手記2

 一九八八年 四月六日


 我々を恐怖に陥れた殺人事件は、嵐が過ぎ去っていったのと同じように、突然幕を降ろすことになった。

どうして三田村が桜の木の下に埋められていたのか、本当のところは判らずじまいだったけれどその犯人は一目瞭然だった。

「どうして、彼が……」

私たちは小舟に乗って小島にやってきた。そして昨日、三田村の死体を発見した場所に再び立っている。

しかし、昨日と違うのは死体が足下ではなく頭上にあることだった。

やや冷たい春の朝の風が湖を揺らす度にぎいっとロープが鳴る。鼻をつく排泄物の厭な臭い。紫色に膨れ上がった顔は垂れ下がって、私たちを見下ろす形になっている。そこには苦悶の表情は見られず、どこか穏やかな笑みが浮かんでいるような気さえするが凝視することはできない。

 ちらちらと舞っている桜の中で、それは一際異様な光景だった。

生の美と死の醜が表現されたこの構図はやはり彼の思い描いていたものだったのだろうか。口数の少ない彼のことを友人でありながら殆ど理解していなかったことが今更ながら悔やまれる。少しでも話を聞いてやることができていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。

 もうどうにもならないことばかりが頭の中に浮かんできて虚しくなり、ふと夫の顔を見る。彼は静かに涙を流していた。

吊るされた死体をじっと見つめ、何かを語りかけるように口を少しだけ開いている。しかし声を発することもなければ、手を伸ばすこともなかった。

呆然とする彼を見ていると私も涙が出てきそうになる。何とか声を振り絞り「もう行きましょう」と皆に呼びかけた。


藤森くんは自殺だろうということで誰も疑わなかった。信じたくはなかったけれど、決定的な証拠も見つかったのだ。

私が小島の桜の木で誰かが首を吊っているのを発見し、それが藤森くんだったことを皆で確認した時、全員が異変に気がついていただろう。

警察が来るまでそのままにしておこうということで埋められたままだった三田村の死体が消えていたのだ。

私たちは船を降りたその足で藤森くんのバンガローへと向かった。その間私も夫も、多分海馬と堀田も充分に頭が働いていなかっただろう。

だから中に入ってその状況が目に入った時、四人とも固まる他なかった。

 藤森くんのスーツケースの周りの床に血が沢山ついている。赤黒いねっとりとしたその

液体が何を意味するのか。すぐには判断がつかなかった。

やがて海馬がふらふらと歩み出て大きめのスーツケースを開けた。

 そこから出てきたのは三田村の死体だった。

私は悲鳴をあげるのも忘れて夫の手を握る。彼はまた言葉を失ったようだった。何にも云わず、ただ小刻みに震えている。

それも無理はない。三田村の死体はバラバラに切り刻まれていたのだ。黄土色の顔は昨日見た通りだけれど、血と土に塗れたその身体が切り離されてスーツケースに仕舞われているのを見るのも気持ちのいいものではなかった。吐き出しそうになるのを堪えながらやっとの事で外に出る。

何が起こっているのか、その全てが判った訳ではなかったけれどただ一つ、藤森くんが  三田村を殺害し、自ら命を絶ったということだけははっきりと判った。


私たちはロッジに入りソファに腰掛けた。心が疲れたこの状態で硬い椅子には座りたくなかったからだ。

何とか落ち着きを取り戻した利彦が警察に電話したところ今日中には救助が来るらしいということだった。しかし、犯人が明らかとなった今警察の到着は待ち遠しく思うほどではなくなっていた。胸に穴が空いたような喪失感に打ちひしがれ、私はもう立って歩くことさえ億劫だったのだ。

「だから云ったじゃないか。あの画家が犯人に違いないって」

「まったくだね。挙句自殺するとは驚いたが、とにかく良かったじゃないか。これで私たちは無事山を降りられる」

海馬と堀田が心底安心したようにそう話すのを耳にしても腹を立てる気にもならなかった。というより、腹をたてるのが正しいかどうかも判らなかった。

 藤森くんは確かに私や利彦の親友だった。だけど彼は人を殺したのだ。三田村くんとの間に何があったのかは判らないけれど、殺人を犯したことは事実。

いくら親友とはいえ、彼を庇うことは正しいことなのだろうか。もっとも、彼自身もうこの世にはいない。そのことが余計に私の胸を締め付け、思考を混乱させていた。

しかし利彦は違った意見を持っていたようだった。

「晴一が殺すはずないと思うんです。三田村くんとは仲が良かった訳でも、悪かった訳でもない。第一あいつは大人しくて虫も殺せないような人間なんですよ。殺人なんてとてもじゃない……」

