかりと立って歩んでいけるようサポートしてくれ。俺が大学院を修了し、職場にしっかりとした立場を築いたら、次は私があなたをサポートする番だ。そんなに長くかからない。五年あれば十分だ。ちょうど五年後子供が学校に行き始めたら、その時またお父さんとお母さんに手伝ってもらおう」

　これは当時、卜東延が、出産し終えたばかりで表情は憔悴しているが自分の子供を見ると顔色がぱっと明るくなった秦夏笙の手を握りながら約束してくれたことだ。

　子供はそばにいるし、夫の約束もこんなに思いやり深い。秦夏笙は、婚姻生活にはどうしてもいくつかの妥協と犠牲が必要であり、自分の家庭を持ったし、たしかに両親の助けから離れるべきだと思った。

　それに、たったの五年にすぎない。彼女はまだこんなに若いのだし、全然待てる。

「私はこれまで、犠牲とはこんなに残酷な単語だったのかと考えたことはなかったです」秦夏笙は、冷ややかに、ひいては冷淡すぎるといっていいほどに自分の当時の決定を評論した。

　人生にはたった一つの五年間だけしかないのではない。もしあなたが百二十歳まで生きたなら、二十四個の五年間がある。秦夏笙と卜東延の婚姻は三個の五年間プラス一年を経た。

　一つ目の五年間がもうすぐ終わる時に、卜東延は約束したとおり、高成績で大学院を修了し、学期中に金穗会計事務所の目に留まり、招致され、インターン生として働き初めた。この時の卜東延の仕事は労働時間が長く、内容は複雑だが、収入はそのわりに低かった。秦夏笙は子供の面倒を見る他に、アルバイトをして家計を補わなければならなかった。

　卜東延はプライドが高く、妻が実家から援助を受けることを望まなかったし、秦夏笙もおのずから夫の尊厳を顧慮し、最初は本当に両親の援助を断っていた。彼女が二人目の子供を妊娠した後になって初めてこっそり両親の仕送りを受け取らざるをえなくなった。

　そうだ、二つ目の五年間の初めに、秦夏笙は二人目の子供を妊娠した。もともと経済状況が安定していなかった家庭にとって泣き面にハチだった。彼女が教科書を取り戻したくても、大学院の試験であれ、司法試験であれ、全ては不可能となった。

　夫をサポートするために、彼女は妊娠中でも家事と育児、アルバイトの職場の間でバタバタと忙しかった。あの頃、彼女の頭のどこに法律の条文や判例が入る余地があるだろう？彼女の頭はバイト先のスーパーのことしか考えていなかった。ハムを販売する専用コーナーで、客に試食させるために焼いて残ったソーセージやハムをいつも家に持って帰ることができた。スーパーからもうすぐ廃棄される期限が切れた弁当や惣菜ももらえた。

　本来彼女が料理をする時間を節約できるはずだったが、決してそうではなかった。これらの食べ物は全て自分で食べ、毎日相変わらず子供と夫に食べさせる物を準備するのに苦心惨憺していた。

「私は実は、あの頃は別にきついと思わなかったんです」何思の同情するような表情を見て、秦夏笙は笑った。「ある言葉を見たことがあります。『愛があれば水だけ飲んでもお腹いっぱい』という。その意味は、十分な感情を基礎にすれば、どんなに苦しい生活でも、飴のように甘く感じるということです」

　それで、二つ目の五年間は困窮の中でも依然として楽しく過ごしていた。この頃、秦夏笙はもうかつての夢を忘れ、さらに卜東延が約束してくれたことも全て忘れてしまっていた。彼女は家庭の世話をしっかりとこなし、卜東延もとうとう職場での立場をしっかりと築き上げた。

　彼らは、三つ目の五年間の初めに、今のあの大きい家を買った。

　まるで、あらゆる童話の中で語られる幸福な人生を表す縮図のような、広々とした庭があり、周辺の隣人は皆ホワイトカラーのエリートである大きな家だった。

『きみはこれからもうアルバイトに行かなくていいから、家で子供の世話をして、俺が事業でより一層前進するようにサポートしてくれ。俺にはきみが必要だ。きみがいなければ今日までの成果を達成できなかった』卜東延は、秦夏笙の手を握って、まだ空っぽでだだっ広い庭に二人で肩を並べて立ち、もうすぐ入居する家を見つめながら、ここ数年妻が尽くしたことに心から感謝した。

　秦夏笙も夫の手を、暖かくて、乾燥していて、大きな手のひらを握り返した。彼らはあるいは生涯このように手をつないで過ごしていくかもしれない。なかなかよさそうでしょう？

