怪異
このまま何事もなく日々が過ぎ去れば、私は案外あっさりと今までの……あの奇妙な紙を拾う以前の生活に戻れたのかもしれない。
幻想も幻影も、変てこな話、ということで片付けてしまってもよかっただろう。
しかし、異変はこの日で終わらなかった。
翌日の顕学院の掲示板にはコリンズ教授とはまた別の医学科教授三人の講義が全て。そのまた翌日にはさらに別の教授。実に五人もの講義の休講案内が掲示されていた。
総勢九名もの教授の講義が相次いで休講になるなんてまず普通じゃあり得ない。
こうなるとまともに講義が行えるわけもなく、休講案内の下には、今日を入れて三日間、医学科の講義を全て休講にする旨が書かれた紙が貼ってあった。
来客が家にやってきたのは、その翌日、ちょうど午前の診療を終えた父と一緒に昼食を取っていたその時だった。
箱型の客室がついた、二頭立ての四輪馬車。それに乗ってきた初老の女中は、どこか藁にもすがるような表情をしていた。他でもない、彼女はコリンズ教授の家に仕える女中だった。
「何卒、お力添えを賜りたいのです」
お茶の一杯も出す前に、そう言って深々と頭を下げた彼女の申し出を父はすぐに了承した。
常に病者の味方たれ。
それが信条である父にとって、助けを求められたら相手がどこの誰で、報酬がいかほどなのかは全く関係ない。それこそスラム地区にだって行くことだって毛ほどもいとわないのだから、普通の医師からしてみればお人好しを通り越して奇人に見えることだろう。
それよりも驚いたのは、父が私も一緒に来るよう言ったことだった。
てっきり私は留守番を頼まれるものとばかり思っていた。
深い外傷を負った患者なら手伝いとして共に行くことも珍しくないけれど、今回はそういうわけじゃない。
内部の部分に原因があると思われる場合、知識も経験も不足している私は、それこそただの荷物持ちくらいにしか役に立たない。後学のため……と考えればまだ納得出来なくもないが……それとも、何か別の理由があるのだろうか?
何はともあれ、私たちは必要な道具を持ってコリンズ教授宅の女中長が乗ってきた馬車に乗り込んだ。
カタカタと走る馬車に揺られ、コリンズ教授の家を目指す。
コリンズ教授の家は、他のほとんどの教授の家がそうであるのと違わず西部に広がる閑静な高級住宅地の一角にあった。倫敦の中心部からは外れてしまうが、その分、中心部には見られないような豪奢な一軒家だ。
女中と教授のご夫人に迎えられ教授の家に入る。失礼にならない程度に中を見回すが、おそらく相当数の部屋があるだろう。もっとも、今日はそんな邸宅にただの客人として招かれたわけじゃない。
主人である教授の寝室に案内されて中に入ると、そこにはもう一人女中が控えていた。ダブルサイズのベッドで横になるコリンズ教授は、一見すればただ眠っているように見える。
道すがら女中長からそれまでのお抱えの医師の言葉をうかがったが、その誰もが、『残念ながら、治療法はない』と首を横に振ったらしい。
ただ眠っているようでも、それが数日も続いたとなるとそれはただの睡眠ではない。
常軌を逸した意識の消失ということだけで言うなら、考えられることはいくらでもある。
頭部へ激しい衝撃を受けた場合や、切傷や刺し傷、銃創によって著しい出血をした場合……外的なものでなくても、激しい熱病にかかったり、卒中が起これば人間は簡単に意識を失ってしまう。
それと共に診られる症状としては、高熱、痙攣、呼吸数の減少、脈拍の低下、外部からの刺激に対する無反応、などだろうか?