「あのねえ、利彦くん。犯人の友人は皆そう云うんだよ。信じられない。あり得ない。あいつはいいやつなんです、ってね。だけどそんなことは何の参考にもならない意見だ。事実彼は一度埋めた死体を掘り出してばらばらにした挙句、自分のスーツケースに詰め込んでいた。これはどう説明するんだい?」

 海馬は意地の悪い声で訊くが、彼の云っていることは一つも間違っていない。客観的に見れば藤森くんが犯人であることは間違いないのだ。

「それは……何とも云えませんけど、でも理由がわからない」

「理由?」

「ええ、動機も判らないけれど埋めたはずの死体を再び取り出して切断する理由も不明で

す。そんなことをして何の意味があるんですか?」

「いや、殺人犯の考えることは判らんよ……」

 私もそれには引っかかっていた。嵐の中苦労して小舟で運んだ死体をどうして掘り起こしたりしたのだろう。しかも自分のバンガローに持ち帰るなんて……。

すると堀田が薄く笑いながら口を開いた。

「そんなの決まっているだろう。あの男は画家だったんだ」

 彼はそれだけしか云わない。海馬は「ああ」と納得したようだったが私も利彦も首をひねるばかりだ。

「判らないかね?芸術家というものは我々には到底理解できない感性を持っている。美しい桜の下に死体を埋めることが最高の芸術とでも考えていたんじゃないか?しかし私たちに発見されたことで自分の世界が汚されたと思った。そこで死体を掘り起こし、怒りを込めてばらばらに切断した。我に返った彼は自らの行いを悔いて、最後は自分が芸術の一部となることを望んだ。だから桜の木に首を吊って死んだのだよ。美しく舞う桜の中で死ぬという究極の芸術を完成させるために。――まあ、大方そんなところだろう。狂っているとは思うが、そういう人種なんじゃないかね」

狂っているのはどちらだ。勝手な想像を嬉々として語り、死者を愚弄する堀田の方がよほど壊れていると思う。

利彦もそう感じたようで珍しく怒りを露わにしていた。

「堀田さん、今のは取り消してくれませんか?確かに晴一はあの桜が好きだった。大学時代は心底楽しそうにあの木の絵を描いていた。だけどそれは生と死なんてテーマの芸術じゃない。人の生き死にを描いたものじゃなかった。自殺することが究極の芸術なんて思ってもいなかったでしょう。……彼の親友として、あなたの発言は許せない」

態々大学時代は、と云ったことにどんな意味があるのか、その時はまだ判らなかった。

ともかく、声は震えていたけれど、利彦の想いは痛いほど伝わってきた。しかし堀田は発言を訂正する気がないようだった。

「それくらいしか彼の行動を説明できないから云ったまでだ。第一、殺人鬼に配慮する必要があるかね?人を殺して死体を斬り刻んで……。それに三田村は君たちの後輩だったんだろう?正気の人間の行動だとは思えないな。まだ若い命だったのに、残念だよ」

 あれだけ三田村への愚痴を云っていたにも関わらずそんな言葉がよく出てくるな、と怒りを通り越して呆れてしまった。堀田や海馬は三田村を殺害する動機があったくせに、犯人が藤森くんだと判ると彼を攻撃し始める。