　しかしなぜかわからないが、秦夏笙はこの時突然当時夫が自分に約束してくれたことを思い出した。彼女は実のところとっくにあのような考えはなくなっていたが、ただ面白くて、五年間の約束の話を突然むし返したくなり、夫がどのように返答するのか見たいと思っただけだった。

　それで彼女は夫に尋ねた。「私たちの生活はもうすっかり安定してきたし、あなたの仕事も今安定しているし、子供も皆大きくなったわ。私は大学院に戻ってもいいわよね？あなたも知っているように、私は昔から人権派弁護士になりたかった。もしかすると教科書を取り戻せるかもしれないし、来年か再来年には司法試験への参加も続けることができるかもしれないよ？」

　卜東延が固く握っていた彼女の手からさっと手を抜き、秦夏笙は愕然として夫の方を見た。初めて夫の顔にこんなに憤怒の表情が浮かぶのを見た。

『秦夏笙、きみは身勝手すぎる』

「彼はその後一ヶ月ほど私と冷戦状態になりました。私がどう説明して好意を示してもむだでした。何警官、私は本当に身勝手すぎるんでしょうか？私たちは家を買ったばかりで、ローンはすごく大きなプレッシャーでしたし、東延は職場で引き続き出世しなければならないから、私のサポートを必要としていました。いわゆる奥様グループの人脈を作るために。子供たちも皆まだ幼かったし……」秦夏笙は自問自答していた。とても長い年月が過ぎ去り、とても多くのことが起きたが、彼女の目の茫然としてなすところを知らないさまは、依然として存在している。

「これがあなたが卜東延を殺そうと思った導火線ですか？」何思は秦夏笙の問いに答えられず、そっけなく思うままに尋ねることしかできない。

「いいえ、私はあの時彼に何かしようだなんて考えたことはなかったです。彼はいい夫であり、いい父でした。完璧な人なんていません。婚姻とは、お互いの欠陥を受け入れ、二人三脚で一生を歩んでいくものではありませんか？私は喜んで自分の能力を使って彼をサポートしていました。これは前から私が得意としていたことです。子育てであれ、奥様グループとの交際であれ、私にとってはどれも難しいことではなくて、よくできました」

　事実も証明するように、秦夏笙は「よくやる」どころか、完璧に非の打ちどころがないほどこなした。

「冷戦が始まってから一か月後、ちょうど私たちの結婚記念日に巡り合いました。東延の態度も柔らかくなり、お祝いに連れて行ってくれて、こう言いました。この一か月たくさん考えて、きみを家庭に閉じ込めるべきではないと気づいた。きみは学生時代から能力がずば抜けていたし、きっと仕事で成功する。だから、きみが勉強を続けることを俺は支援する。将来弁護士になって夢を叶えられるように、と。私はとてもうれしかったです……本当に、すごくすごくうれしかった……私も家庭と勉強とを両立するように計画も立てて、きっと東延の支えになり続けることができると思いました」

　秦夏笙は陳述を急に止めると、まなざしは何思を見ているようで、ある名もなき過去のほうを見ているようだ。しばらくしてから、彼女は小さな声で言った。「二か月後、私はまた妊娠したことに気づきました」

　三つの五年間に三人の子供、というのは、何か連想させられるだろう。

　秦夏笙はしばらくの間落ち込んだかもしれないが、すぐに奮い立った。彼女はやはり子供が好きだった。二人の子供と彼女は仲が良く、子供がもう一人増えようが負担は増えない。彼女はまた本を取り戻すことができなくなったが、言ってみると、もともと全て諦めていたのだ。

「それまで私は東延に怒ったことは全くありませんでした。私も彼のために家事を切り盛りし、彼のために人脈を広げ、子供をよくしつけて、彼のために彼が思っている上流社会の家庭のあるべき姿を作り続けたいと思っていました。弁護士にならず、職場で自分の事業を築かなくても、実は自分のものである事業を持っているのだと思っていました。ただそれは家庭という事業だったのです」

「それゆえに、あなたは卜東延が家庭を裏切ったことを発見したら、殺したんですか？あなたの世界がもう一度彼に破壊され、彼がまたもや約束を破ったからですか？」

「いいえ、何警官、すでに言いましたが、東延の不倫で私に殺意は起きませんでした。たしかに私は悲しく、挫折感があり、彼がどうして男と付き合いたいのか、ひいては、あの男に体にあんなに多くの跡を残させたのか私は理解できませんでした。東延が攻めではなく、耐える方だと私はわかっています。なんといっても首の後ろ側のキスマークや腰と太ももにある跡がどのようにできたのかについて、女として、見てわからないはずがありません」

