35:センチネルの鼻は犬より使い易い
身近な人や親戚、友人を最初に疑うという基本的な概念、蘇小雅にもある。ただし感情的には一時的に切り替えられない。特に、蘇小雅は秦夏笙の感情を精神力で感じられるから、表面上が冷静で、優雅とも言えるこの女性は、夫の死後にどれだけ悲しんでいるかを知っている。
「彼女ではないと思います」しばらく葛藤した後、蘇小雅は病院を出て、車に乗った時、馮艾保に自分の意見を伝えた。「彼女の感情を感じ取れます。これは、大切な人を失った人が持つ典型的な悲しみ、驚き、そして深い自責の感情です。彼女は夫が亡くなることなど予想していなかったでしょう」
「予想していなかったのか?」馮艾保はサングラスをかけ、何か思惑があるように言葉を伸ばした。
彼の目は他の部位よりはるかに敏感で脆弱のようだ。この頃の付き合いで蘇小雅は気付いた。明るい場所に出くわすと、馮艾保は必ずサングラスをかけなければならず、夜でも同じだ。夜の都市の光害は彼にとっても友好的ではないようだ。
「何か気付いたことがありますか?」蘇小雅は自分が経験不足だとわかって、他人の感情に影響されやすいこともわかっているから、あえて馮艾保と口答えしようとしなかった。
「今のところは何も」馮艾保は肩をすくめ、車を出してスムーズに運転した。「強いて言えば、秦夏笙は私に非常に特別な印象を与えた。彼女は冷静で自分の感情を抑えることができて、悲しみの中でも意志力で感情をコントロールできる非常に凄腕の女性だ」
「警告しておきますが、秦夏笙は卜東延の未亡人で、卜東延が亡くなってからわずか二時間です。恥知らずに彼女を狙わないでくださいよ!」蘇小雅は頭がブンブンと音を立て、自分の口が制御できずに厳しい警告を口にした。
「うん?」馮艾保は明らかにポカンとして、さらに彼に一瞥をくれた。「眉ちゃんよ、君の解釈能力がこんなに……独特なものだとは思わなかったよ」
「違います!そうではありません!」蘇小雅はすぐに自分の反応が過剰であることに気付き、顔が一気に真っ赤になって、焦っているように自分の膝を叩いた。「僕はただ……僕はただ……とにかく、お前が変なことを言ったせいです!」
「私の言い方、どこか変?」馮艾保は真面目な学生のような顔つきでそう聞いた。
蘇小雅は歯を食いしばって、口を尖らせて、答える気はなかった。彼は自分が何を答えるべきかもわからなかった。先の会話はどう考えても自分のわがままに過ぎない。馮艾保は単に平然と自分の秦夏笙に対する評価を述べていただけだった。
冷静に考えたら、蘇小雅の秦夏笙に対する評価もほぼ同じだ。彼女は彼が初めて接触した遺族で、他の参考例はない。強いて言うなら映画やテレビドラマの中でしか参考例はいないのだ。しかし、映画やテレビドラマに登場する遺族は大抵、非常に病み散らかっていたか、あるいは「容疑者」と額に書いているかのように過度に理性的でいた。秦夏笙の行動とはまったく似たようなところはなかった。
こんな未亡人には嫌疑をかけられるべきか、彼女の示した悲しみを完全に信じるべきか、新人の蘇小雅は思わず深刻な疑問に陥った。
「言ってよ、私が何か変なこと言ったのか、とても気になる」それでも、彼の隣にいる馮艾保は明らかにこの問題を簡単には置き去りにしないつもりだった。
何思がいないというのは、調停役がいないということだ。馮艾保と蘇小雅はこの争いを自分たちで解決しなければならない。あるいは、馮艾保のからかいと蘇小雅の過剰反応を防がなければならないと言うべきだったか。
「僕が……過剰反応しました。ごめんなさい……」蘇小雅は非常に不機嫌だったが、間違ったことをわかってから改める子だ。謝ることには何の恥じでもない。ただし、なぜかその相手が馮艾保の場合なら、非常にムカつくと思うのだ。
「わかった、君の謝罪と好意の示しを受け入れるよ……」馮艾保も潮時を見て切り上げることをわかる。
「謝っただけです。好意を示していません」蘇小雅は彼の話に割って入り、厳正に反論した。
馮艾保はそれに笑いを誘われて、車を運転しているにもかかわらずゲラゲラと笑い出した。
「なんですか!僕は何も間違ったこと言ってません……」 蘇小雅は彼に笑われて、顔が真っ赤になって、腕を組んでから顔を背け窓の外を見た。
「ごめん、ごめん、君があまりにも可愛いからな」馮艾保はやっと笑いをやめた。彼の運転技術があって、五感も鋭くて、しなやかな身のこなしのおかげで、楽しみ極まりて哀情多しによる交通事故を起してなかった。
