異変の発端

 顕学院近くの乗り合い馬車駅で降りて早足で学院へと向かう。

 昨日は結局、ベッドに入っても様々なことを考えてしまって眠りになかなか落ちることが出来なかった。

 そのせいで今朝はすっかり寝不足。欠伸を噛み殺しながらのたのたと準備をしていたら、家を出るのか少し遅くなっていつも乗る馬車の時間を逃してしまった。

 顕学院に通う学生の七割以上は、併設されている寮に住んでいる貴族の子供である。

 倫敦の顕学院は英吉利にある他のパブリック・スクールとは少し毛色が違うから、キャロいわく、ここに子供を入学させる貴族は結構変わり者が多いそうだ。まぁ確かに、今の世の中、いくら貴族の子女とは言ってもこうした形で女性に専門教育を受けさせているのは顕学院くらいなものだろう。

 残りの三割が通いの生徒で、多くが……と言うか、たぶん九割以上がこの倫敦で成功した商家か貿易商の子供。

 パブリック・スクールは未だ貴族の子供のためのものであるから、貴族以外の人が子供にそれなりのレベルの教育を受けさせようと思ったら、まず第一の候補として顕学院が挙げられる。

 政治への権力を持つ貴族と縁を作る場所とも考えられているらしく、親からコネを作ってくるよう厳命されている人もいるそうだ。

 そういう生徒は、自分の家で所有している馬車で学院へとやってくる。

 ともかく、まとめれば顕学院に通う九十九パーセントはお金持ちで、おそらく乗り合い馬車なんかで通学している生徒は私ぐらいなものだろう。

 なんとか始業の時間に間に合って、小走りで顕学院の門をくぐる。

 今日の第一講義はこともあろうにあのコリンズ教授の講義だ。遅れようものならカミナリとまではいかないまでも小言の一言は飛んでくるだろう。

 教室への道すがら、生徒への通達をする掲示板をちらりと見やって、急いで教室へ向かおうとしたが……


「……あれ?」


 視界が拾った一瞬の情報に足が止まり、ネジ式のおもちゃのように数歩後ろ向きに下がって、再び掲示板を見やる。今度は、さっきよりも幾分じっくりと。

 掲示板の右に設けられた休講情報を報せる欄。そこにあったのは、今まさに向かおうとしていたコリンズ教授の講義の名前があって、私は幾分気抜けしたように息を吐き出した。

 焦り損……いや、でもそもそも私が悪いのだから、損も何もないか。

改めて掲示板を見やると、今日のコリンズ教授が受け持っている講義全てが休講になっているらしかった。事前に何の連絡もなかったことを考えると、突発的な体調不良か何かだろう。


「あら、真面目な医学生がおさぼり? 始業のチャイム、もう鳴ったわよ?」


 ふいに横から声をかけられた。見ると、本を片手に持ったキャロの姿がそこにあった。


「ううん、一時限目の講義がたまたま休講になっちゃって。ほら、昨日会ったあの教授」

「そうなの? 確か……コリンズ教授、だったっけ?」

「ええ。キャロは確か、今日の講義は午後からだったはずよね? こんな早くからどうしたの?」

「私は図書館で本の物色。収穫はいまいちだったけど」


 そう言って一冊の本をかかげて見せる。活発な姿からはあまり想像出来ないけれど、キャロは本の虫だ。


「それより、もし暇ならテラスでお茶でもどうかしら? 御馳走するわ」


 誘われるままに中庭のテラスに移動する。

 学生数の割に大きく取られたテラスにはほとんど人はいなかった。

 日の当たるテーブルに腰を下ろして、御用聞きの店員にキャロが紅茶を二つ頼む。

 学院の中に用意されたテラスで提供される飲料や料理は、学院とはまた別の組織が担っていた。イメージとしては学院の中にカフェテリアがあるようなものだ。

 運ばれてきた紅茶にミルクを入れて口をつけると、バタバタした朝からようやく一息つけた気がした。

 昨日から……紙を拾ってからを考えれば先週末の夕方から、どうにも周囲の物事に振りまわされているように思う。

 元々の性格のせいか、慌ただしいのは苦手だし、物事も穏便に済ませてしまおうとするところが私にはあった。けど、流石に昨日の一連の流れは聞いて落ち着けという方が無理があるだろう。

 物心がついた頃から、ドクター・ドイルが本当の父親でないということは知っていた。いつ頃、その事実を告げられたのかはもう覚えていない。けれど、気がついたら私の父はドクター・ドイルで、彼は本当の父ではなかった。

