幻影問答
ミスタ・ホームズとの出会いと、『私が何者か?』という謎めいた言葉に結びつくらしい逆巻きの懐中時計。
実は、昨日起こったことは全て白昼夢、私が真昼に見たつかの間の夢だったんではないだろうか?
有り得ないとわかってはいるのだけれど、時間が経つにつれて頭の片隅がそんなことをぼんやりと考えてしまう。そのくらい、現実離れしていたということだろう。
それを確かめるかのように、学院での講義を終え、繁華街で乗り合い馬車を降りた私の足は自然とベイカー通り221Bへと向いていた。
昨日、白猫のワトソンを追いかけて歩いただけだったけれど、順路は足が覚えていた。一つ一つ、倫敦の裏側へと入りこむように道を曲がっていくと、その度に人々の気配が薄くなる。そして、それが完全にゼロになった時、目の前には昨日と何一つ変わらない建物が現れた。
一階のお店には『CLOSED』の看板が掲げられ、その横に、二階へと繋がっているだろうドアがある。
ごくりと生唾を飲みこんでドアノブに手を伸ばす。鍵はかかっていない。
「……あの、ミスタ・ホームズ?」
二階に向かって声をかけてみるが返答はない。
「ミスタ・ホームズ? いらっしゃらないんですか?」
再び声をかけるが、やはり返事は返ってこなかった。
昨日と同じに出かけているのだろうか?
一応、確かめるだけ確かめてみよう。そう思って階段を上り、部屋の前へ。ノックをして、「失礼します」と断ってからがちゃりと扉を開ける。
すると、ミスタ・ホームズは部屋中央の椅子に座って、ひどくつまらなそうな顔をしてナイフの刃先を二本の指で挟んで見やっていた。
インパネスコートは脱いでいたが、それを除けば身につけているものは昨日と全く変わらない。石炭雨の日に外出するような真黒な出で立ちだ。
一方、気だるく陰険そうにも思えるミスタ・ホームズの傍らでは、陽のあたるクッションの上でワトソンが丸まっていた。時折ひくひくとヒゲを動かしながら、気持ち良さそうに眠っている。
彼らの様子はまるで一枚の絵画のように完成された何かを感じさせた。題名は『陰鬱な午後』とか、そんな感じだろうか?
そんな中、ふいにミスタ・ホームズが腕を小さく振りかぶったかと思うと、手首のスナップを利かせてナイフを離した。
刃先から真っ直ぐに壁に突き当たったナイフは、その刀身を数センチめり込ませて、まるでダーツの矢のように止まった。そして、つい、と私の方に視線を向ける。
「いつまでそうやって突っ立っているつもりだ?」
「へ?」
「そんなとこで見ててもしょうがないだろ。それとも、なんか面白い光景でもあったか?」
椅子へと大きくもたれて、ミスタ・ホームズが足を組んだ。
「あ、あの……別に、特別用事があって来た、というわけじゃなくて……」
「何でも良い。ただ、もし小遣い稼ぎをするつもりがあるなら雑用はあるぞ」
その言葉に、「はぁ……」と、何とも曖昧な言葉を返して中に入る。
無造作に置かれた書類に、片付けられていない食器。机の上には何かのメモなのか、隙間なく文字が書かれた紙にペンが散らかっている。
気にしない性質なのか、それとも今がそういう気分なのか。わからないけれど、一々をきっちりと片付けないと気が済まないような潔癖な性格じゃないらしい。
手持ち無沙汰に立つ私をよそに彼はパイプに煙草をつめて火をつけた。無表情にそれを吸って、長く煙を吐き出す。
「ドクターは何と言っていた?」
「……何と言っていた、と言うと?」
「昨日のことはドクターにしゃべったんだろう? 逆巻きの時計や助手の件も含めて。それを受けてドクターは何か言っていたか?」
「別に、何も……。そう、それは私が選ぶことだ、とだけ」
言うと、ホームズは目を細め、「随分と変わったもんだ」と独り言のように呟いた。
「隠居暮らし、というやつか? 正直、あまり気の良いもんじゃない。もちろん、様々な言葉を使ってイエスやノーと言わせる人間よりかは幾分マシだとはわかってはいるが……こればかりは何とも言えないか」
