真相へ

 カタリとした音にゆっくりと目を開いた。

 ぼんやりとした頭に窓からの風景を目に入ってくる。夜がもうどっぷりと深けているところをみると、どうやらベッドに横になったところで眠りに落ちてしまったらしい。

 胸に抱いた写真立てが壊れていないことにひとまず安堵して壁の時計に目をやる。

 二十三時を少し回ったところ。そろそろ寝間着に着替えて本格的に眠らないと明日に支障が出てしまうだろう。

 ベッドから立ち上がって、私は「あれ?」と一つおかしなところに気がついた。

 先ほどカタリと音を立てたのは開けられた窓が風にあおられたからのようだけれど……私は一体いつの間に窓を開けたのだろうか? 少なくとも、部屋に入った時には窓は閉まっていたと思う。

 なんなのだろう?

 窓を閉め、疑問が深くなろうとしたその時。


「これ……?」 


 窓際の机の上に一枚の紙が置かれていることに気が付いた。

 窓からの風で飛ばないようにするためか本で重しがされたそれには短い文章がつづられていた。

 最初は父からだと思った。机に置いてあるのは珍しいけれど、寝ている私を邪魔しないように部屋の外に何かしらの書き置きをするのはそう珍しいことじゃない。

 けれど、


『親愛なるアリスへ』


 そう書かれた一行目を読んだ瞬間、再び眠りの世界へ誘おうとしていた眠気が一気に吹き飛んだ。

 余程急いで書いたのか、丸みを帯びた少し癖のある筆記体が数行にわたって乱雑に書かれているだけのそれは、手紙と言うよりメモ書きと言った方が良かったかもしれない。

 差出人の名前はどこにもなかった。それでも、長年見続けた親友の筆跡を見間違うわけはない。

 急いで文章に目を通す。

 今晩の十二時ちょうど。テムズ川沿いにある、セント・キャサリンドック近くの公園にあるガス灯のところに一人で来て欲しい。どうしても相談したいことがある。

 まとめれば、そんなことが書かれていた。

 何度も何度も文章を読み直してから、私は身につけていた服をもどかしく脱ぎ去っていつもの外出着を頭からかぶった。

 部屋を出て正面の通りに面した窓から外を見やる。

 真面目な巡査さんは居眠りもすることなく、ほとんど直立不動の姿勢を保って家の前に立っていた。職務に忠実なのはとても褒められるべきことだと思うけれど、今の私にとって都合が良いものではなかった。

 これじゃあ表から出ては間違いなく止められるだろう。

 事情を説明したところでそれがわかってもらえるとも到底思えない。

 どうしようかと考える。

こういう時こそ大きく深呼吸をして自分の気持ちを落ち着けるべきじゃないかと頭の片隅で理性が言うが、心臓はそんな理性とは関係なしに鼓動を早くするばかりだった。

 いや、こんな状況で落ち着けという方が無理というものかもしれない。少なくとも、あの置き手紙には私の心を急き立てるには十分すぎるものだった。

 それでも、自分が冷静さを失っているのかと言えばそういうわけではない。

 不思議なまでに頭はクリアで、ぱちんぱちんと理詰めに物事を考えていく。

 もし私が……例えばそう、今家の前に立っている巡査さんを連れて、二人で場所へと向かったらどうだろう?

 その場合はきっとキャロは姿を見せてはくれないに違いない。

 彼女があのように特筆するということは、それは絶対に守って欲しい条件なはずだ。

 ともすれば、私は家からこっそりと一人で出なければいけないのだけれど、どうすればそれが可能になるか? この家には扉は正面に面した物が一つしかないし、正面を向いていない窓は二階にあるだけ。つまるところ、私が一人でここから出るにはその窓から出なければいけないわけだ。

 私はそう判断すると、自室に戻ってベッドのカバーを剥ぎ取り、替えのカバーをタンスから取り出した。一枚一枚はそれほどの長さではないが、結べばそれなりの長さにはなってくれる。

 結び目を堅結びに結んで出来あがったのは即席の布のロープ。買った時、少し高かったけれど品質の良い物を選んでいて良かったと思う。これが下手な安物だったら役目を果たせずに破けていただろう。

 そんなロープを、一方は家の柱にしっかりとくくりつけ、もう一方は裏通りに面した窓から外へと放り出した。


「行くのかね?」


 背後から穏やかにかけられた声に私は振り返った。


「お父さん……」


 父の表情は今までに見たことのないものだった。

 穏やかではあるのだけれど、どこか哀しみを湛えているように見える。

 父はどこまでを知っているのだろう?

 幻影都市と呼ばれるこの倫敦。

 そして、ミスタ・ホームズ。

 ……おそらく、私なんかよりはるかに深くこの街のことを知っているのだろうということは想像がついた。


「……お父さんは、私が行くのを止めたい?」


 その問いかけに父はゆっくりとかぶりを振る。


「アリスが選んだのであれば、それは紛れもないアリスの意志だ。誰にも止められるものじゃない」

「………………」

「しかし、幻影都市の闇は大きく、そして深い。並大抵の気持ちではいとも簡単に呑まれてしまうだろう」


 私は静かに言葉を聞いた。


「もし成し遂げようとするのであれば、自分を偽らず、強く願うことだ。それこそ、幻影を現実に変えてしまうほどに」

「幻影を、現実に変えてしまうほどに……」

「ああ。幸いなことにアリスにはそれをするだけの力がある。幻影都市の始まりを知る数少ない人間の一人として、それを保証しよう。アリス。君に、神の愛が与えられることを願っているよ」


