未来へと

キャロル・ルイス

 ぴちゃり。ぴちゃり。

 そんな微かな水音と鈍い頭痛が私の意識を呼び起こす。

 小さく呻いて頭を振り、ゆっくりと上体を起こすと、体にかかっていた黒のコートがパサリと音を立てて落ちた。

 ぼんやりと辺りを淡いオレンジ色で照らしている。横たわっていた私のすぐ隣には手持ちのランプがあった。

 一瞬、自分の置かれている状況が掴めなかった。

 が、すぐに脳裏に先ほどの出来ごとがよみがえってくる。

 川へと引っ張りこまれたように思うのだけれど、身体のあちらこちらを見ても私の服は濡れてはいなかった。

 ……まぁ、ここまで来て常識だとか普通だとかいうことを考えても仕方がない。この少しの間で非日常なことには随分と慣れたつもりではある。

 でも、そうなると私は地中の「現実ではないどこか」にでも入りこんでしまったのだろうか?

 そう思って軽く辺りを見回す。

 その割には今私がいる空間は人工的なものだった。

 倫敦の地下には広大な鉄道網が敷かれている。

 鉄道がそうであったように、世界でも初めての試みであった地下を走る地下鉄道だ。

 地上以上に煤煙がひどくて、利用しようものなら顔じゅうが煤だらけになってしまうようなものだが、時間に厳しい仕事についている労働者階級の人たちにはそれなりの評判だと聞いたことがある。

 いわく、煤と臭いを我慢すればそこまでひどいものじゃない、とのこと。

 ただ、それでも女性の間では不評で、私も二度しか利用したことがなかった。その数えるほどの体験も正直あまり良い思い出ではない。

 今いるここは――大きさこそ列車が入るほど大きくはなかったけれど、そんな地下空間によく似ているように思えた。

 ひとまず身体のどこにも傷がないことを確認する。

 関節をあちこち曲げて痛みがないかも確かめてみるけれど、幸いにも痛めた場所も打ち身になっている所もないようだ。

 ……さて、これからどうするか?

 引きこまれた以上、私がここに一人というのもおかしいし、何より手持ちランプとコートが私以外の誰かの存在を語っている。

 そして、このコートには間違いなく見覚えがあった。

 離れた所からカツカツと靴の音がしてくる。


「目が覚めたか?」


 手にはもう一つの手持ちランプ。

 この薄暗い中にあっても、闇の体現者みたいな人はやっぱり闇そのもののように思えた。


「ミスタ・ホームズ……」

「ここは地下鉄道の関係者や工事の人間が使うような道らしいな」


 流石の私もミスタ・ホームズが私を川へと引っ張った張本人、なんてことは思ってはいない。

 彼は私の傍まで寄るとランプを地面に下ろした。

 そして地面に落ちたコートを拾って羽織る。

 懐から取り出したのは紙巻き煙草とマッチ。いつものように火をつけて、次いで取り出したのはリボルバーの拳銃だった。そのシリンダーを開いて弾を込め始める。


「使ったんですか?」


 見上げながら問う。


「お前を助ける時に三発ほどな」

「相手の人は?」

「残念なことに仕留められなかった。お前を傷つけて良かったのならやりようもあったが、そういうわけにもいかないだろう?」


 カチリ、と弾を込め終わった拳銃を構える。その姿は堂に入っていた。

 狼が狩りをする瞬間なんて見たことがないし、知っている知識で言うなら狼は群れ単位で行動をして単独での狩りなど行わないはずだけれど、きっと獲物を前にした狼はこういう姿を見せるのだろう。

 狡猾で怜悧な狩人。

 狙われたら、きっと逃れることは叶わない。


「安心しろ、次はきちんと仕留めてやる」

「………………」

「……使って欲しくない、とでも言いた気な顔だな」

「当たり前です、そんなこと」


 私は即答した。


「なら、お前はいよいよ本物の愚鈍ってことになる。いや、ここにいる時点でそれは確定か。一度ならまだしも、二度も自ら危険な場所に飛び込むくらいだからな。学習能力が足りないのか、状況を理解する力が足りないのか……いずれにしても、俺が助けに来なきゃお前は躯になって転がっていたはずだ」