私はそんな二人の方がよっぽど怖く感じられた。

利彦もそれ以上は何も云わなかった。海馬と堀田に呆れたからか、それとも彼らの云っていることが正論だと判ったからか。

私はもう一度、物思いに耽る。彼――藤森晴一との日々が自然と思い出された。

思いつきで書き始めたこの手記にその内容を記すべきか若干迷った。

 しかし事件の手がかりを残すという目的がなくなった今、彼への手向けとして書き記しておくことにする。



  5


 彼との出会いは高校入学と同時だった。入学式が終わって帰ろうとしていると校庭に座り込んで一人絵を描いている彼の姿がふと目に止まった。

思えばあの時も彼は桜を描いていた。

「何を描いているんですか?」と判りきった質問をしたのを覚えている。背中を丸めてスケッチブックにかじりついている見知らぬ男子に声をかける方法を知らなかったからだ。 

 しかし彼は嫌そうな顔一つせずに「桜です」と短く答えた。

「貴方新入生?」

これも判りきった質問だった。学ランの左胸にはコサージュがつけられていた。

「ああ。君もそうみたいだね」

彼は云いながらも手は止めなかった。しかし私が来たことを疎ましく思っているわけではなさそうだったので質問を続けた。

「私は宮野咲良。貴方は?」

「藤森晴一」

「どこの中学校から来たの?」

「東京だよ」

「東京?」

東京から態々M県の高校にやってくる人は珍しかったので思わずそう訊き返してしまった。

「親御さんの転勤か何かかしら」

「いや、僕一人で。親戚の家がこちらにあるものだからそこで寝泊まりしているけどね」

「でもどうしてこの高校に来たの?東京なら学校もたくさんあるでしょう?」

「学校はね。でもこんな自然はあまりない。戦争が終わってから急速に発展したらしいけれど、あの街は息が詰まりそうなんだ。一昨年のオリンピックなんかは最悪だったよ」

「私は東京の方がいいところだと思うけれど……。自然っていったって特別なものがある訳でもないし」

 私は本心からそう云った。すると藤森くんは「とんでもない」とこの時初めてペンを離した。

「今暮らしている祖父母の家に僕は子供の頃にも一度来たんだ。その時色々な場所を案内してもらった。ほら、見てごらん。こんなにも美しい自然をその時僕は目にしたんだ」

 彼はそう云ってスケッチブックを私に差し出した。

そこには淡いタッチでこの辺りの何でもない風景が描かれていた。

日本一の清流と云われるM川の風景。青空の下に爛漫と咲く黄色い菜の花。真っ赤な夕日が山に沈み、一日が終わっていく様子。

彼は風景画が好きなのだろうか、人や動物の絵はなかった。

後半の方はほとんど桃色と茶色で塗られていた。――桜だ。

ありとあらゆる場所の桜が描かれている。その中には私の知らないところもあった。小さい頃に行った場所を再び訪れて描いたのだろうが、大変な数だった。

「桜、好きなの?」

そう云ってから絵の感想を伝えるべきだったと気づいたが、藤森くんは気にしていない様子だった。

「うん。一番好きな花なんだ。日本人なら大体そうかもしれないけれど」

「確かにそうかもしれないわ。私も桜が一番好きだから」

「それは宮野さんの名前が関係しているのかい?」

 藤森くんは楽しそうに笑う。私もおかしくなって「そうかもね」と答えた。

 その後私たちは彼の描いた絵を見ながら沢山話した。

ここは空気も綺麗なんだよ。こっちは今度新しいデパートができるから潰されてしまうんだって。そこ、私も好きだなあ。ここは冬になるとまた違った風景が見られるんだ。え、あそこは行ったことないの?今度一緒に行こうよ。

 気づけばかなりの時間話し込んでいた。高校に入って最初に出来た新しい友達だったので嬉しくなったのだ。

「でも藤森くん、すごいな。この街の風景が描きたくて態々遠い高校を選ぶなんて」

なんとなしにそう云った途端、彼の顔が少し曇った。

「実は僕、両親とうまくいってなくてさ。中学生の時絵ばっかり描いていたら勉強しなさいってうるさくて。それが息苦しくて家を出たんだ。笑っちゃうよね。ありきたりな、馬鹿な理由で」

「……寂しくはないの?」

「祖父も祖母も優しいから大丈夫だよ。ただ、仲が良かった兄と離れるのは辛かったな」

「お兄さんがいるんだ」

「二つしか離れていないけど、喧嘩は一度もしたことがない。僕のやりたいことを応援してくれる優しい人だよ。……ごめん、僕の家庭の話なんてつまらないよね」

そんなことはない、と云おうとしてやめた。十六歳で家を出るということはきっと口で云っている以上に辛い思いをしたのだろう。それでも彼は新しい土地で好きなことに没頭している。前を向いて頑張っているのだ。そんな彼に慰めの言葉をかけても仕方がない。

