18:保保(バオバオ)、お母さんは家に帰って食事をしようと言ったよ。

 蘇小雅は当初、これは長いプロセスになるだろうと思っていたが、意外と瞬く間に終わった。

 馮艾保は金炳輝とラッセル中将に場所を譲った。この二人が次々と前に出て、細い管を通して密閉容器内の匂いを嗅いだ。

 金炳輝は眉をひそめ、十分ほど嗅いだ。彼は匂いを嗅ぎ取れたかどうかを区別しようとして、少し焦燥感が入り混じった呆然の状態にあった。

 逆に、ラッセル中将は無表情のままであった。彼は金炳輝ほど長く嗅がなかったが、馮艾保と同じくらいの時間がかかった。彼が容器を研究者に返した後、馮艾保に向いて頷いた。

「レン・チェスタの寝室でこの匂いを嗅ぎましたが、匂いがもっと薄かった。それは経過時間に関係しているはずです」ラッセル中将の声は非常に低かった。彼はゆっくりと話し、一言一言を非常にはっきりと発音して、まるで彼の言ったことは普通の会話ではなく、目標を正確に撃ち込みたい弾丸のようなものだった。

「匂いを嗅ぎ取れなかったです」金炳輝は再び研究者にもう一度密閉容器をもらい、もう一度深く匂いを嗅いで、「レン・チェスタの寝室でも、今と同じく、匂いを感じていなかったです」と断言した。

「レン・チェスタは上級センチネルですよね?具体的に言えば、何級ですか?」と責任者が尋ねた。

「最新の身体検査のデータから判断すると、彼はA+級のセンチネルで、将来的には私と同じくA++級に成長する可能性があります」金炳輝は答えながら、手首のマイクロコンピューターを上げて言った。「彼の情報を送りましょうか?」

 責任者は頷き、転送コネクタを取り出して金炳輝に手渡し、横でデータを送信するようと頼んだ。

「実験の結果で確認できたことは、馮艾保がレン・チェスタの寝室で嗅いだ匂いは揮発したオレアンドリンの匂いでした。あなたもラッセルも証拠物の書類にサインしてください」責任者が言うと、二人のセンチネルがそれを従い、前に出て署名をした。それを見て、責任者が文句を言った。「馮艾保、私たちを困らせることを減らしてもらえませんか?あなたの捜査のせいで、これが何回目の残業でしょうか?」

「それは私がコントロールできることではありませんよ!私もそんなことを望んでいないですから」センチネルはふくれっつらをして自分を弁護した。「身体的な優位性を利用して罪を犯さないでというセリフは悪人たちを対象に言うものでしょうね」

 確かにその通りだ。責任者もそれをわかっているが、馮艾保に文句を言いたかっただけだった。馮艾保が担当する案件は常に重要性の高いものなので、その分、ラボの仕事量も増えてしまった。真面目に働くのが嫌だというわけではないけど、特に鑑識課のラボ責任者を務める人はもともと正義感と責任感の高い人だ。しかし、馮艾保は常に非常にトリッキーな角度から証拠を見つけてきて、そのような証拠物の信頼性を検証するために残業も増えるのだ。

 残業の回数が多くなると、責任者の機嫌はやっぱり損なわれる。

 但し、文句を言っても、似たようなことが再度起きると、ラボの皆はやはり協力的だ。ということで、責任者は馮艾保を睨むことすら余計だと思った。金炳輝が資料の送信を済ませたのを見て、手を振ってこの数人をラボから追い払った。

 ラボを出て、数人が一緒にエレベーターを待っていると、ラッセル中将が突然声を出して言った。「あなたのお母さんは家へ帰って食事をしようと言ったよ」

 その場にいる者の中に、蘇小雅だけが唖然として、その話は誰を対象にしているのかわからず、ぼんやりしてラッセル中将に目を向けた。

 金炳輝はまるで何も聞こえていなかったかのように、エレベーターの階数表示灯をじっと見ていた。残念ながら数台のエレベーターはすべて高層階にあり、地下まで降りてくるには時間がかかりそうだった。

 馮艾保は相変わらずだらしがないままで、半分目を閉じて壁にもたれていた。今の話が聞こえているのか聞こえていないのかわからなかった。彼が居眠りしていると言えるような姿をしていた。