「わからないじゃないですか、そんなこと」

「それじゃあ、まさかのハッピーエンドを想像していたのか?」


 嘲るように言ったミスタ・ホームズだったが、私が表情を変えなかったのを見て不愉快そうに目を細めた。


「ヤツの感情はすでに憎しみに染まっている。情にあって殺せないだろうと踏んでいるなら浅はかだぞ。お前を殺すのに、もはや躊躇はないだろう」


 銃をしまい、紙巻き煙草をもう一口吸ってから地面に落した。

 微かな苛立ちをぶつけるようにそれを踏みつぶす。


「まあ、良い。ここで大人しくしていろ。獲物を片付けた後で家まで送ってやる」

「待ってください」


 手持ちランプを持ってその場を後にしようとしたミスタ・ホームズを私は止めた。

 もう一つのランプを手に取って立ち上がる。


「私が行きます」

「……それはどういう意味だ? 決着は自分でつける、と?」

「決着をつけるんじゃありません。新しいスタートを切るために私が行くんです」

「新しいスタートを切る? それが出来るとでも思っているのか?」

「ええ、思っています」


 ミスタ・ホームズがはっきりと舌打ちをした。

 鋭くはあっても、今まで敵意というものは浮かんでいなかった目に、今ははっきりとした嫌悪の感情が浮かんでいた。


「何も知らない小娘が……」

「知らないからです。知らないから、私は知りに行くんです」


 彼の視線は鋭く私を貫いた。

 だけどそれに負けてはいられない。

 ここで退いてしまえば、きっと私は永遠に消えることのない傷と後悔を抱え込むことになるだろう。


「前にも言っただろう? お前は永遠の少女だ。幻影都市の一員なんだよ、俺と同じように」

「だったらなんだって言うんですか?」

「お前は誰かを贔屓してはならない。幻影都市の少女は誰からも愛される平等な存在だ。それを壊すことは、この幻影都市を破壊することに繋がる」

「あなたは、そんな幻影都市を守るために存在しているんですよね」


 今ならわかる。

 彼が『怪異』を解決するのは、彼が私立探偵でも高邁な精神を持っているわけでもなんでもない。

 『怪異』がこの倫敦の幻影を打ち壊す可能性があるからだ。

 そういう意味で、彼はこの倫敦の守護者なのだ。


「それまでわかっているなら説明はいらないだろう?」

「なら、今ここで私を撃ったらどうですか、その拳銃で。それで、新しい永遠の少女でもなんでも見つければ良い」

「正気か?」

「ええ。紛れもなく正気です。私は、アリス・リトルバード。永遠の少女だか何だか知らないですけれど、私は彼女の……キャロル・ルイスの一番近しい理解者でありたいと思っています」


 はっきりとした言葉を伝える。

 彼は新しい紙巻き煙草を取り出すと、火をつけ、半分ほどまでを一気に吸いがらに変えた。


「……勝手にするんだな。その代わり、コトがお前の思うようにいかなかった場合はこちらだって好きにさせてもらうぞ。ようやく見つけた永遠の少女をみすみす失うわけにはいかない」

「はい」


 私はランプをかかげて、この延々と続いているような地下道を進み始めた。

 数歩進んだところでピタリと歩を止める。

 後ろを振り返ると、ミスタ・ホームズは紙巻き煙草を手に私を睨みつけていた。


「一つだけ言っておきます、ミスタ・ホームズ」

「………………」

「何もかもがあなたの思い通りになると思っているのなら、それこそ思い上がりです。想いは、時としてどんな道理だって超えられる。私はそう信じています」


 彼は何も言わなかった。

 意図して無視をしているのか、単に呆れて物が言えないだけか。まぁ、今考えべきことはそんなことじゃない。

 私は手に持ったランプが照らす先に歩を進めていく。

 霧は濃いが全体的な湿度は一年を通して低いこの倫敦でも、地下は少しじっとりとした湿り気があるように思えた。目が覚めた時にも水の音がしたように思うから、どこかでテムズの水が滴っているのかもしれない。