「僕は成人しました」蘇小雅は不機嫌を続けて、自分はまったく眉ちゃんではないと思っている。もし馮艾保がそのまま彼をからかい続いたら、すぐに大童になるだろうと思った。
「何思も可愛いとよく思うんだよ、それは年齢に関係ないんだ」蘇小雅が突然自分を見つめたのを見て、馮艾保はまた誤解されたことがわかった。彼は再び大笑いする寸前で、すぐに説明した。「何思はもう君の兄がいることを知っているよ。私には何も不適切な考えはないし、私も自分が可愛いとよく思うから、これはただの形容詞だ」
この説明に、蘇小雅はしぶしぶ受け入れた。おそらく、彼は馮艾保が嫌いだと感じるのと同じように、嫌いというのもただの形容詞だろう。
とにかく今は可愛いか嫌いかを白黒付けるところではなく、二人の会話はすぐに事件自体に戻った。
「次は監察医のところに行きますか?」
「それは違うな。今回の事件は前回のホワイトタワーの事件とは違って、割り込める仕組みはない。先聞いたところ、卜東延の解剖は最速でも明日の午後になる。解剖報告書なら三、四日待つ必要もある」馮艾保はそう言いながら、信号待ちの間にパソコンの中の情報を蘇小雅に送った。「まずは警察署に戻って
「王夫人が犯人だと思いますか?」
「まあ、そうでもないが……自白した以上、彼女が本当に犯人かどうかを調べるしかない」
「でも、彼女は卜東延の名前すら知らないし、彼らはおそらく繋がりすらありません。どうして突然殺人を犯したんですか?僕は彼女が犯罪を犯す可能性は低いと思います」蘇小雅は思わず王夫人が癲癇発作時の様子を思い出し、振えるのを抑えられなかった。
「眉ちゃん、この前の事件で何度も忠告しただろう。可能性があるなら、絶対的な結論を下すべきではないって。自分が何言ったかを聞いてみろ?『可能性は低い』って言ったろ?それは完全に可能性がないわけじゃないってことだ。そうだろう?」馮艾保は若いガイドを見つめ、そう忠告した。
蘇小雅は瞬きをして、何か言いたげそうにしていたが、すぐに黙って素直にうなずいた。「その通りです。僕は軽率しました」
「それほど深刻じゃないよ。小さなことだ。経験を積めば補える」馮艾保は逆に慰めていた。
「でも、理解できません。王夫人が卜東延を全く知らないのに、どうして自分が殺したことを認めるんですか? それに、毒殺だと明確に言えるなんて」
現場で残された痕跡と目撃者の証言に基づいて、蘇小雅は卜東延の死は毒殺である可能性が高いとも推測できたが、一般的に目撃者は「何が起こったのかわからない、いきなり血を吐いた」といった証言を言うはずだ。中毒であるとは断言しない。
混乱の中で、人間の脳は直感的な判断しかできず、聞いたことや見たことをそのまま伝えて、連想や推測などはできない。通常、気持ちが落ち着きを戻ってから、脳は刺激的な情報を再び整理し始める。つまり回想する時から、他の意味を持った連想が形成される。
しかし、こうした連想は個人の生活経験や、驚いた際の情報の不明確さによって非常に簡単に影響され、脳は模糊な部分を積極的に埋めようとする。多くの証言は目撃者自身の想像の一部を示す結果。わかりやすく言うと、脳は記憶を作る。
これも目撃証言をできるだけ早く収集すべき理由だ。時間が経つと、同じ事故現場でも、人々の思い出がますます異なることが明らかになって、時には根本的な矛盾が生じることすらある。
王夫人の身に起きたことは、二つの可能性がある。一つは彼女が実際に卜東延を毒殺した。もう一つは彼女が冷静な過程で自分の記憶を想像してしまった。
これは警察が明らかにしなければならないものだ。
「これについて、王平安に問題があるって言ったことを覚えているか?」馮艾保はそう訊いた。
「覚えています。彼は妻が犯罪を犯す可能性についてとても気にしている様子もなく、彼女が癲癇発作で、状況がまだ不明確なままの時も、特に焦りや心配の様子も示せず、手元の飲み物を全部飲み終えてから彼女の元に行きました」
「君が王夫人を尋問した際、私は彼女の夫に対する依存と崇拝が通常とは異なることに気付いた。私はもう長い間、夫を人生の唯一の主人公として考える言葉を聞いていないよ」馮艾保はため息をついた。
「それでは、おそらく王平安が手を下したが、王夫人に罪を着せたと思っていましたか?」蘇小雅の反応が早い。すぐに気づいた。「阿思お兄ちゃんと一緒に王夫人の医療記録を調査しようとしている理由は、彼女が王平安に利用されるような精神的な障害を持っているかどうかを調べるためですか?」