 悩んだ時期もある。

 公立学校に通う皆には普通に両親がいて、私にはいない。

 当たり前のことが自分にとっては当たり前じゃないというのはひどく寂しいものだった。

 父が私を愛してくれているというのは幼いなりにもわかったし、幸いにも父はこの街で顔が広く、職業柄尊敬されることが多かったから、いじめや揶揄を受けたことはない。

 けれど、それはそれ、これはこれだ。

 どこかにいるはずの本当の両親を思って泣いたことだってある。

 しかし、大きくなるにつれ、自分の周囲にあるものだけが全てじゃない、この倫敦には、私と同じ境遇の子が――そのほとんどがスラム地区にだけれど、いるとわかるようになってからは、自然とそのコンプレックスは薄まっていった。吹っ切れたという言い方が正しいかもしれない。

 それなのに……


「アリス?」

「え?」

「どうしたの、ティーカップ見たまま、ぼおーっとしちゃって。何か悩みごと?」

「う、ううん、そういうわけじゃないんだけど……」


 誤魔化すように笑って、カップをソーサーに置く。


「ちょっと昔のことを考えてて」

「昔のことって……」


 キャロが僅かに顔を心配そうなそれに変えた。

 十年近い親友というだけあって、キャロは私の境遇についてはほとんど知っていた。

 何を隠そう、両親について一番悩んでいた時に誰よりも相談に乗ってくれたのは他ならぬ彼女なのだ。


「何かあったの?」


 眉をハの字にしたキャロにかぶりを振ってみせる。

 昨日あったことを話してしまおうか、とちらりと思ったけれど、あまりにも突拍子がなさ過ぎだろう。

 突如として現れたシャーロック・ホームズに、そんな彼から示唆された不気味にも感じられる問いかけ。

 自分の中でもまだ何一つ整理出来ていないのに、上手く話せる自信もなかった。


「ただ、もうキャロとの付き合いも長いんだなぁ、って思ってね」

「何よ、突然に」

「ほら、初めて会ったのもこのくらいの季節だったでしょう?」

「そう言えばそうね。私は今でもよく覚えてるわ」


 懐かしそうにキャロが小さく笑う。

 あの時、キャロは既に顕学院で寮生活を送っていて、私は中央区にある公立学校の生徒だった。

 今よりも少し寒かった夜のこと。私の家に一通の電報が届いたのだ。

 顕学院の生徒が一人大きな切傷を負ってしまったこと。顕学院のお抱えの医師がちょうど留守にしていて、手当ての出来る者がいないこと。

 その電報に、父は必要な道具をかき集めると、簡単な施術の補佐くらいなら出来るようになっていた私を連れて家を飛び出した。もう店じまいをしていた辻馬車屋を半ば無理矢理に叩き起こして、走ること数十分。私は初めて王立顕学院の門をくぐったのだ。

 幸い、生徒の傷はそこまで深いものではなく重症にはならずに済んだ。

 しかし、もう随分と夜が更けていたし、念のため容体をみるため、その晩は顕学院に泊ることになった。

 父は医務室近くの宿直室に。私は、ちょうど二人部屋で一人しかいなかったキャロの部屋に。

 一晩の付き合いとは言っても相手は貴族の子女。

 粗相のないようにと父から言われ、私は部屋に入る前に随分と緊張をしたのを覚えている。

 当たり前だけれど、公立学校には貴族の子供なんていなかったし、私にとっては見るのすら初めてに近い人種だったのだ。その時の私が抱いていた貴族のイメージはおとぎ話に出てくるお姫様そのもので、早い話が、雲の上の存在に違いなかった。

 心を落ちつけて、静かに四回ノック。

 彼女が既に寝ている可能性も考えて、そぅっと扉を開いて中に入った私だったけれど、そんな私とは対照的に、キャロは目をらんらんと輝かせてベッドに座っていた。


『あなた、凄いわ!』


 それが、キャロが私を見た時の第一声だった。


『私と同い年なんでしょう? それなのに、テキパキと色々なことをこなして、まるで本物のお医者さまのようだったわ!』


 話を聞くと、どうやらキャロは父が施術をしている間、ガラス越しに様子をうかがっていた幾人かの生徒の中に混じっていたらしい。


『そんな……大したことじゃないです』


 したことと言えば、父の言う通りにお湯を沸かしたり、布を切ったり、テーピングの補助をしたり……まぁ、小間使いのようなもの。褒められたことがこそばゆくて、たぶん困ったような嬉しいような、よくわからない表情を浮かべていたと思う。