 地下鉄道の関係者が使う道というだけのことはあって、照らしてわかる範囲だけでも結構な数の別れ道があった。

 今はまだ日陰者の扱いをされている地下鉄道だけれど、今よりも技術が進み、環境が改善されれば、渋滞が当たり前になってしまっている地上交通にとって代わる存在になっていくだろう。

 そのための工事は今も着々と進められていて、こうした地下網はこの倫敦の地下深くにそれこそクモの巣のように張り巡らされている。

 それでも私は迷わなかった。

 まるで初めから地図が頭の中に記憶されているように……もう何年も通い慣れた通学路を歩くように自然と足が動く。

 導かれている。そう思うと少し心強かった。

 ミスタ・ホームズはああ言っていたけれど、まだ彼女は私を必要としてくれているように思える。

 ああ、きっとそうだ。

 昨日今日会ったばかりの彼に、私と彼女が築いてきたモノの何がわかると言うのだろうか?

 確かに彼は悧巧で英知に富んでいるのかもしれない。

 それでも、それだけで量りきれるほど人の心と言うものは単純ではない。

 憎悪と愛情という二つの矛盾したものが同時に成立し、自らもそれに苦悩するのが人という生き物なのだ。

 ジジジというランプの音が痛く聞こえてくるほど周囲は静かだった。

 靴音が筒状の壁に反射しても、それは沈黙をより深くするためのもののように思えた。

 どのくらいの時間をそうして歩き続けただろう?

 あっという間な気もしたが、距離にしたら結構な距離を歩いたかもしれない。

 左に分岐した道に足を踏み入れたところでそれが近いと感じ取った。

 手持ちのランプをかかげて少し先を見やると、一枚の大きな扉が見えた。

 武骨な鉄がむき出しで装飾らしい装飾は何もされていない。正しくこちらとあちらを分けるためだけに用意された扉だ。手入れもされている様子はなく、すっかりサビついてしまっているように思えた。

 私はその扉に近付くと、二度深呼吸をしてから取っ手に手を伸ばした。

 ひんやりとした感触に、ぐっと力を入れてそれを引く。すると、金属特有の耳障りな音を立てて扉は開いた。

 体を中にすべりこませる。

 扉が閉まると、中は真暗闇に覆われた。

 手に持っているランプの光は少しも周囲を照らさず、どんどんと闇の中へと呑みこまれていっているようだ。

 そう言えば、ちょっと前に天文学について少し深く書いてある書物を読んだのだけれど、その中に、百年ほど前に興味深い天体の存在を推察する文章があったのを思い出した。

 それは、ニュートン博士の粒子学とニュートン力学を元に推察されたもので、莫大な質量と密度を持った天体は、その凄まじい重力により、光すらも逃げ出すことの出来ない暗黒の天体となるのではないか? という推察だ。