そして、残念なことにそのほとんどが治療の甲斐なく、遠からずに死という結末を迎えるてしまう。ここからの回復は容易なことではない。
だが、今のコリンズ教授にそういった諸症状が診られるかと言ったらそれはノーだった。
父が診察する傍らで脈拍や呼吸数、体温を記録していくが、それは健康な人のものとなんら変わりなかった。
こうなった場合……考えられるものと言えば……
「アリス。君はどう考える?」
「私、ですか?」
一通り調べられるものを調べ終わると、父はデータに目をやりながら私に聞いた。
「ああ。この症状をどう判断する?」
「あまり診たことの症状で難しいですけれど……考えられるものと言えば、阿弗利加に由来する風土病くらいでしょうか? 現地の人間以外が発症することは非常に稀だと聞いていますが、症状ば似ているんじゃないかと……」
はっきりとした学術名称があったかまでは覚えていなかった。確か、一般的には睡眠病と呼ばれる奇病だ。
これにかかった人はまるで覚めない眠りについたように意識を失い、死に至ると聞いたことがある。『睡眠』病という名前がつけられたのもそのためだ。
「おそらく、今までの医師たちもそう判断したのだろう」
父はそう言って自らのあごを撫でた。
だとしたら、今までの医師の『治療法はない』と言ったのも納得がいく。この病気にかかったが最後、回復した例は今までになかったはずだ。
「だが、おそらくは違う。阿弗利加睡眠病は昏睡状態が続くことばかりが注目されがちだが、覚めない眠りに至る前に睡眠障害を発生させることが普通だ。昼夜の逆転に不眠、精神錯乱を起こすことも珍しくない。加えて言えば、睡眠病が引き起こすのは昏睡だ。外部刺激にもほとんど反応はしない。だが、話によれば教授は眠っている間寝返りをうっていたようであるし、それに……」
言って、父はコリンズ教授の腕を小さくつねった。
すると、コリンズ教授の顔がピクリと動き、瞑ったままの目がしかめられ、今にも目を覚ますような動きを見せた。
「………………」
だが、少しするとまるで痛みがなくなったかのように再びその顔は安らかなものへと変わった。一度浮上した意識が再度深い眠りに落ちていったような、そんな感じだ。
父はつねっていた手を離してコリンズ教授の手を布団の中へと戻す。
「この通りだ。明らかに外部の刺激に反応し、一時的に脳が覚醒の方向へと向かっている。だが、完全に覚醒する前に何かによってその動きが遮られ、再び眠りに落ちているのだ。この状態は昏睡と呼べるものじゃない」
「つまり、それはまだ助かる手立てがあるということでしょうか?」
私たちの会話を聞いていたご夫人がいてもたってもいられないといった様子で言葉を挟んできた。
「そうですな……ここで今すぐに目覚めさせろというのは難しいですが、一刻の猶予もない、ということもないでしょう。長い時間眠り続けていたせいもあって多少の衰弱が見られますが、点滴という治療法があります。これは自発的に水分や食物を摂取出来ない人にとっての食事のようなものです。後は、目覚めを妨げている原因を排除出来れば、十分に治る可能性があります」
ご夫人が感極まったように顔を覆う。
点滴という治療法は半世紀ほど前には考案されていたらしいが、身体に針を刺して直接点滴剤を注入するという性質上、消毒がとても重要なものになる。手間もかかるため、まだ広く行われているものじゃない。ちなみに、この点滴剤の基礎を作ったのは我が英吉利の医師だ。
その時、来客を告げるチャイムが部屋に響いた。女中たちが顔を合わせ、その中で一番若いと思しき女中が一礼して部屋を出ていく。
その時には部屋の空気は来た時よりもはるかに明るいものへと変わっていた。
まぁ、今まで何人もの医師に「無理だ」と言われていたものに、一筋でも光明が見えたのだ。そうなるのも当たり前というものだろう。
ややあって、部屋にノックの音がした。
『あの、ドクター・ドイルに面会をしたいと訪ねて来ている方がいらっしゃるのですが……』
少し戸惑ったような女中の声。
父がご夫人に軽くうなずくと、ご夫人は入ってもらうように言った。そして、扉が開かれたと思うと――
「み、ミスタ・ホームズっ!?」
現れた人影に私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
いつもの真黒な服装に、無造作な髪。
なんで彼がここに?
