042

 暗い部屋に閉じ込められる日々は急に終わりを見せた。硬くチェーンで雁字搦めにされたドアが開かれ、私の眼を太陽の光が焼くように眩しく光る。クラクラした頭と寝不足続きの眼には痛い程染みる。どうしてドアが開かれたのかはもう分かってる。私は八歳になった。選ばれたんだ。だからドアが開かれた。


 太陽に睨まれる。涼しいはずなのに慣れない太陽の所為で焼ける様に熱い。


「チ、ちゃんと歩きやがれ。テメェの足で歩けんだろうが」


 背中を強く叩かれる。血を抜かれたばかりでフラ付いていた為、その程度で私の体は倒れてしまう。それを見てお父さんは、更にイライラを募らせる。


 ………………────────。生贄が感情を持つ事は許されない。私は生贄人形。生贄に捧げられるのはもう決まった事。今更驚く事ではない。怖がる事ではない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。私は私じゃない。わたしは、わたしじゃない。誰も知らない。名前だって呼ばれたことは無い。私の名前は何? 辛うじてお父さんがゼイルグラインと呼ばれていたのを聞いた事があるけど、そもそもこのヒトは本当にお父さんなの? お母さんは? どこ? 知らない。何も知らない。


「ちんたらするなッ!」


 お父さんの声が荒々しくなる。いつもは血を抜いた後は優しくなるのに今日はずっとイライラしてる。こういう日はもうどうしようも無い。蹴られ殴られ、縛られ、そして……。


 力があんまり入らない腕で、プルプル震えながら、立ち上がる。視界がぼやけている。足を引き摺る様にしてドアの外に出る。陽射しが肌を焼く。傷跡が痒い。ぼさぼさで伸ばしっぱなしの髪が風に揺れる。


 あの時暗い時間に出て見た景色とは全然違っていた。逃げ出そうとして、だけど結局どうする事も出来なくて戻ってきてしまった。あのお兄さんを、恨んでいる訳じゃない。あんなに美味しいものは初めて食べた。寒い暗さだったけど、あのヒトの傍は暖かった。


 暑さに項垂れながら、下を向きながらお父さんの後ろを着いて歩く。


 死ぬんだって、分かってる。怖いとも思ってる。だけどそれ以上に逆らったら痛い事をされるのが怖い。それだったら、このまま生贄になって死んでしまった方が、私は良いんだって思う。無理をして生きる意味なんて、あるの?


「…………………………」


 視界がぐらぐら揺れる。目がしわしわになって、足が何度も何度ももつれそうになる。


「そうか」


 何かを閃いたのだろうお父さんは手をポンと叩き、小さな鞄からいつもの注射器を取り出す。


「────────っ」


 それを見て体が急に震えだす。さっき採ったばかり、なのに。


「どうせ生贄にするなら、先に血を抜いておけば、後で捧げるモノも出来て一石二鳥なのでは?」


 澄んだ目だった。これ以上、血が無くなれば、たぶん私は、生贄だとかそういうのになる前に死んでしまうと思う。もちろん、知識としてそうだ、なんて言えないけど、頭の中が、そう叫んでる。そんな事をすれば生贄は居なくなってお父さんの立場も危ぶまれてしまうかもしれない。


「………………………………」


 ダメ、それは、ダメ。お父さんがそうなってしまうのは嫌だ。だけど、それ以上に、そうなってしまえば、私は大きな声で笑う事が出来そうとも思う。


 ニタリと笑いながら、お父さんは私の腕を掴む。注射器の針を出すと、そっと私の腕に近づける。腕を握る手はかなり強い。血を抜く時は、いつもそうだ。震えた体もそうやってされている間は震えが止まるんだ。私から血が抜けていく時、なんだか、安心出来るんだ。その時だけが、私が生きる意味だって分かっているから、抜かれてるくせに満たされている様な。


 逃げ出したのは、痛いのに耐えられなかったから。あの日、私はたまたま逃げ出せた。散々歩いて良い匂いのする方に向かって行って、そこで初めて、お父さん以外のヒトを見た。