 今私がいる空間も正にそのようなものでないかと思えて、体の芯からじわりと恐怖が顔を出した。

 気がつけば呼吸も少し荒くなっている。

 ミスタ・ホームズにあれだけの大見えを切っておきながらこんな体たらくではどうしようもない。

 ぐっと手を強く握りしめ、自分の身体に活を入れてゆっくりと動きを再開させる。


「キャロ?」


 彼女の名前を呼んで、辺りを見回す。


「どこにいるの、キャロ? いるんでしょう? お願いだから、返事をして」


 だけど、その言葉に返答はない。

 目の前には闇だけが大口を開けて広がり、私の言葉などかき消さんとしているかのように思えた。

 ……正直に告白すれば、怖い。

 生物が本能的恐れてしまう暗闇に背筋が震え、足が止まってしまいそうになる。

 このまま進めば一生出ることの出来ない闇の中に閉じ込められてしまいそうに思えた。

 本能に従えば、今すぐにでも引き返し、この空間から逃げ出してしまいたかった。

 そんな恐怖を無理矢理に理性で押し殺し、ぎゅっと下唇を噛んで足を進める。

 体中の細胞が警告を発する。

 戻れ、戻れと本能のままに叫ぶ。

 それを無視して、想いだけを信じて歩き続ける。

 私が今感じている恐怖なんてたぶんキャロが感じた絶望からしてみればちっぽけなものに違いない。

 ミスタ・ホームズは言っていた。

 『怪異』を引き起こすのは、自分の足元に無限に光を呑み込む深淵が造られたかのような絶望だと。

 キャロは感じてしまったのだ、それだけの絶望を。

 その苦しみに比べれば、今私が感じている恐怖など恐怖と呼ぶことさえおこがましいだろう。

 足を動かす。

 恐怖を前にしてもはやただの棒きれと化した足を交互に動かして、破裂しそうなほど脈打つ心臓とどんどんと荒くなっていく呼吸を押さえつけて、私はひたすらに進む。

 ……私は、気付くことが出来なかった。

 それほどまでにキャロが苦しんでいたことに……一番近くにいたのに、誰よりもキャロのことを知っていたつもりなのに、何一つとして気付けなかった。

 あの、悲しさと苦しみが詰め込まれた『ありがとう』に、何一つとして言葉を返すことが出来なかった!

 キャロの……行き場のない、こらえきれない悲しみと寂しさ。

 そして、そんな中であっても私に向けられていた、かけがえのない温かさ。

 ――嫌だ!

 このまま終わるなんて……このまま彼女を失うなんて、私には到底耐えられない。

 キャロ?

 どこ?

 どこにいるの?

 キャロ!