パイプをくわえたままがしがしと頭をかく。
「まぁ良い。それでどうする? 小遣いが欲しいなら、食器を下げて珈琲を淹れてくれないか?」
そんなミスタ・ホームズの提案に私は乗っかった。
別に小遣いが欲しかったわけじゃないのだけれど、このままぼぅと立っているのはあまりにも所在がなかった。
パンくずらしきものが乗った食器をまとめて隣の部屋へと下げる。そこはキッチンに小さなダイニングがくっついたような部屋だった。あまり使われていないのか、散らかった様子はなかったのだけれど、部屋の隅にはホコリが僅かに積っている。その奥にはもう一枚扉があった。
食器を軽く洗って、珈琲を淹れる為にキッチンを軽く調べてみるが、余計なものはほとんどない。あるのは軽食を作るような簡単な調理器具と、それこそ珈琲を淹れるための道具くらいなものだ。
一方の私は、実のところあまり珈琲というものを淹れたことがない。飲めないことはないのだが、自分で用意をして飲むのは紅茶やミルクの方が圧倒的に多い。
それでも……まぁ、やり方は知っているし、大丈夫だろう。
確か、こんな感じだった。
珈琲を淹れる手順思い出しながら使い終わった道具を片付けて……こんなもんだろう、とキッチンにあったマグカップに注ぐ。それをミスタ・ホームズの前にある低いテーブルに持っていった。そして、彼はそれを一口飲んで、
「………………」
何も言わなかったけれど、眉間に刻まれたしわを見るに美味しくはないのがわかる。
羞恥と申し訳なさで僅かに顔が熱くなる。
「……珈琲は淹れ慣れてないか?」
「す、すいません……」
「謝ることじゃない。慣れ不慣れを聞かずに淹れさせたのは俺だ。ただ、もし今度レディーコートにでも会ったらコツを聞くと良い。あいつの淹れる珈琲が美味いのは昨日知っただろう?」
確かに、昨日いただいた珈琲は格別に美味しかった。
単純に、使っている豆が良いのだろう、なんてあの時は考えたけれど、どうやら淹れる側にもその要因はあったようだ。
「あの、それで、あと何をすれば良いんですか?」
「もう帰って良いぞ。あとはどうとでもなる」
「へ?」
「へやはが多いな。バカに思われるぞ」
そう言って再び珈琲を一口。奇妙な沈黙が流れかけたのを拒むように私は口を開いた
「あの……一応、掃除くらいなら人並みに出来るつもりです。珈琲を淹れるのは下手くそかもしれないですけど、料理もそれなりには……」
「変に勘ぐるな。単純にして欲しいことがなかっただけだ。やって欲しいことがあれば頼むし、やらないで欲しいことがあれば注意をする。今日はそれがなかった。それだけのことだ。珈琲が不味くとも、働いた分の給金は出してやるから安心しろ」
「い、いえ……お金の心配をしているわけじゃないんですけど……」
はっきりと言って、このままではどうにも落ち着かなかった。
なんだか、初めて頼まれたおつかいを失敗してしまった子供が、上手く出来なかったのをどうにか取り返そうとしている心境に近いかもしれない。
そんな私の様子を見て、ミスタ・ホームズは短く思案してから言った。
「なら、少し立ち入ったことでも話すか」
視線で前のソファに座るように促され、私はそれに従って腰を下ろした。
「お前はここに来ることが出来た。このベイカー通り221Bにだ」
「それは……」
「ここに来る途中で疑問には思わなかったか? いや、もうすでに疑問というものを通り越して不信感を覚えている。地図は……そうだな、昔のものも含めてあらかた探し尽くした。だが、それでもこの場所を見つけることは出来なかった。違うか?」
彼の言葉にごくりと生唾を飲みこむ。
例の紙を見つけた後、私は自宅にある地図でベイカー通りを探したが見つからなかった。しかし、私が昨日ここでミスタ・ホームズに会ったのは紛れもない事実であって……そのことが疑問で、今日の休み時間、学院の図書室で昔の倫敦の地図を探したのだ。
昔に、この倫敦にベイカー通りと呼ばれていた通りがなかったかどうか?