運転中だったため拍手ができないが、馮艾保は片手を空けて自分の腕に軽く叩いて褒めた。「素晴らしい。やはり君が私に腹を立てない限り、頭の回転は非常に速い。プラス二十ポイント」
「別に君に腹を立てていません!」蘇小雅はすぐに不機嫌そうに眉を寄せ、口も尖っていた。
馮艾保は微笑んで、この問題についてさらなる意見を述べることなく、事件に焦点を当て続けた。「今、私たちは王平安の個人情報の調査申請ができない。なにせ、彼は容疑者でも当事者でもないからだ。目撃証言でも彼が事件の経過を全く見えていないことが証明できる。そして、彼の証言からも、客を迎え入れることはいつも妻がしていて、どの客が常連かわかる訳がない」
「そうですよね……なんで王平安の反応がそんなに変なのですか?」
「チャウダー」馮艾保は巧みにハンドルを切って、車を道路脇の駐車スペースにスムーズに差し込んだ。この間で車全体が非常に安定していて、蘇小雅は最初の瞬間に車が止めたことに気づくことすらできなかった。
蘇小雅はぽかんとしたが、すぐに気を戻した。「秦夏笙が言ったように、卜東延は乳製品を摂取できません。しかし、チャウダーはバターと牛乳が必要です!なので、卜東延は王平安のケータリングカーの常連ではなかったのかもしれませんよね?でも、それなら……」
蘇小雅はこめかみを押さえて、思考のロジックが急に行き詰まった。
もし卜東延がケータリングカーの常連でないとすれば、なぜ王平安は彼を標的にしたのか?王夫人は卜東延についてある程度の認識を持っているようだ?なにせ、チャウダーのことを除いて、秦夏笙の提供した情報と一致した。
では、一万歩を引いて、もし卜東延が確かにケータリングカーの常連だったら、王平安は通常の仕事で彼と接触する機会すらないはずだ。だとしたら、彼は卜東延を殺害する動機がない。卜東延がチャウダーを飲まないから殺そうとした訳がないだろう?
それに、もし王平安が卜東延を殺し、自分の妻に罪を着せたのであれば、この二人はどうやって知り合ったのか?王平安は実に快楽殺人犯で、無差別に人を殺す訳もないだろう?
カッカッカ。蘇小雅は自分の脳から歯車がはまっている音が聞こえているようだ。質問を投げてきた馮艾保に助けを求める目で向いてきた。
「にんじん、セロリ、じゃがいも、玉ねぎ、かぼちゃ、ローリエ、えび、あさり、ベーコン、豆乳、アーモンド、くるみ、カシューナッツ、植物性生クリーム」馮艾保はいきなり食材のリストを言い始めた。蘇小雅は瞬きして、彼を見た。「王平安のケータリングカーのチャウダーから、これらのような香りを嗅いだ」
蘇小雅は驚きのまま、口を開けて一時、答えることがでなかった。しばらくして、彼は畏敬の念を抱いてそう言った。「センチネルの嗅覚って、犬以上に鋭いですか?」
「何だよ、犬って。トップのセンチネルの嗅覚は電子鼻に匹敵するほど優れているんだ!前に見学させたばかりだろ?」馮艾保は目を細めて笑い、親しそうで蘇小雅の鼻先を指でかすめた。
若いガイドはぼんやりと頷き、少なくとも五感の鋭さにおいて、彼は馮艾保を非常に信頼しているのだ。
「それで、何かおかしいなところを見つかったのか?」馮艾保は車を降りることに急がなく、興味津々にハンドルに伏せて頭を傾いていた。珍しく自分に警戒していない上、歯向かうこともしていない蘇小雅を見て、笑顔で尋ねた。
「このチャウダー、乳製品を一切使用していません……」蘇小雅はため息をついた。「どうりで、卜東延は彼らが出したのを飲んだのですね」
「可能性の一つね。それに、チャウダーの価格表を見たが、約500 C.Cのカップはたったの六十元」
「それは本当にお得ですね!それほど多くの種類のナッツを練りこんだスープ、その部分の材料は安くないはずです!」蘇小雅には料理人の兄がおり、各種食材の価格や卸売価格を少しわかっている。
同じリットル数でも、新鮮な牛乳は自然にナッツより安価で、ミルクパウダーを使った場合なら新鮮な牛乳よりもっと安価だ。価格から見れば、最も賢明な選択はミルクパウダーを使うことだ。安くて品質が最も安定しているから。
「なんが、君が非常に驚くべき推測を持っているように思えますが……」蘇小雅の頭にはぼんやりしてて、わかりにくい考えが浮かんだが、すぐには消えた。
馮艾保は笑って答えなかった。
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