第41話 いつか、終わりがくるのなら





 危ないからもうやめなさいとあれほど言ったというのに、その日の夜、クロスはなんの悪びれもなくまたエルナの部屋の窓を叩いた。そうなると迎え入れないわけにもいかず、むっつりとした顔で自分のベッドの上に座るエルナの隣には上機嫌な様子のクロスがいる。


「別に、話すなら執務室でいいと思うし、隠れてくる必要はないんじゃないの……?」

「ここが一番落ち着くだろう。それに忍んでくるというのも中々楽しい」

「次こそは閉め出してやる」


 と、言いながらも結局今と同じ結果になるんだろうな、と思う自分もいる。


「それで、何か用事でもある?」


 つっけんどんに顔をそむけたエルナだったが、「あるぞ、十分すぎる理由がな」と偉そうな口調である。どんな顔をしているのか、そっぽを向いているエルナにはわからない。しかしそんなことは関係なく、クロスはちょいとエルナの左の手をとった。そしてするりと何かを指にはめる。なんなのもう、と不機嫌なままいじられた手を引っ張り返して、眼前に持ち上げ見つめる。


 左手の指に、指輪がはめてあった。

 ランプの光に反射して、虹色の輝く石がはめ込まれている。


「…………」

「そろそろ正式に嫁になってはどうかと思ってな」


 しばらくの間、エルナの中で時間が止まった。そしてじわりと涙が出てきた。


「ん、どうした!?」


 どうしてじゃない。


「バカじゃ……ないの」


 純粋な感想である。「ん!?」とクロスは素っ頓狂な声を上げているが、本当にそう思った。

 なんでこんなタイミングで、と意味がわからない気持ちのままエルナは指輪をはめた手とは反対の手の甲で何度も目頭を拭った。覚悟をしたときこないくせに、なんでもないときにいつもあっさりと乗り越えてくる。


「ちょっと待って」と顔を伏せたままクロスを片手で制した。何度か息を吸い込み、「はー……」と息を吐き出して下を向き、「大丈夫、落ち着いた」

 見上げたとき、なぜかクロスは妙に情けない顔をしている。中々見ない顔である。


「……どうかした?」

「一応、伝えておくが」


 これ以上何を言うつもりなんだとエルナはすっかり訝しげだ。


「……俺は、側妃は持たぬつもりだが、それをお前に求めるつもりはない、ということだ」


 ――嫁になるとは言ったけど、クロスは王族だもの。側妃の一人や二人いてもおかしくないし。


 一瞬何を言っているのかわからなかったが、すぐに自分の過去に吐いた言葉が戻ってきた。


「な、なな、何を言っているの、というか、それを今更蒸し返すの!?」

「だから、まあ。不自由にさせるつもりはないと言いたい。たとえば、カイルとどうなりたいという気持ちがあればだな、望みを叶えてやることも……」

「そもそもそんな望みはないよ! そして王ならまだしも、正妃に夫が複数いるだなんて聞いたこともないしいらないって前に言ったよ! っていうか、今日妙に不機嫌だったのはまさかそれなの!?」


 クロスは開いた自分の膝の上に手を置き、見たこともないような顔で、むうっと視線をそらしている。これはもう呆れるしかない。

 とはいえ、人は恋をするとおかしくなってしまうものなのかもしれない。エルナだって、そうだ。後で考えると馬鹿らしいと思うのに、そのときは本当に悩んで、苦しくて仕方なくなってしまう。……だから。

 こんなときに伝える呪文は、ただの一つだ。


「……私だって、クロスだけがいいよ」


 正直に伝える。できることはそれだけで、十分なのだ。

 クロスはランプの明かり越しでもわかるくらいに、首筋を真っ赤な色に染めていた。


「では、正式な婚約を結ぶということで相違はないか」


 そしてちらりと視線をエルナに向けて、堅苦しい言葉を伝える。


「そ、それは」

「うん」

「す」

「す?」

「す、すす、すすす」

「おお……」

「するけど……!」

「するのか……!」


 思わず二人一緒に力が入って叫んでしまう。もとより断るつもりなんて初めからない。

 それに、とエルナはそっとか細い声を出した。なんとなく、ランプの中の揺れる小さな火を見つめる。ゆら、ゆらり。


「……王都が、燃えたとき。ううん、そもそも帝国が攻めてくるかもしれないという話を知らなかったこと、少しだけショックだったんだ」

「それは……」

「わかってる。私はエルナルフィアの記憶を持っているというだけで、それ以上でも、以下でもないもの。フェリオルのようにすべてを知らせることなんてできないし、するべきじゃない。でも、もし……正式な婚約者だったのなら、違ったのかなって。もっと、クロスの力になれたのかなって」