そう思うのと、彼の視線が鋭く私を貫いたのはほぼ同時だった。
な、なんでいきなり睨まれなければいけないんだろう?
そう思ったが、すぐに部屋にいるご夫人と女中たちがざわついていることに気がついた。
……ああ、それもそうか。いきなり飛び出て来た名探偵の名前に混乱しないわけはない。自分の軽率さに頬が熱くなる。
「あー、驚かせて悪かった」
そして、彼はそのざわつきを収集するように言った。
「スコットランド・ヤードから捜査協力の依頼を受けてここに来させてもらった。不可解なことが起こっている、とな」
「不可解なこと?」
ご夫人が質問する。
「ああ。ここにいるコリンズ教授をはじめ、実に九人もの顕学院の教授たちが覚めない眠りについているんだ。原因は今のところ不明。流行性の病とも考えられるし、何者かが毒物等を仕組んだものとも考えられる。もっとも、こんな芸当を狙って出来るとは思えない。そういう意味では事件性は低いだろう。だが、一応可能性を完全に排除出来ない限り、捜査は行われるものだ。秘密裏にスコットランド・ヤードが動いている」
捜査協力という言葉に一時騒然としかけたが、ミスタ・ホームズの説明で一応の落ち着きを取り戻す。
でも、たぶんスコットランド・ヤードが動いているというのは嘘だろう。
なんとなくだけれど、私にはそう感じられた。きっと彼は独断で動いているに違いない。
ミスタ・ホームズはそのまま部屋に入ってくると、コリンズ教授に一瞥を送ってから父のカルテをのぞきこんだ。
そして、傍にいる父と私にだけ聞こえるくらいの声で呟く。
「……なるほど。これはどうやら『怪異』の類のようだな」
「怪異……?」
それはなんだろうかと思うが、ミスタ・ホームズは特別説明をするつもりはないようだった。
「……元気そうだな、ホームズ」
「ああ。ドクターも相変わらずのようで」
父が視線を送り、ミスタ・ホームズはそれに対して薄く笑った。どこか背筋をぞっとさせるような笑い方だった。
そんな数瞬のやり取りを終えると、ミスタ・ホームズはのぞき込んでいた身体を起こした。今度は部屋にいる全員に聞こえるように言った。
「これで失礼する。念のため患者の具合を見たかっただけなんだ。ドクター・ドイルもいることだし、大きな問題にはならないだろう。少々大変かもしれないが、ドクターには他の八人の様子も診てもらいたい。構わないだろうか?」
「ああ。医師として全力を尽くそう」
そう答えた父はミスタ・ホームズの方を見ようとはしなかった。
ご夫人や女中がどういう風に二人の関係を見ているかはわからないけれど、少なくとも私にはあまり穏やかなもののようには感じられない。どこか因縁めいた何かが見えてしまう。
「それから、アリス・リトルバード」
突然に名前を呼ばれ、いつもの声が出てきそうになったところで慌てて飲みこんだ。バカに思われるとこの前言われたばかりではないか。
「これから顕学院に行く。その案内を頼みたい」
「顕学院に? でも、私は……その、手伝いが……」
そう言って父を見やるが、父は何も言わなかった。ここに残れば良いのか、ミスタ・ホームズに従って彼に付き添えば良いのか? 答えを求めても誰も何も言ってくれない。
その時、父が私をちらりと見やった。それは引きとめる視線……とは言えなかった。
『それは君が決めることだ』
この前言われた言葉が頭の中によみがえってくる。
「……わかりました。ご案内いたします」
半分諦めともなんともわからない言葉を言って、私はミスタ・ホームズと共に教授の寝室を後にした。
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