「あなたは、卜東延が男が好きで、実際は同性愛者だが、『理想的な生活』のためにあなたを利用し、単なる子供を産む道具として扱い、せいぜい成功する男のラベルとして見なしていたことに気づいたかもしれません」何思の話は非常に鋭いと言えた。岳景楨さえも微かに眉をひそめずにいられなかった。

　しかし秦夏笙は少しも動揺せず、さらに自嘲的な笑みを浮かべた。「あなたが言ったことは、私も全て考えたことがあります。信じてください。自分を疑うことにかけてはあなたに負けませんよ。私と東延には二十年間の情があります。彼がすっかり私を利用したとして、私に対して全く情がなくなるはずはありません。私は……確かに彼が不倫したことを発見した後、こっそりガイドの能力を使いました。彼が私を愛したことがあるのか、たとえ愛情じゃなくても私を一人の大事な家族と見なすのか、知りたかったからです」

「その結果失望させられましたか？」

「いいえ。あなたも、なぜ一年を我慢してからやっと取りかかりはじめたのかと聞いたじゃないですか？なぜなら、東延がこの家に情があることを確信したからです。私個人に対して単独のではなくても、彼は子供にも家庭に対しても情がありました。利用していようが、心から愛していようが、私は細かく区別したくありません」秦夏笙は話す速度を速めた。目は潤んでいるようだ。「私はこう考えました。彼に正直に白状しよう、すでに彼の不倫に気づいたと言おうかと。彼が実は同性愛者だとしてもかまわないし、過去に彼が私を利用していたとしてもかまいません。私たちの情は本当のもので、お互いこんなに長年支え合ってきました。子供のためでもいいから、彼との生活を続けたかった。彼が正直に認めてくれれば、私も名ばかりの婚姻関係を喜んで続けます。彼が出世したいなら、落ち着いていて仲睦まじい家庭関係もとても大事なことだと私はわかっていましたから」

　何思は愕然とした。秦夏笙がこれほどまで自分を犠牲にできるとは思いもよらなかった。「あなたにはこんな覚悟があったなら、なぜ突然彼に手を下したんですか？」

「初めに言いましたが、私が人生で一番悔やんでいることは、ガイドの能力を使ったということです。長年ずっと、まだ自分の能力と人生計画を模索していた少女の頃は別として、それ以後はガイドの能力を使ったことはありませんでした。東延の不倫を発見するまでは。」秦夏笙はかすかに肩をすくめたが、またすぐに背筋をまっすぐに伸ばした。「最初は、ただ彼の感情を知りたかっただけです。先ほど言ったように、彼がこの家庭に情があるのかどうか、私に情があるのかどうか明確にしたかっただけです」

　しかし、ガイドの能力はまるで麻薬のように、いったん使い始めると、無意識に依存し始める。

　他人の心の声と感情を探知するのは、あまりに魅惑的すぎたのだ。特にミュートは全くの無防備だから、レベルの高いガイドには簡単に彼らの六割ほどの心の声が聞こえる。

「何が聞こえましたか？」何思はすでにはっきりわかっていた。

　秦夏笙は登録されていないガイドのため、ガイドの系統的訓練を受けたことがなく、精密に自分の能力を使うこともできない。彼女ができるのは、完全に閉めるか、完全に開けるかのどちらかだ。その上、S級のガイドである彼女が能力の扱いに慣れていくにつれて、ミュートは彼女の前では次第に全くプライバシーがなくなった。

　何思の質問に対して、秦夏笙はすぐには答えず、背筋をまっすぐに伸ばし、最初のあの端正で優美な姿に戻った。まるで普通のTシャツとジーンズではなく、フォーマルウェアを着ているようだ。

　彼女はあの日を思い返した。本当に意外だった。彼女は自分の能力がこんなに強いとは思いもよらなかった。

　彼女は珍しく一緒にディナーを食べた夫を見つめた。彼らがきちんと座って一緒に食事をとったのは久しぶりだった。夫はあいかわらず気配りができて優しく、彼女に仕事のことをあれこれと話した。

　それから彼女はよく知っているが心が痛くなるほど冷酷な声が聞こえた。

『仕事のことを話してもお前にわかるのか？腐れババア……ゴミ……クズ……学生時代には賢くて積極的だったのに、今は何というざまだ。何もわからない、クズだ。お前にこんなことを話しても時間の無駄だ。お前に何がわかるのか？何がわかるのか？何がわかるのか？お前はこの家のダニだ、ダニ！ダニ！』

　あっという間に、秦夏笙はただ全身氷のように冷たく感じるしかなかった。