「やっぱり、来てくれたのね」


 瞬間。

 ドクン、と心臓がひときわ大きく脈打ち、足が縫い止められたかのように止まった。


「キャロ……」


 その姿は真っ暗な闇の中に浮かび上がるかのようだった。

 真っ直ぐに向けられた視線は虚ろで、その表情はこの闇を取り込んだかのような冷たさに侵されている。


「信じていたわ。さっきはあの探偵に邪魔をされたけれど、アリスなら私を選んでくれるって信じてた」


 こんな表情のキャロを見るのは初めてだった。

 ……いいや、どんな人にだって、こんな顔は出来ないだろう。

 どれほど心を負の感情で覆い尽くそうとも、人には……温かい血が流れる人には、こんな表情は作れない。


「さあ、行きましょう?」

「!」


 今度は背後から。

振り返ると、彼女は光のない瞳で私を射ぬいて、そして、すぐに闇の中にその姿を消した。


「何者にも侵せない」

「誰ひとりとして」

「邪魔が出来ない」

「永遠に続く」

「そんな、理想郷に行きましょう?」


 多重に絡み合った声が私を絡め取るように木霊する。

 ……こんなことは現実には有り得ない。

 このキャロたちは本物じゃない。

 焦りと恐怖と不安で埋め尽くされながらも、微かな理性が残された頭がそう答えを出す。


「キャロ、帰ろう?」


 けれど、私には彼女を無視することなんて出来なかった。

 目の前にいるキャロは偽物なのかもしれない。でも、私の言葉は、気持ちは、本物のキャロに伝わるように思えた。


「みんな待っているわ。キャロのお父さまもお母さまも、学院の友達も……みんな、キャロの心配をしていたわ」

「どうでも良いわ、そんなこと」

「どうでも良いなんて言わないで。キャロも、本当はわかっているんでしょう?」


 そう問いかけるが、キャロの表情は変わらない。

 闇の本質を見てしまったかのような目に光りはなく、周囲を呑みこむ暗闇と同化してしまっているような空気は言葉一つでかき消せるようなものにも思えなかった。

 でも。

 それでも、私は彼女に言葉を向ける。


「私……ずっとキャロと一緒にいたのに、何にも気付いてあげられなかった」

「………………」

「キャロが苦しんでる時に私は何もしてあげられなかった。助けて、ってサインを貴女は出してくれていた。想いを伝えようとしてくれた。なのに……」


 あの時のキャロの物憂げな表情を忘れることは出来ない。

 そして、その後に浮かべてくれた笑顔が無理をして作ったものであったことだって知っていた。

 なのに、私は何も出来なかった。

 目頭が絞られるように熱くなり、じんわりと滴が浮かんだ。

 それが零れてしまわぬように服の袖口で拭う。


「ごめん……なさい。ごめん、なさい」

「勝手なことを言わないで」


 冷たい言葉が私の身体を貫くように放たれる。


「そうやって加害者ぶって涙を流せばあなたは救われるのよね。私がこうなったのは自分の責任だって、自分で自分を憐れんであげるのは気持ちが良い?」

「キャロ……」


 かつかつと甲高い音を立てて、キャロが私に近付いてくる。


「私のことを何も知らないで、何を貴女は謝るの? 私の苦しみを知っていたら、貴女は私を助けることが出来たとでも言うのかしら、アリス」


 その目は嘲るようだった。

 私に対して。そして、自分自身に対して。


「出来るわけがないわよね? 私の苦しみを知っても、貴女には何も出来なかったに違いないわ」

「どうしてそう決めつけるの?」

「決めつけているわけじゃないわ。正当な推論だもの」

「真実だもの」

「現実だもの」


 そして、目の前のキャロがふっと消えたかと思うと、


「どうやっても変えることの出来ない、未来だもの」


 背後から伸びてきた手が私の体を捕らえた。

 キャロの手があごをなぞる。

 氷のような冷たさ。そこには隠しきれない悲哀が渦巻いていた。


「このまま、貴女を閉じ込めておけたならどれだけ幸せなのかしら? 永遠に二人きりでいられるのなら、貴女はきっと私を見てくれるのに」

「ううん。私は、いつもキャロのことを見ていたわ。いつも優しい貴女に守られていたから……貴女がいてくれたから私はここまでこられたんだもの。こんな場所に二人っきりにならなくたって、私は貴女を見ているもの」

「私を見てきた? 優しい私? 私がいたから、貴女はここまで来れた? ――笑わせないでっ!」


 冷たい手に力がこもり、肌に爪が立った。

 小さな痛みが心へと食い込んでくる。


「よくそんなことが言えるわ。何も知らないで! 何もわからないで!」

「っ――!」


 背後の気配が消えて、今度は目の前に迫る。


「貴女は泣いたことがあるの? 恋い焦がれて、苦しくて、悲しくて! 何も出来ない苦しさがわかるの?」

「………………」

「ええ、ええ! 私は何度も想ったわ。貴女のそのかわいらしい顔を! 身体を! 何度も何度も想って! あなたの腕に抱かれることを願って! 空想の世界で何度も何度も貴女を汚したのよ!」


 真っ暗な闇にキャロの悲痛な声だけが張り詰める。

 強い力に押された私は倒れ込み、彼女は私に馬乗りになった。気が付けば、彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。


「もう、終わらせてよ……。嫌なの……もう嫌なのよ。貴女を想像の世界で汚すのも……他の人と楽しそうに話す貴女を見るのも。耐えられないの。離れ離れになって、いつか、貴女に好きな人が出来るなんて……。私が貴女の一番じゃなくなるなんて、想像しただけで、狂ってしまいそうになるの……」


 私の頬を彼女の小さな手が撫でる。


「初めてミスタ・スミス……ミスタ・ホームズを見た時、とても怖かった。貴女が何かを隠すように話せば話すほど、とても苦しかった。私の知らないところで貴女が新しい絆を作っていくことが恐ろしかった。一生……一生隠し通せるって、一生ただの親友を演じられると思ってたのに、ダメだった……」


