父 アーサー・コナン・ドイル

 まるで水の中を歩いているかのような、雲の中を当てもなく彷徨っているような……とにかく、ふわふわとした心地でベイカー通り221Bから帰った私は、ぼすりとベッドに腰を落とした。

 バッグからミスタ・ホームズに渡された箱を取り出して中を開く。

 収められた時計は、最初の時と変わらず逆向きに時を刻んでは、神様によって未来へと進むことだけが許されたこの世界でたった一人、その理に反旗を翻しているかのようだった。

 時間を表す、という意味では全く役には立っていないのは言うまでもないが、この時計は一応時計としてのルールを守って作られているらしい。

 つまり、秒針が一周する度に長針が一分だけ逆回りに動き、長針が一周すれば短針が一時間分逆回りに動くのだろう。

 一体誰が何の目的でこんなものを作ったのか?

 そして、どうしてこれが私と関係しているのか?

 皆目見当もつかなかった。

 まさか、実の両親は時計屋で、ほんの悪戯心でこんなおかしな時計を作った、なんて冗談にもならないようなオチもないだろう。

 そうやって時計のことばかりを考え、ぼんやりと壁にかけていた『普通』の時計を見やって、ようやくハタと気がついた。

 あと幾ばくもすれば夕食の時間になるではないか。こうやって自室で呆けている場合じゃない。

 考えを中断させて懐中時計の蓋を閉じ、そのままポケットに入れて自室のある二階から一階へと降りる。

 父はまだ家から扉一枚隔てて造られた診療所で診察をしているようだったが、待っている患者さんの数を見たところ、そう遅くもならないだろう。

 患者さんの数は日によってまちまちで、夕食の時間よりも随分早く診療が終わることもあれば、どっぷりと夜が更けるまで続くこともあった。

 買っていた食材で手早く夕食の支度にとりかかる。

 父はひどく変わった性格で、家事なんて女であり子供でもある私にすっかり全部任せてしまえば良いのに、出来る範囲のことは自分でしてしまう人だった。ちょっとした掃除に洗濯。仕事のことで言えば、ガーゼとか綿棒みたいな細々とした物の補充や、医療器具の洗浄や準備だろうか。

 それでも、食事だけに関してはこの数年、私は頑なに台所を譲っていない。

 これは、私が料理好き……と言うよりかは、父の味覚センスが、白地のキャンバスに子供が絵の具をデタラメにぶちまけたかのような壊滅的なものだったということが大きい。

 極端な話ではあるけれど、私が父にもらわれ、最初に自分の意志でどうにかしようと考えたのは毎日食卓に並べられる、斬新という言葉には収まりきらない味の食事だったように思う。

 珈琲や紅茶はまともに淹れられるのに、固形物の料理となると父の腕はまたとない殺人兵器に匹敵する。


「あぁ、帰って来ていたのか」


 ニシンのパイが焼き上がった頃、父は診療所から家の方へと戻って来た。


「うん。お父さんも今日の診療は終わり?」

「ああ」

「風邪の患者さん、多かった? 少し前から流行り始めてるって言ってたけど……」

「流行の兆しがあるが、この分なら本格的な流行はもう少し後になるだろう。大きな流行にならなければ良いんだが」


 口元にたくわえた白いひげを手で軽く整えながら、「何か手伝うことは?」と問うてきたけれど、生憎後は盛りつけた料理をテーブルに運ぶだけだった。

 上着をハンガーにかけ、椅子に座った父に水を差し出す。それを一息に飲み干して、大きく息を吐き出した。

 基本的に年中無休。

 急患があれば真夜中でも駆けつける精神は、同じ医学を志す者として尊敬出来るのだけれど、一介の娘としては心配なところでもある。

 もう無理がそこまで利く年でもない。

 少しばかり診療の時間を減らしても誰も文句は言わないだろうに、父は自分の全てを患者さんに捧げることが「神から与えられた自分の使命だ」と言ってはばからなかった。

 テーブルに着いて食事が始まると、かちゃかちゃと食器の合わさる微かな音だけが部屋に響きはじめる。食事の時のマナーということを口うるさく言われたことはなかったが、それでもあまり父とおしゃべりをしながら食事をした、というのは記憶にない。

 元々多弁な方じゃないし、私だって、どちらかと言えば自分から積極に話しかけるタイプと言うよりかは、聞く側になりやすい。

 しかし、こうした適度な沈黙が降ってくると、先ほどまで考えていたことが再び頭にもたげてくる。

 ……ミスタ・ホームズは父との関係を『腐れ縁』だと言っていた。

 私を引き取ったのは他ならぬ父なのだから、私について知っているという可能性は十二分にあり得るだろう。ただ、真実をそのまま子供に伝えるとショックが大きいから、誤魔化しているということだって考えられる。


「………………」


 だけど……。

 本当に、それだけ?