その結果がどうだったのかは、ミスタ・ホームズの言った通りである。
そんな私の行動をミスタ・ホームズはまるで全て見透かしているかのようだった。
「幻影都市。その言葉に聞き覚えは?」
「確か、昨日ミス・レディーコートが言っていましたよね。幻影都市の住人、とかなんとか……」
「そう。ここ倫敦、女王陛下に愛された寵愛都市は幻影都市だ。人の目に等しく映るものもあれば、全く映らないものもある。この街の半分は幻想で出来ていると言って良いだろう。幻であり、想いの塊だ」
「この倫敦が、ですか? いえ、その前に、半分が幻想で出来ているってどういうことなんでしょう?」
「言葉のままさ。それ以上でもそれ以下でもない。これは地理的な意味で言ってるんじゃない。地図を広げ、その半分を区切ったところでそれが幻想になる、なんて簡単な話でもない。あくまで概念的なものだ。この倫敦という都市は、ありとあらゆるものを呑みこみ、概念上で言うなら無限の広さを持っていると言っても良い。そして、このベイカー通り221Bはそんな幻想の中に存在している。普通に過ごしているのであれば間違いなく訪れることの出来ない場所であり、地図に載ることはあり得ない場所だ」
一息に言った彼に、私はおずおずと言った。
「あの、ミスタ・ホームズ……話がその、さっぱり見えないんですけれど……」
「だろうな。ドクターは随分と過保護にあんたを育てたとみえる」
彼は大きくため息を吐き出した。
「別に、今この場で全てのことを理解してもらおうなどとは考えちゃいない。それに、言葉で教えたところで、経験を経ずに与えられたものには価値も実感もないからな。ただ、お前は幻影都市の知識を全く持っていないにも関わらず、ここを訪れることが出来た。それは、ある意味幻影都市の幻影がお前を呼んだと言っても良い」
「幻影が私を呼んだ?」
「そう。それに値すると、お前は幻影都市に認められたんだ。……まぁ、当然と言えば当然だが」
段々と頭がこんがらがってくる。
まるで、顕学院で必修科目となっている哲学の講義を受けている時のそれに似ていた。お世辞にも、私は頭の中で抽象的な思考をこねくり回すのが得意とは言えない。こういうのは、どちらかと言えばキャロの分野だ。
「一つ簡単な質問をしよう。例えば、この部屋の窓から外を見た時、そこには無数の家が立ち並んでいるが、お前はそのどれだけを実際に今ここに存在していると証明出来る?」
「実際に見えるから、ではダメなんですか?」
「ああ、ダメだ。それが成り立たないのがこの幻影都市だ。目に見えるものは幻と消え、あるはずのないものが現に存在する。目だけじゃない。触れるもの、匂うもの、味わうもの。そのどれもが信頼をおくに達しないとなった時、お前はどうする?」
「どうすると言われても……お手上げです。第一、そんな精巧な幻が存在したとしたら、それは実在しているのと変わらないと思います」
「その通りだ」
足を組み替え、ミスタ・ホームズは不敵に笑った。
「ならば、その逆もまた成り立つとわかるな? 現に存在したとしても、見えず、触れられず、匂わず、味わえない。そうなった瞬間、それは幻と同じになる」
「それが、この倫敦である……と?」
「とてもじゃないが信じられないという顔だな」
当然だろう。幻想だとか幻影だとか、まるでおとぎ話のようだ。
ある所に魔法の都市がありました。その都市の名前は倫敦と言いました。
そんな始まり方をするおとぎ話。
確かにこの場所が地図に載っていないのは不可思議だったし、常識で考えてはいけないのかもしれない。
それでも、今ミスタ・ホームズが言ったことはそれを考慮してもあまりにもすっ飛んでいた。正直に言ってしまえば、頭のネジが数本飛んでしまった人の言葉のように思えてしまう。
「良いな、その表情は」
そんなことを考えていた私に、くっくっとミスタ・ホームズは笑った。
「お前は俺に対する疑いや不信感を持ちながらも、それを表情に出さなかった。人間は取り繕うことを歴史から学んだが、それは幻影の第一歩だ。俺はそれを称賛しよう。小さなものだが、そういった所から扉は開いていく。アリス・リトルバード。一つ心に留めて置くと良い。ここはありとあらゆるものを呑みこむ幻影都市だ。地に足をつけて生活をしているつもりでも、その足場が幻ということもある。この都市は女王陛下からの寵愛を受け、様々な幻想によって繁栄をもたらされている魔物の都市だ。お前はこれから、そんな幻想たちに次々と遭遇していくことになるだろう」
結局、その言葉で彼は珍妙な会話を止めてパイプを取り出した。
一方の私ももうお腹いっぱいだった。
これ以上幻影だの幻想だのを言われても、私の頭には一片たりとも収まらなかっただろう。幸い、ミスタ・ホームズもそれは承知の上だったようでこれ以上のことを言うつもりはないようだ。
軽い挨拶をして部屋を辞する。
外に出ると、通りには相変わらず人の姿はなかった。
遠く、別の通りには人の姿が小さく見えるのに、その誰もこの通りには気づかない様子で歩いている。
私は出しかけた足を止めると、たった今出てきた建物の壁に手を置いてみる。そこにあるのは紛れもないレンガの感触だった。
ミスタ・ホームズはここが幻想の中にあると言ったが、ではこれも幻の感触、ということになるのだろうか?
「わけがわからないわね……」
ミスタ・ホームズという存在はあまりにも摩訶不思議な存在だった。
荒々しい外見とは違って理知に富み、言葉遣いを除けば、第一印象よりかははるかに紳士なのかもしれない。
でも、今まで抱いていたシャーロック・ホームズ像とはかけ離れていた。
明晰な頭脳を持っているのは確かかもしれないけれど、名探偵と言うよりかは詐欺師のように思う。シャーロック・ホームズを名乗りながら、煙に巻くような話題と巧みな言葉で人をかく乱してお金を稼いでいる悪人。
……随分失礼な話だが、そっちの方がありそうに思えた。
最後にもう一度だけ221Bの窓を見やり、私は小さく息を吐き出してその場を後にした。
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