 幸せそうだった。楽しそうだった。私はそこには行けない。私にはそうはなれない。あの時生まれて初めて、私は幸せではなかったんだって、知った。子供は皆大人の男のヒトに殴られて生きているってそう思ってた。だけど、大人のヒトと手を繋ぎながら歩く姿を見て、そんなのは間違っているって気付いた。私は、幸せじゃないって気付いて、それで……。だけどどうしようも無いじゃん。私はこうやって注射器で血を抜かれる為に生きているんだから、それが私の生きる意味で幸せなんだって思わなきゃ。私は私じゃない。ヒトなんてそんな大層なモノじゃない。


「………………………………っ!」


 ぎゅっと目を瞑る。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。私は幸せです。


 ウソツケ。


 おまじないの様に心で呟いて、私は幸せでなくちゃいけないと思い込む。そうしないとぐちゃぐちゃに溶けてしまいそうだった。


 ぱしっ、と何かが掴まれるような音がして目を開いた。水っぽくぼやけた視界の中で、わたしより少し身長の高いくらいの男の子がお父さんの腕を掴んでいた。


「なんだ、お前……ッ」


 明らかにイライラを隠せなくなったお父さんが声を荒げ、男の子の手を振り払う。そのはずみで私の腕からも離れてしまう。


「あ…………」


 震えが始まる。急に放されたから、元々フラフラだった体も相まって私はその場に尻もちをついた。なんだか眠ってしまいそうになりながら、男の子を見上げる。後ろ姿しか見えないけれど、それは大きな背中に見えた。私とそう歳は変わらないと思うのに。


「ど、し……」


 どうして、と訊こうとして声が出なかった。私がとっくに限界で、このまま眠ってしまいそうになっている。ダメだ。眠っちゃダメだ。私は、彼を……っ。


「お前は、アリシアの……ッ」


 お父さんが声を荒げる。正直彼らがなんで戦ってるのかわからない。けど、男の子はたぶん私の為。どうして? 私は、ヒトなんて大層なモノじゃない。取るに足らない幾らでも替えの利く生贄の一つなんだ。私の為に戦う必要なんてどこにも無い。


「助ける……ッ!」


 少年が半狂乱の様に叫ぶ。その叫びはまるで私がいつも幸せだと自分に言い聞かせている時の様。どうして、助けるなんて言うんだろう。私はどうすれば良いの? 私にそこまでの価値は無い。血さえあれば、生贄にさえなれば、私にそれだけの価値が生まれる。それで良いの。それが一番私が幸せになれる。助けるって何。なんでそんな事するの?


 男の子が何を考えているか分からない。知らないヒトであるはずの私を、無関係のはずの私をどうして助けるなんて言えるの? なんで、どうして……っ、私は……っ。幸せ、なんだ。不幸なんかじゃない。ずっとずっと幸せで生贄になれることは幸運で、カミサマの一部に成れるんだから幸せじゃない訳が無いんだ。だから、私は助けられる理由なんて無い。なのにどうして……っ!


 私はシアワセだ。誰が何と言おうと、覆らない。そうじゃないと、私は私じゃないのに、悲しくなってしまって生きられない……。幸せとはなんだ。不幸せとはなんだ。私は何のために生きてきた。何のために生贄になる? 男の子にとって私はなんだ? 何の利益がある?


「黙れ……ッ!」


 男の子が叫ぶ。何に対して叫んだのだろう。お父さんは喋っていないし、彼ともう一人居る男の子も喋っちゃいない。一体誰に対して……。もしかして、私の心を読んだの? そんなことがあり得るだろうか。


 カミサマは万能だと聞く。だったら、カミサマからそういうモノを授かった子が居ても何ら不思議じゃない。だったら、余計になんで私を助けるなんて変なことを言うの?


「男が、泣いている女の子を助けるのは、当たり前のこと、だろうが──ッ!」


 …………………………その言葉に心臓が跳ねた。正確な意味は把握しかねるけど、温かい。なんでかあの日のお兄さんのことを思い出してしまう。あのヒトと同じ温かさ。太陽の照り付けてくるような温かさではなく、お家にある暖炉の炎のような温かさ。きっとこの子は底抜けにいいヒトなんだと思う。


 私にとって、彼は────────────。

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