 胸の奥底。

 ちょうど、自分の魂が眠っているような場所で、ちくりちくりと何かが微かなシグナルを発しているように感じる。

 あと少し。僅かなきっかけでもあれば、自分の奥深くにある『何か』が目覚めるのではないか?

 そんな、予感と言うにもあまりにもおぼろげで、曖昧模糊とした……けれど、無視してしまうには違和感が大きすぎる感覚。


「何か、あったのかね?」


 ドキリ、と心臓が打った。

 口に入れたパイが歯に潰されてくしゃりと音を立てる。

 ……どうしようか?

 そう悩んだのは本当に一瞬だけで、私はフォークを置いて口を開いた。


「今日、とある人に会ったの。……ベイカー通りの221B、で」


 そっと顔色をうかがうように父の顔を見る。

 ミスタ・ホームズと面識が有るのであれば、まず間違いなくベイカー通り221Bを知っているはずだと思ったが、父は表情一つ変えず、煮豆のスープを口に運んだ。

 先を促されているような空気に、そのまま言葉を続ける。


「それで、こんなものを渡されたわ。……私が何者かを知るのに手がかりになるだろう、って」


 言って例の懐中時計をポケットから取り出して差し出すと、父は口を布で拭ってからそれを受け取った。父は滅多に感情を表情に出さないが、逆回りのそれを見た瞬間、僅かに眉が動いたように見えた。

 ただ、それもまばたきをするくらい短い時間のことで、父はすぐにいつもの顔に表情を戻すと、時計の蓋を閉めて私に返した。そして、おもむろに口を開いた。


「彼は元気だったかね?」

「彼って、ミスタ・ホームズ?」

「ああ。最近はたんと会っていなかったが、彼とはちょっとした縁があってね。ひどく無礼な男だっただろう?」

「無礼と言うか……その、思っていたミスタ・ホームズとは違っていたわ。なんと言えば良いのかわからないけれど……考えていたより気風が良くて、良い意味で武骨な感じと言うか……」

「変に褒めなくても良い。自身に与えられた役割には忠実ではあるが、いかんせん野生的で荒々しい。躾こそなっているが、その本質は猟犬だ。誰もあのような男が、この倫敦で名声を欲しいままにしているとは思うまい」

「でも、悪い人のようには感じなかったわ」


 取り繕うというわけではないけれど、とっさに出たそんな言葉に、父は僅かに思案するような目をした。


「それに、助手として手伝いをしないか、とも誘われたの。そうしたら、自分を知る機会も訪れるかもしれない、って」

「………………」


 父が目を閉じる。

 十秒ほどの時間がまるで煮詰められるかのように辺りを流れ、ゆっくりと目を開いたかと思うと、茶色の瞳が射抜くように私を見た。


「自分がどういった存在なのか気になるかね?」


 その目は今まで見たことがないくらいに真っ直ぐなものだった。

 柔和で人当たりの良い父からは想像も出来ないくらいに鋭利なもののようにも思う。それは、暗に私の好奇心を咎めているものなのだろうか?


「……気にならない、って言ったら嘘になるわ」


 それでも、私は自分の気持ちに嘘はつけなかった。


「もちろん、何が何でも知りたいとか、本当の両親が恋しいとか、そういうものじゃないの。お父さんのことは本当のお父さんみたいに思っているし、感謝もしてる。昔は寂しく感じたこともあるけれど、今は本当に恵まれていると思ってる」

「………………」

「……だけど、それでも……知っておいた方が良いんじゃないか、って気がするの。アイデンティティ、とはちょっと違う気もするんだけれど、なんて言えば良いんだろう……? 私の何か、大切にしないといけないモノがそこにあるような気がして……」


 そこで言葉が続かなくなる。

 少しだけ頭の中を探すけれど、自分の気持ちを表してくれるような言葉は見つからなくて、結局、私は語尾を濁したまま俯いた。

 スープの表面に薄っすらと顔が映る。口にしたことの罪悪感が僅かに心をかすめていく。


「アリス」


 ゆっくりとした声に、顔を上げた。


「悪いが、私からはその詳細をお前に伝えることは出来ない」

「お父さん……」

「そして、どうしろ、こうしろと指示することも私には出来ない。……いや、そうしたくない、というのが本音だろう」

「それはどういう意味なの?」


 その質問に、父は僅かに首を左右に振った。


「ここから先は、全て君が決めることだ、アリス」

「私が、選ぶこと……」

「ああ。どれを選んでも、おそらくそれはアリスにとって大きな選択になるだろう。その選択は、誰かに指示されて従うことじゃない」

「………………」

「自分の心の声に耳を傾けなさい。それは、決して自分を裏切ったりはしないものだ」


 結局、それ以上のことを父は言わなかった。

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