「どれぐらい家に帰っていないのか?保保バオバオ」ラッセル中将は激しい荒波の中で生きてきた人で、馮艾保の否定的な態度を眼中に入れないようにしていた。彼は言うべきことを言うんだ。ガキを取り扱うのがとても上手だ。

 蘇小雅はそれを聞いて、気持ちを抑えられず、プッと笑い出した。金炳輝も笑顔を隠すために頭を他の方向に向けた。当事者の馮艾保はやむを得ず、まぶたを開けた。笑いで肩が震えていて、眉と目が笑顔で曲っている蘇小雅を見て、ついに体をまっすぐに立ち上がった。

「叔父さん、幼名で呼ばないでください。」馮艾保は鼻をこすって、手を合わせて許しを請い願った。

「お母さんが言ってたよ、あなたは一年半も帰ってこないんだって。」ラッセル中将は明らかに、もう一人の間欠性難聴のできる人であった。馮艾保が吐いた弱音には耳を貸さず、地位の高い上級センチネルの威厳を見せた。

「母の言い方が不公平です。彼女は父の海外出張に付き合って、一緒に一年四か月間も海外に行っていましたよ。帰ってきてまだ二か月も経っていないのに」

「彼らが出発する前に、あなたは家に帰ったのか?」ラッセル中将は彼のことを大目に見てくれなかった。

「見送りは行きましたが、たまたま通報があって、結局見送りができなくなって、電話で別れを告げただけでした」馮艾保の答えは非常にずるいものだった。

 ラッセル中将はコバルトブルーの目を彼の顔に向けて、じっと見ていた。馮艾保は全く動揺せず、相変わらずいたずらっぽくにやにやしていた。しかし、側にいる蘇小雅はその勢いに圧倒された。年配の上級センチネルの勢いは成年になったばかりのガイドにとって耐えられないものだった。特に自分は何も意図がないのに、馮艾保のそばに立っていたことを後悔した。

 蘇小雅の不快感を察知したラッセル中将は視線をエレベーターのパネルに戻した。

「とにかく、今週末、家に帰って食事するようとお母さんが言ったよ」今の話は告知ではなく、命令だった。蘇小雅が自分のエンパスempathをしっかりと収めておいたけど、やる気満々、まるでよく磨かれた刀のようなセンチネルの威圧を感じ取り、つい思わずに何歩も下がってそれを避けよとした。

 隣にいる金教官も明らかにその威圧に耐えられなく、避けるために蘇小雅と同じ方向に下がった。

「今週末は無理です。相棒に食事を誘われました。彼は結婚相手を私に紹介します。彼がマイナス距離でリンクした相手と会う唯一のチャンスです」馮艾保は『ああ!本当に残念なことに。帰りたくないわけではない。仕方がないからだ』という表情で、遠回しして今の話を断った。でも彼の口調があまりにも大げさだったので、もともと馮艾保に騙されるはずのないラッセル中将も彼が言ったことを真剣に扱っていなかった。

「自分でお母さんに電話して説明しなさい」馮艾保に先約の時間を変えてもらうことを命じなかったけど、その言葉に両親に電話して安否でも確認しろうという意味合いが含まれた。

「わざわざこのように傷つけ合うことをする必要はないでしょう……」馮艾保は大げさにため息をつき、携帯電話を取り出してピピピと操作してからラッセル中将に肩をすくめてこう言った。「数か月前に新しい携帯電話に変えました。両親の電話番号をコッピして保存するのを忘れたみたいです。それとも今度何思と会った時に聞いてみますか?」

「何思?彼はあなたの相棒か?」ラッセル中将が尋ねた。

「はい、彼を見たことありますよね?ホワイトタワーの監視カメラの録画映像を見なかったと言わないでください」馮艾保は携帯電話をポケットに戻し、金教官に向けて口をとがらせた。「金炳輝、この聞き分けのいい奴は必ずあなたに何思のことを報告しておると思います。うちのお母さんにも何思のことを言ったでしょう。どうやら、突然に食事を誘うのは、何思は私とボンディングしたパートナーであるかどうかを聞きたいからですか? 」