「藤森くんの絵はとても上手だと思うのだけど、やっぱり美術部に入るのかしら」

「そのつもりだよ。宮野さんは?」

「私も美術部に。でも絵じゃなくて陶芸がやりたいの」

「へえ、それじゃあ同じだね。よろしく」

人懐っこいその笑みに私は妙に安心させられた気がしたものだった。


三年間彼とは一度も同じクラスにはならなかったけれど、同じ美術部員としてほとんど毎日顔を合わせた。顧問の先生は元陶芸職人で私にとっては嬉しかったし、藤森くんもそう感じていたようだった。

絵の課題が課されるわけでもなかったので、彼は黙々と自分の心を動かした風景をスケッチブックの中に落とし込んでいた。いくつかは展示用にしたらどうかと私も含め美術部員たちは云ったのだけれど、彼は一度も首を縦には振らなかった。

自分の作品を人に見てもらいたいという欲求がないのは、今考えればあの時から変わってないのかもしれない。

休みの日には彼と二人であちこちに出かけていった。一番楽しかったのはここ――沙倉

山に登ってきたことだった。周囲を桜に囲まれた湖の中に独り立つ立派な桜。私がこれまで見てきたどの桜よりも美しく、存在感のあるその木を私たちは大好きだった。彼がそれを描く姿を見ながら暖かい春の風を感じるその時間が、高校生活の中で一番穏やかだったといって間違いないだろう。

 少なくとも二十年後、藤森くんが自らその木で首を吊るなどとは思いもよらなかったのだ。彼だってそんなこと夢にも思っていなかっただろう。


それから私たちは同じ大学に進み、美術系のサークルに入った。利彦と出会ったのはそこだった。よく日に焼けた肌とかなりの上背があった利彦は、どちらかといえば大人しい部類に入る私や藤森くんとは合わなさそうなタイプだろうと思われた。

しかし、そんなことはないとすぐに判った。

誰にでも優しくてどんなことでも興味深そうに聞いてくれる彼と私たちはすぐに友達になった。利彦も私と同じで陶芸が趣味だったので、そのことで語り合った時には共同制作もしたりと、一緒に過ごす時間も多かった。

 しかし、藤森くんの方が彼と一緒にいることが多かったように思う。二人とも学科が同じで授業も並んで受けていたし、何より二人とも芸術に関してのこだわりが強かった。

 暇さえあれば芸術論を交わしていたのを憶えている。

「コンスタブルの色彩感覚はとても素晴らしい。『乾草の車』には筆舌に尽くしがたい美しさがある。僕は彼の作品が一番好きかもしれないな」

「晴一の云うこともわかるが、同じロマン主義なら僕はフリードリヒの描く悲劇性の方が心に響く。自然への恐れを内省的に描く彼の絵にはいつも魅了されてしまうんだ」

「フリードリヒはあまり好きではない。孤独の表現が強すぎる。それに宗教的な印象も強いね。風景はただ風景としてそこにあるんだから余計な脚色はいらないと思う」

 藤森くんは絵画にしか興味がないようだったので議論はいつも彼の専門についてだったが、二人とも目を輝かせて何時間でも語り合っていた。

横でそれを聞いていた私は内容をあまり理解していなかったけれど、二人が真剣に熱い議論を繰り広げていたからか、どんな会話がなされたのかということはありありと思い出すことができる。

そうして大学生活の大半を私たちは三人で過ごした。それは私と利彦が付き合ってからも変わることはなかった。

利彦から交際を申し込まれた時、はじめは戸惑った。ずっと三人でいたから、友達だと思っていたから恋人になるなんてよく判らなかった。でも彼が理想の男性であることもまた事実だったし、結局私は彼の申し出を受け入れることにした。

藤森くんもそれまでと全く変わらない態度で私たちに接してくれた。利彦には云えない悩みも彼に相談することができた。高校からの仲である藤森くんは友達としては利彦よりも頼りにしていたと思う。

 

大学を卒業し、結婚してからもそれは変わらなかった。外資系企業に勤め、海外へ単身赴任してしまった利彦の代わりに身篭った私の世話をしてくれたし、無事に産まれてからも育児を手伝ってくれた。彼も色々大変だっただろうに、あの人懐っこい笑みを浮かべて