 それが、私とキャロの出会いだった。


「あの時のキャロは凄かったわね」


 懐かしい話に花を咲かせている間に、お互いのカップはほとんど空になっていた。


「凄かったって、何がよ?」

「だって、外のことについてあれやこれやと矢継ぎ早に質問してくるんだもの。随分と夜も遅かったのに、全然寝かせてもらえなかったし」

「それはそうよ。あの時の私は、年に一度か二度、お父さまに劇場に連れて行ってもらうくらいしか外に出たことがなかったんだから。外から来た貴女は……そうね、外国人のように思えたわ。それも、私の知らないことを一杯知っている」


 一晩部屋を共にするだけだったはずの関係は、手紙のやり取りで続き、互いに成長したら、おおよそ二週間に一度の頻度で私からキャロに会いに行くようになっていた。

 公立学校を卒業した後、父の元で独学で医学を学んでそのまま跡を継ぐような形を取らず、顕学院の専門課程医学科に進学することを決めたのは、父の勧めもあったけれど、彼女の影響も少なからずあった。


「あれから、もう随分経つものね」

「でも、あっというまだったっていう感じもするわ。こう言ったら変かもしれないけれど、キャロとはもっと小さい頃から知り合いのような気がするもの」

「懐かしいわね。あの時は私もアリスも無邪気だった」

「まるで今が無邪気じゃない、みたいな言い方ね」


 少し茶化すように笑ったけれど、彼女は思った以上に言葉に意味を込めていたらしい。


「無邪気じゃいられないわよ。私もアリスも、もう子供じゃないんだもの」

「キャロ……」


 僅かに表情から陰がのぞく。

 ……いつの頃からだろう?

 時々だけれど、キャロはこういった表情を見せるようになった。

 初めて会った頃。私たちの顔にまだ幼さだけで作られていた時には、そんな表情は見たことがなかった。

 それが……丁度、顕学院に通うようになった頃だろうか?

 ふとした瞬間に、彼女は今のような陰のある表情を見せるようになった。

 最初は、何か悩みごとでもあるのかと思ってそれとなく聞いてみたこともあった。けれど、彼女は「何でもない」と困ったように笑うだけで、何も話してはくれなかった。

 私はキャロの親しい友達……いわゆる親友というものだと思っている。

 でも、だからと言って何でもかんでも話せるというわけじゃない。

 私がそう気がついたのは、彼女よりずっと後のことだった。

 情けがなくて恥ずかしいことだけれど、私はそれこそつい最近になるまで、キャロになら何でも打ち明けられるし、キャロだって何でも私に話してくれると信じて疑っていなかったのだ。

 けれど、現実はそう甘いものじゃない。顕学院に通うようになり、今までより少しだけ視野を広く持つことが出来るようになった私は、ようやくその考えに至った。大人びた彼女より実に何年遅れでのことだろう?

 キャロは、私のような一般庶民とは立場が全く違うし、家庭環境だって何倍も複雑だ。

 軽口で貴族という身分をからかうことはあるけれど、貴族がお金にかまけてお気楽な生活を送れる時代がもう終わりつつあることは私も十分知っている。ましてやキャロの家、ルイス家には男の子がいない。跡取りとなれる娘もキャロだけだ。

 きっと、ただの中流階級で育ち、人より多少勉学に対して才がある程度の私なんかじゃ力になれないことだってたくさんあるに違いない。

 それは紛れもない事実で、そんな私に話しても仕方のないことを彼女はその胸にたくさん抱えているのだろう。

 そう思うと、寂しさ……そう、寂しさに似た何かを私は感じるのだ。


「っと、いつまでもおしゃべりしてるわけにはいかないわね。アリスは次も講義があるんだし、そろそろ準備をしないと」


 何とも表現し難い空気が広がろうとした時、キャロはそれを無理に壊すかのような明るさで言った。

 もどかしい気持ちを抱きながらも、そんなキャロに同調して立ち上がる。そんな私の視界に、一人の男子学生が映った。キャロも私の視線に気づいたのか、そちらを向く。


「あれ、昨日の留学生じゃない?」

「………………」


 ベッティ・ハイドリッヒ。

 彼の様子は明らかにおかしかった。

 どこかうつろな目で、ブツブツと何かを呟きながら、当てもなく彷徨っているように見える。

 かと言って全体的な雰囲気が落ち込んでいるかと言われたらその逆で、それこそ中毒性の高く、医者からすれば到底褒められたものじゃない薬物に手を染めてしまったかのような、どこか異質なものを感じさせた。


「大丈夫……なのかな?」

「アリス」


 ポツリと言った私に、キャロが釘を刺すような口調で言った。


「あまり変なことに首を突っ込まない方が良いわよ。面倒見が良い所は貴女の美徳だけど、度を過ぎると自分の身を滅ぼすことにつながるわ」

「うん……」


 生返事を返しながら、その時の私は変な胸騒ぎを覚えていた。

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