 馮艾保は頭の回転が速い人で、突然に誘われた理由について、彼は既にすっかりわかってしまった。

 時代が変わっても、センチネル、ガイドまたは一般人であろうか、親はいつも子供が一人で生きていくのか心配する。誰かと結婚してほしいと思い、少なくとも誰かとボンディングしてくれるのを期待している。

 ラッセル中将は企みが見抜けられたから気まずいと思っていなかった。彼は相変わらず樹齢百年以上のヒマラヤスギのように、真っすぐに立っていた。どんなことが起きても、彼は木の枝が曲げられたかのようになることはない。取り乱しを見せることはない。

「あなたは彼と十年間相棒を組んでいるだろう?」ラッセル中将が質問を終えたところで、エレベーターが到着し、ドアがチンと音を立てて開いた。白熱灯の青白く冷たい光が流れてきた。

「お二人はどうぞごゆっくり。ラボに確認したいことがいくつあると思い出しました。お見送りを省かせていただきます」とても乱暴な言い訳を馮艾保がしたが、彼の本来の意図はお見送りするだけ、誰かを騙すつもりはなかった。

 金教官は去っていきたかったが、ラッセル中将がずっと動かなかったから、自分が先にエレベーターに乗るのはまずいと思った。彼はただ脇に立って、まるで自分がその場に存在していなかったようにした。

 蘇小雅は彼らが兄の夫について話し合っているのは何となくおかしいと思ったが、この件に関して自分も部外者なので、トラブルに巻き込まれないために口を閉じたままのほうが良いと考え、俯いて自分の手をいじっていた。

「どうぞ」馮艾保はこれ以上気を配らず、少しお辞儀して、エレベーターの方向に向けてどうぞというジェスチャーをした。その顔には仮面のような笑みが浮かんでいた。

 ラッセル中将はじっと彼を見て冷笑した。「保保、あなたは上級センチネルであることを忘れないでください。一生ガイドとボンディングしないことは実務的でないことだ。万が一、野生化になってしまったら、どんな大変な結果になるか考えてください」

「もう保保と呼ばないのなら、大変な結果になるのはあと五十年もかかることを保証します。五十秒後に起きることにはなりません」優秀なセンチネルは別のセンチネルの脅かしを恐れないものだ。普段は救えがないほどだらしがない馮艾保も一歩も譲ろうとしなかった。

「お母さんに電話するのを忘れないで」ラッセル中将は迫るのをやめて、ついて来いという合図を目で金教官に示した後、エレベーターに乗り込んだ。

 その時、金教官はラッセル中将のそばにいたくなかったけど、センチネルの遺伝子に刻まれている服従性の関係で、重い足を引きずって彼の後ろについて行った。

 エレベーターのドアがゆっくりと閉まり、馮艾保は手を振って、にこにこして二人に別れを告げた。

「どいうことですか?」エレベーターが一階に到着してから蘇小雅は初めて寄ってきて尋ねた。

「別に何もない。ただの家庭内の対立だ」馮艾保はまるで先まで静かに起きていた戦いをすっかり忘れたかのように肩をすくめた。「テレビで見た恋愛ドラマのようなストーリーだ。地位の高いセンチネルの家庭に、一匹のブラックシープがいる。家族はその子が早く上級ガイドとボンディングしてほしいと望んでいるが、そのブラックシープが家族内の年長者に従うのを嫌がっている。人とボンディングしなくても、自分一人でも幸せな人生と明るい未来を作れると信じているという話だ」

「ああ、恋愛ドラマなんかわかりません」蘇小雅は皮肉するのを忘れずに答えた。「そのようなドラマを見るとは思っていなかったです。あなたはお宝センチネルですね」

「食事するときに見って楽しいよ」馮艾保は蘇小雅に向けて眉を上げた。「最近見たドラマの内容を聞いてくれない?波乱万丈に満ちたプロットで、古臭いお約束の展開ばかりだよ。一番重要なことに、内容はエロいで、刺激的だった。主人公のセンチネルとガイドと三十話の時間をかけて、ようやく彼らの物騒な結婚式を終わらせたというストーリーだ」

「結構です。ありがとうございます」蘇小雅はその提案を冷たく断った。

 馮艾保は肩をすくめてその話題についての会話を終えた。そして手を伸ばしてエレベーターのボタンを押した。「結末は完璧ではなかったが、少なくともレン・チェスタの寝室で私が嗅いだ匂いはわかった。次に、レンのすべての通信記録と行動履歴の開示請求を申請できる」