 たくさんの悲しみとたくさんの想いが詰まったその手はとても儚くて、とても脆いもののように思えた。

 ……やっぱり、彼女は私より一回りも二回りも大人なのだ。

 私はまだまだ子供で、いつまでもあの学院の楽しい生活が続くような気がしていた。

 自分に好きに人が出来るとか、学院を卒業してキャロとバラバラになるとか、考えたこともなかった。

 ゆっくりと彼女の手が私の首にかかる。


「だから、一緒に終わりましょう、アリス?」

「キャロ……」


 ゆっくりと彼女の両手に力が込められていく。気道が狭められ、呼吸が苦しくなる。頭に巡るはずの血液が流れず視界が白くぼやける。

 これはきっと、私が彼女に背負わせてしまった悲しみだ。

 能天気で、自分勝手な私が無意識の内に彼女に与えてしまった無数の傷痕だ。


「ずっと私を見てくれるのでしょう? 傍にいてくれるのでしょう? なら、一緒に終わってくれるわよね?」


 なんて哀しい目なんだろう。

 世界にある哀しみの全て集めたとしてもまだ到底足りないに違いない。

 それほどの哀しみを、彼女はその身体に背負っている。


「さぁ、一緒に――」


 ぐっと一層の力が込められたその時、パァン、と銃声が弾けた。

 闇が揺らぐ。

 闇を消すのは光ばかりじゃない。

 同じ闇も、闇の中でうごめき、光とは違う鈍い輝きを放つことが出来る。


「自己満足は済んだか、リトルバード?」

「ミスタ、ホームズ……」

「お前の言葉はもう届きやしない。怪異へと変わったそいつはもはや人間らしい思考も意志もない。ベッティ・ハイドリッヒを見ただろう? それは、ただこの倫敦に害をなすだけの存在だ」


 馬乗りになっていたキャロがバッと後ろに飛びのき、ミスタ・ホームズに対峙する。

 私はコホコホと咳を繰り返し、ふらつく身体に鞭を打ってなんとか立ち上がった。


「貴方が……貴方さえ現れなければ、アリスはずっと私の傍にいてくれたのにっ!」

「詭弁だな。例え俺が出会わなかったとしても、こいつがお前の思う通りになるわけがない。仮にも幻影都市の少女だ。その少女の愛を一身に受けようなど、おこがましいにも程がある」

「うるさい! アリスは、アリスは私だけのアリスだったのに!」

「強欲だな。身の程を知れ、凡俗の徒が」


 ミスタ・ホームズが銃を構える。

 撃鉄が起こされる。

 次に放たれる銃弾は、間違いなくキャロを撃ち抜くだろう。そうなれば、キャロはこの世界から消されてしまう。

 何事もなかったように。

 彼女の存在など初めからなかったように。

 闇の中にすら、その痕跡は残らない。


――そんなのは、認めない――


 発砲音。

 呆気に取られたようなキャロの顔。

 思い切り投げ出した身体の右肩に鋭い痛みが走る。


「アリ、ス……?」


 私に押し倒されるような形になったキャロの顔が見る見るうちに青白いものに変わっていった。

 でも、それは先ほどに比べたら何倍も人間らしいもので、私は不思議な安堵を覚えていた。

 右肩から腕にかけて、経験したことのない、まるで灼熱に焼きついた棒を強引にねじ込まれているかのような痛みがある。

 だけど、動かないわけじゃない。


「キャロ……」


 私はそっと彼女の顔に手を伸ばすと、目じりから零れ落ちそうになっていた涙をすくった。


「本当を言うとね、私はまだ子供だから……貴女の想いにちゃんと応えられるのかはわからないの。貴女の想いと私の想いが釣り合うかもわからないし、私の方がたくさんもらいすぎちゃうかもしれない。キャロも知ってると思うけど、私って肝心なところで抜けてるし、知識もないでしょう? だから、すぐには貴女の望むようには応えられないかもしれない」


 胸が熱い。

 ドクンドクンと脈打って破裂しそうになる。


「だけど……だけどね」


 それでも私は彼女の顔にそっと顔を寄せると、そっと唇に口づけた。


「アリス……?」


 震えるような彼女の表情に胸がこそばゆい。

 それでも、堪らない幸福が起こってくる。

 この感情が嘘や偽りだとはとてもじゃないが思えなかった。


「二回目だね。覚えてる? 前に、興味半分でしたよね。でも、今のは違うわ。興味半分じゃない。今のは、私の本当の気持ち。出会った時から、キャロはずっと私の一番だよ?」


 瞬間。

 パリンと、闇にヒビが走った。

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