 燃える街を見つめながら、ただそれだけを考えていた。自分の力が、もっとあればと願わずにはいられない。

 自然と両手を合わせて顔を伏せていたエルナの手を引っ張り上げたのはクロスだ。


「なぜそんな馬鹿なことを言う。お前がしてくれたことは、もたらしてくれたことは、十分すぎるほどだ……これ以上、背負うな。それは俺の役目だ。それに足りないと嘆くのは、俺の側だろう」


 目と鼻の先ほどの近さで、クロスの瞳がよく見えた。

 あまりにも辛そうで、苦しげな顔で、そんな顔はクロスが王都に戻ってきたとき、エルナの火傷の痕を目にしたときぶりだ。なんだか気まずくなって、握りしめられたままの手でぐいとクロスの胸元を押してしまう。大した力も込めていなかったから、クロスはびくともせずにただエルナの両手を優しく握り続け、こてりと自身の額をエルナの手に当てる。

 あわ、とエルナは慌てた。そのまま腕を伸ばして距離を置いたり、逆に肩をすくめたりとがんばってみたが、どうにも声にならない声がうまく出ない。

 とうとう、エルナは諦めた。


 だから今度は、神妙な顔つきで、「婚約、してもいいけど、条件がある」と厳かに、じっと体を硬くして伝えた。この期に及んで『してもいいけど』とまとめる自分に嫌気がさしたが、そこは横に置いておく。


「条件? もちろん聞こう。教えてくれ」

「あのね」


 ゆっくりと顔を上げるクロスと、今度こそじっくりと見つめ合う。

 エルナはそこで一呼吸置いて。


「私より、先に死んで」

「…………ん?」


 長い間があってからクロスが首を傾げたので、エルナはゆっくりと言い直す。


「だから。絶対に、私より先に死んでほしい」

「待て。聞こえた。聞こえていた。そうじゃない」


 問題はそれじゃない、とクロスは首を横に振った。


「普通……逆じゃないか? いや、普通が何かと言われると、俺にもよくわからなくなってくるが」

「だって、死んだら骨になるじゃない」


 ゆっくりと細く長く立ち昇るあの煙を、エルナはどうしても忘れることができない。苦しくて、苦しくてたまらない。

 愛しい者を、この手で抱きしめながらすべてを終えたい。


「竜は愛しい者の骨を抱きしめながら死ぬの。私はもう竜ではなく人だけれど、でも、これだけは譲れない。愛しい人間の骨を、誰かに渡したくはない。クロスの骨は、絶対に誰にも渡さない」


 知らぬうちに、隣に座るクロスをそっと抱きしめていた。細いように見えても、やはりエルナと違う体つきだ。奇妙な心地だった。


「……これは、熱烈な愛の告白だな」


 背中を撫でられながら少しだけ、耳が熱くなった。抱きついていて顔を見せなくてよかったと思うしかない。


「よし、わかった」


 了承の言葉を聞いて、エルナはこくりと頷いた。


「では俺は存分に長生きしてやろう」

「……待ってこれどんな流れ?」

「大丈夫だ。そういうのは得意だぞ。なんせ俺はヴァイドのときもしわくちゃのジジイになるまで生きたからな!」

「それは知っているけれども!?」


 がばりとクロスを押しのけて距離をあけ見上げると、相変わらずクロスはにっかりと楽しそうな顔をしている。


「なんせ、可愛らしい嫁を一人きりにさせるわけにはいかん。俺もお前も、お互いの手がしわくちゃになるまで生きて、それから骨をやるしかないだろう」


 当たり前だ、とばかりに言い切られて、エルナはぽかんとクロスを見上げた。それから、「そうだね」と少しだけ吹き出すように笑ってしまった。

 エルナは、クロスとともに生き、そして一緒に死ぬためにもう一度この世に生を受けたのだから。

 自然と顔を見合わせて、つい、とお互いの顔が近づく……が。エルナははっとして、クロスを突き飛ばした。「なんでだ。どう考えても、そんな空気だったはずだ」とクロスはベッドの上で仰向けになりながらぼやいている。