 父はそれ以上何も言わず、ゆっくりと階段を下りていった。

 自分を偽らず、強く願う。

 今の私ならそれが出来る。

 その確信はあった。

 柱に結んだ布がちょっとやそっとのことでは外れないことを確かめて窓枠に片足を乗せると、ゆっくりと身体を家の外へと出した。

 まるで子供向けの冒険譚だ。

 まだ公立学校の初等科だった頃、父に読んでもらったことがある。古の宝物を求め、広大な砂漠を越え、そそり立つ岸壁を上り、困難な罠をかいくぐって、苦境を勇気で乗り切った先に今までに見たこともない宝をその手にする、トレジャーハンターの物語。

 もちろん今の私はそんな大層なものではなかったけれど、心境は大して変わらないだろう。

 両足を家の壁へと貼りつけてから、確かめるように呼吸を三度。

 特別運動が苦手というわけではなかったし、多少のやんちゃなら子供の時にしたことはあったが、流石にここまで危ないことをした経験は今までになかった。手のひらに僅かに汗をかいているのがわかる。

 布をしっかりを握って一歩一歩、後ろ向きに慎重にレンガの壁を下っていく。作った布のロープの長さは十分じゃなくて、一番下まで伝っても地面に足が届かなかった。けれど、怪我をするほど高いわけでもない。

 足を壁から離してぶら下がり、思い切って手を離す。少しよろけてしまったけれど、それでも無事に地面に降り立つことが出来た。

 素早く周囲を見渡す。

 せっかくこうしてこっそり出てきても誰かに見つかったら何の意味もない。

 改めて巡査さんに見つからないように心がけると、私は裏道を選んで目的地であるガス灯を目指して走りだした。

 夜はもう大分寒くなってきている。

 上に羽織るものを着てくれば良かったかも、と一瞬思ったが、一分も走ればすぐに身体が温まってきた。

 私の家から公園まではそう距離があるわけでもない。

 キャロがどういう基準で場所を選んだのかはわからないけれど、たぶん私が行きやすい場所を選んでくれたのだろう。こんな真夜中に遠くの場所を指定されたら、そもそもたどり着くのが難しくなってしまう。

 夜に巡回して治安を保ってくれているスコットランド・ヤードの人たちを信頼しないわけではないけれど、それでも深夜の倫敦は安全とは言い難い。男の人だって、真夜中の倫敦を歩く時は何度も背後を振り返り、その安全を十分に確保すると聞く。

 もちろん、私みたいな小娘が歩いているのを見たら夜回りをしている巡査さんたちは間違いなく引き止めてしまうだろう。

 途中で息が切れ、足が何度か止まりそうにもなる。

 それでもどうにか走り続けて、十分足らずで目的地のガス灯がある公園にたどり着いた。

 荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見渡すけれど辺りに人影はない。

 テムズ川がいくらきらめく幻想的な雰囲気をかもしだしていても時間が時間だ。ラブロマンスを味わうにも時間切れというやつだろう。

 私は指定されたガス灯のたもとまで行くと、背に預けて呼吸を整えた。

 キャロはどういう意図があってこんなところに呼び出したのだろう?

 占い師さんの言っていた『呑まれている』という言葉から考えると、彼女が呑気な状態にないことは確かに違いない。

 何か特別な事情……いや、考えたところで、今の私にそれがわかるわけがない。

 きっと、言葉では片付け切れない何かがあるのだろう。

 それにもっと言ってしまえば、彼女の姿が忽然と消えてしまったのが『怪異』とやらだとしても、この際そんなことはどうでも良かった。

 大事なのは、こうしてキャロが私に助けを求めてくれたということ。それだけで、今の私は十分すぎるほど勇気がもらえた気がした。

 彼女はどうして消えてしまったのか?

 キャロのお父さまが言った通り、お見合いのことが理由で親子の仲がこじれただけなら私からも説得が出来るし、何よりキャロのお父さまがそのことを悔いていることを伝えられる。

 一度はすれ違ってしまったのかもしれないけれど、やり直すことはそう難しいことじゃないだろう。

 ……いや、そんなわかりやすい理由じゃなくたって構わない。

 例えどんに難解で困難な問題を彼女が直面していても私は力になろう。

 それこそ、私の全てをかけたって良い。

 世界を敵に回したってだって、戦って見せる。

 二人で悩んで、迷って……それで無理だったとしても、それでも、今度は彼女の手を離さないように、二人で一緒に立ち向かっていくということを彼女に伝えたかった。

 呼吸が落ち着いて再びその寒さが身に染み始める。手に息を吹きかけてただひたすらに彼女を待つ。

 焦って出てきたから懐中時計の一つも持っていなかったけれど、そろそろ日付が変わる頃だ。

 テムズ川を背にしてそれらしい人影を探して見るけれど見当たらない。

 こういうのは少し珍しい。

 私とキャロでは、どちらかと言うと私の方がのんびり屋さんで、キャロの方がいつも私の手を引くように先導することが多かった。

 せっかちというのではないけれど、キャロは『出来ることは出来る内に』というのが座右の銘で、余程のことがない限り人を待たせることなんてないのだけれど……


――ピチョン――


 音。

 振り返ろうとした瞬間――


「っ!」


 ――後ろから口元を抑えられ、一気に引っ張られた。

 声の一つも上げる暇もなく背が欄干にぶつかる。

 それでも引っ張る力は衰えず、私の体はあっという間に態勢を崩すと、ぐるんと世界が反転した。

 身体が落ちる。

 目に映るのは、奈落を思わせる闇。

 それと同時に、私の意識は失われた。

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