「絵描きは幾分暇だから」と云うだけだった。

利彦が日本で落ち着けるようになるまで藤森くんは二つの家を往復する日々だった。しかし、そんな中でも暇さえあれば新しい場所を求めて絵を描いていたようだ。

春にはここに何度も足を運んだようだったし、夏になると船に乗って無人島に出かけて

いき、秋には竹林の中にある人里へ、冬になれば雪山へと日本中を駆け回っていた。あのおっとりとした彼のどこにそんなバイタリティがあるのかと疑問だったけれど、行った場所の話を聞くのは楽しみの一つだった。おかげで出産後の情緒不安定な時期を乗り越えることができた。

帰国した利彦も藤森くんには感謝しっぱなしだった。しかし藤森くんはこの時も「大したことはしていないよ」と笑っているばかりだった。

久しぶりに三人で語り合ったその夜、利彦は突然会社を辞めると云い出した。せっかく出張にも行ったのに、と私は不満だったけれど彼の決意は固かった。海外に行ったことで日本の魅力を改めて感じたと利彦は云った。

そうして陶芸と喫茶で生計を立てる傍、春の間だけ〈桜村〉を運営すると云う計画を披露された。

 私も藤森くんも「上手くいかないだろう」と反対したのだけれど、夫はこれも「どうしても」と云うので仕方ないかと了承することにした。

実をいえば利彦の実家はそこそこ裕福だったので何とかなるだろうという思いもあったのだ。それは藤森くんも同じだったようで、結局立地や資金のやりくり、その他諸々事務的な手続きを手伝ってくれた。

この頃、藤森くんの絵が本人の想像以上に売れていたので余裕はいくらかあったのだろう。しかし友人の思いつきにも真摯に協力してくれる彼はやはり有難い存在だった。


今、こうして書き出してみてみると藤森くんが私や利彦にとって本当にいい友人だったと改めて気づかされる。

印象的な出会いから高校、大学時代の思い出、様々な形で羽柴家の手助けをしてくれたこと。

そして絵を描く時の彼の真剣な、それでいて少年を思わせるような真っ直ぐな瞳を思い返すほどに私の胸は締め付けられる。

彼が殺人を犯すはずない。死体を切り刻むことを芸術だなんて思ったりしない。あれだけ好きだったこの桜で、よりによって〈桜村〉の桜で首を吊るわけがない。

私の知っている藤森くんはそんな人間ではなかった。

 しかし、事件は確かに起こっているのだ。こればかりはどうやっても変えることができない。

 夢ならばどれほど良かっただろう。現実を認識する度にそんな思いが頭をよぎる。

 結局私や利彦の知らない藤森くんがいたというだけの話なのか。親友二人にも話せない何かを彼は抱えていたのだろうか。それとも実は親友と思っているのは私たちだけだったのか。

考えれば考えるほど辛い。

どうしようもなく辛いのだ。

 だから私は自分の心に蓋をすることに決めた。彼のことを、彼と過ごした日々のことを思い出さないように。これ以上、辛い思いをしなくていいように。

そうして彼のことを忘れられたら、とさえ思った。しかしそんなことは叶わない。山を降りた後も私は藤森くんのことを思い出さずにはいられないだろう。

だからせめて、彼の話はここでやめておくことにする。


   6


もう書き終えてもいいかもしれないのだけれど、一度始めたことだから最後まで続けようと思う。山を降りるまでの出来事をもう少しだけ記しておく。


藤森くんのことを考えて涙が溢れてきそうになった私は、それを悟られないようそっと席を立って図書室へ入った。静かな場所で一人になりたかったのだ。

 するとそこには巨大な絵が飾られていた。そういえば、と一昨日の会話を思い出す。私の知らないうち藤森くんの描いた絵を運んだと云っていた。

しかし三年経ってようやく額縁に飾られたその絵を見た時、私は口を開けて呆然と突っ立っていることしか出来なかった。

これは一体どういうことなのだろうか?藤森くんは夫に頼まれてこの絵を描いたというが、どうして――。

 その時扉が開いて利彦が入ってきた。それで我に返った私は彼に駆け寄る。

「ねえ、これ本当に藤森くんが描いたの?」

「そうだよ。ほら、ちゃんとサインも入っている。晴一らしい、整った楷書でね。デザインをコルトか、アルファベットにするとか、そんな僕のアドバイスは最後まで受け入れられなかったようだ」