「……次は抵抗するな、と以前に伝えたはずだが?」


 そしてすぐさま起き上がって、むっとした顔をして口元を尖らせている。


「そ、そうなんだけど、待って、そういうことじゃなくて! ご、ごめん!」


 最後のごめんはクロスに向かって謝ったわけではない。


「まさか、こんなことになるとは思わず!」


 もちろん、ハムスター精霊に向かってである。本日は就寝前であったために、いまだにエルナのポケットの中で己の気配をただただ殺し続けていた。慌ててポケットからハムスター精霊を取り出し、両手に乗せて平謝りをしていると、ハムスター精霊はなぜかこちらを向くことなく、丸まりながらふかふかのお尻をこちらに見せている。しぴぴと動く短い尻尾はとても可愛らしい……のだが。


『ほっといておくれ……でごんす』


 聞こえたのは震えるような、か細い小さな声である。


「え?」


 なんて言ったの? とエルナが顔を近づけると、ハムスターはふしゃあ、と振り返って、そして叫んだ。


『逆に気まずすぎるでごんす! もう、もう、こっちのことは気にしないでくれでごーんすぅー!』


 ばかやろー! とばかりにハムスター精霊はエルナの手を蹴り、『アディオース、でがんすぅ!』しゅぴっと短い手を振り、くるくると落下する。アディオスって何。


「え、あ、え……?」


 いつの間にかハムスター精霊の気配が消え、空っぽになってしまった自分の手をエルナは呆然と見つめた。

 そしてその隣にはクロスがいる。彼は腕を組みながら、じっと状況を見守っていたのだが。


「……そろそろいいか?」

「え?」

「抵抗するなと言っていたはずだが」


 本日二度目の台詞を吐いて、ぐいとエルナの顎に手を当てる。「う、ううう……」とエルナの口から、なんとも言えない妙な声が出たが、覚悟をして目を瞑った。ちょん、と唇を合わせて離した後で、エルナはふうと息をついた。

 その後で、今度はクロスの頭を抱えるようにえいやと自分から飛び込んでみせる。


「んむっ!?」


 唇をくっつけた後で驚いた声を出したのはクロスだ。やってやった。


「こっちだって、今度はこっちが慄かせてあげるって前に言ったでしょ……」


 なんとか余裕たっぷりな声を出したはずが、まったくそんなことにはならなかったけれど、してやったり、と胸の内がすっきりする。


「そういえば、そんなこともあったな……」


 と、馬車の中での一見を思い出しているのか、クロスはどこか魂が抜けたような声を出したが、「なら、もっと慄かせてくれ」と、さらに勢いよくこちらに覆いかぶさったために、「ぎゃあ!」と情けない悲鳴をエルナが上げてしまったのは言うまでもない。

 




 それから。

 ウィズレイン王国の王が一人の少女と婚約したという話は国中を駆け巡った。王都が復興していく中、めでたく明るいことだと人々は口々に少女と王を祝い、その噂は隣国や、さらに遠い国まで届いたという。

 銀の髪の青年は微笑み、王とよく似た女性はくすりと笑みを落として。

 ――もしかすると、遠い空の向こうの向こうまでもその噂は届いたのかもしれない。




 ある日のことだ。エルナとクロスがふと城の庭を歩いていたとき、しゃらしゃらと、空から不思議な音が届いた。

 それはもちろん、ただの天気雨だったのかもしれないけれど、青い空の中をするりと細く、きらめきながら通り抜ける竜の姿のようにエルナには見えた。

 しゃらん、きゃらん、からん。


 とめどなくこぼれ落ちるガラスの光をただ見上げ、エルナとクロスは強く互いの手を握りしめた。その手がしわくちゃになるまでと互いに願ったことを思い出し、エルナはまた少しだけ口元をほころばせて、光の雨をゆっくりと全身で受け止めた。




****

あとがき

****


こちらで第二章終了となります。

書籍二巻は、二万文字ちょっとの書き下ろしの番外編と、本編も新規エピソードを追加しています!

どうぞよろしくお願い申し上げます!

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ウィズレイン王国物語 ~虐げられた少女は前世、国を守った竜でした~ 雨傘ヒョウゴ @amagasa-hyogo

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