 話が不意に飛んで、蘇小雅は二秒間唖然とした後、すぐに馮艾保の考えに追いついた。「つまり陳雅曼はレンに毒殺されたのですか?」

「キョウチクトウを入手する機会があるということを証明できれば、彼にかけられる疑惑が一番大きくなる」

「しかし……なぜ彼は陳雅曼を毒殺したいのですか?彼はどうしてこのような大きな抜け穴を残して、あなたに見つけられたのですか?」蘇小雅は理解できずに首を傾げた。

 エレベーターが到着して、二人が一緒に乗り込んだ。

「一番目の質問について、今のところはまだ答えない。二番目の質問について、事件の全貌を大体推理できると思う。ホワイトタワーはセンチネルの五感を抑える効果がある。ホワイトタワーに滞在する間、意図的に物事を感じ取らない限り、センチネルの五感もミュートとあまり変わらない。細かい匂いや音などを察知することはできないのだ。但し、そこに例外な場所は一か所ある。それは大講堂だ」

「それで、黎英英の五感は陳雅曼よりも敏感ですが、薬剤の匂いを嗅ぎ取りませんでした?逆に陳雅曼は匂いを嗅いだのですか?彼女が意図的に嗅いでいたからですか?そして大講堂において、抑制された五感が解放され、それによって黎英英と簡正が突然その薬剤の刺激を受け、重度のアレルギーを引き起こし、死亡したのですか?」蘇小雅はそれについて考え、ようやくすべてのことを理解できた。彼の顔に微かな笑みを浮かべた。

「眉ちゃんに十ポイント!」馮艾保は寛大に賞賛した。「レンのやり方は多分こうなっていただろう。彼はオレアンドリンの毒素を抽出した。それについて、最も簡単な方法は樹液を集めることだ。そして、それを水で割って、精神力を回復する薬をその液体に浸かっただろう。その後、その薬を使って陳雅曼を毒殺した。レンは必ず何も匂わないまで、部屋中の匂いを取り除き、自ら確認していたはずだった。しかし、彼が匂わないと思うほどの匂いを、私のような上級センチネルにとっても匂わないわけではなかった。陳雅曼が死亡した後、私は何か特別な匂いがあるかを確認するため、彼女とレンの部屋を捜査した。生徒たちはホワイトタワーの監視下にあるので、外部から毒薬を買ってくる可能性がとても低い。一番楽な方法は何とかして、自分の手で簡単な方法で毒薬を作るのだ。そんなやり方であれば、匂いが絶対に残る」

 少しずつ進めて、毛糸玉の糸端さえ取り出せば、次の推理は自然に展開していける。

 蘇小雅は、目の前にいつかタバコを取り出して口に銜えて、眠そうな顔がするセンチネルを見つめた。

「あなたの頭は本当に優れていますね!」

「お褒めの言葉ありがとうございます」

 馮艾保が厚かましく賞賛を受け入れたのを見て、蘇小雅は彼と言い争いをしたくなった。

 しかし、話を始める前に、馮艾保の携帯電話が鳴った。馮艾保はゆっくりと携帯電話を取り出し、表示されている名前をちらりと見た。そして、彼はエレベーターの壁面にもたれていた体を突然引き締め、背筋をすぐに伸ばし、怖いほど厳粛な表情に変わった。

 蘇小雅は掛かってきた人は誰かを微かに心当たりがあり、気持ちも引き締まった。

「何思……」馮艾保が電話に出ると、未だ何も話せないうちに、相手が言葉を連発した。その声が掠れて、息を切らして、非常に機嫌が悪そうだった。

「早く支援に来て!俺の携帯電話の位置を検索しなさい。アンドルーが逃げた!今、一人の西荊区の警察が彼を追っている!」

「ああ、今から行く」何思の言葉を聞いて、馮艾保の表情はすぐに緩んだが、意味のない話を言わなかった。彼は電話をすぐに切り、蘇小雅にウインクした。「来るべきことは避けられない!眉ちゃん、心の準備はできた?初めての逮捕現場を体験しようか!」

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