「……でも、だったらどうして突然……」

 利彦はただ黙って首を振るばかりだった。

「さあ、僕にも判らない。風景画はそこにあるままの姿を描いて初めて意味があると云っていた晴一がどうしてこの絵を描いたのか。疑問に思って尋ねてみたけど何も教えてはくれなかった。ただ彼が新しい作風を切り開こうとしたのかと思って、それはそれで面白いと思っていたのだけれど……。こうなってみるとぞっとするものがあるね」

 私はもう一度掛けられた絵に目をやる。

そこには私の知っている藤森晴一の息遣いは全く感じられなかった。

利彦の云うように彼はこれまで自分が見たままの自然を忠実に再現することを心がけていた。雲や葉の形など細かなところまで描き、色使いもなるだけ現実の世界に見えるように細心の注意を払っていた。

そのためまるで写真のような仕上がりになっていたが、その技量が評価されて「そこそこ売れている」と本人も語っていた。

しかし小島に咲く桜を描いたのであろうと思われるこの絵は違った。

桟橋の先、緑に濁った湖の中に島がある。それは現実の通りなのだけれど、桜の様子がおかしい。木の形がはっきり描かれておらず、枝が伸びた茶色の塊の上に桃色が薄く広がっている。その桃色はとても綺麗なのだけれど、他の部分がそれを打ち消していた。

幹と思われる茶色の部分はところどころ黒が混じっているし、伸びた枝は実際よりも多く、その全てが不気味に広がっている。

空の色も灰色で水の濁りと相まって重い雰囲気を作っている。花が咲いているから季節

は今くらいなのだろうが、春らしさは全く感じられない。

 彼が好まなかった「脚色」が暗い形でなされていることに私は驚いた。

しかもその桜の側に一人の人間が立っていた。藤森くんが自分の絵に人間を登場させたのはこれが初めてだ。

男か女かも判らないその人は全身を黒く塗られ、下向きに伸びた枝に手を伸ばしている。或いは枝の方がその人に手を伸ばしているのだろうか。

 そして私にはこの絵を見た瞬間から感じていることがあった。初めは漠然とイメージだけが頭の中に広がっていただけだったが、じっくり見ているうちにそれは段々濃くなっていき、今や言語化されていた。

しかし彼が何故そんなイメージをこの絵に盛り込んだのか、全く理解できない。作品が完成したのは二日前なのだ。それなのに何故――。

「利彦はこの絵を見てどう感じた?」

確かめたかった。私の単なる勘違いなのか、それとも皆同じように感じるのか。

残念ながら正しいのは後者のようだった。

「一言で云ってしまえば〈死〉なんだと思う」

そう。この絵に描かれた人物はまるで死神に連れていかれる人のように見えるのだ。そしてその死神とは正に桜のことだった。

「僕はそれが一番不思議だった。作風の転換自体も驚いたけれど桜をこんなにも暗くて恐ろしいものに描くなんて有り得ないと思った。僕は桜が大好きだ、と晴一が云うのを何度も耳にしたことがあったからね」

 私もその言葉は何度も聞いた。

 彼がスケッチブックを綺麗な桃色の花で埋め尽くす姿も何度も見た。

ひょっとすると彼は――。

「一種の予知なのかしら」

そんなことがあるはずないと判っていた。現実的に考えてまず有り得ない。

 しかし単なる偶然と云ってしまうにはあまりにも出来過ぎていた。彼が本当に自分の死を見通してこの絵を描いたのならば――。

「……さあ、どうだろう。晴一にそんな力があったとは思えないけれどね。とにかく、僕はこの絵を燃やしてしまおうと思っている」

「燃やす?」

それは意外な言葉だった。利彦はいつも藤森くんの作品を自分が描いたもののように丁寧に扱っていたのだ。

しかもこの絵は彼の遺作となる。それなのに燃やしてしまっても良いのだろうか。

「僕は来年以降も〈桜村〉は続けていくつもりだ。晴一にも協力してもらって作り上げた

わけだし、何より彼が大好きだった桜を思う存分愛でることが出来る。客は減ってしまうかもしれないけれど、僕だけでもこの場所を訪れて彼のことを思い出したい。……けれどこの絵だけはあってはいけない。晴一が描いたものに違いないけれど、それでもこれを見て彼の暗い感情が頭に強く思い浮かぶのは僕には耐えられない」

 利彦は藤森くんとの楽しい日々だけを思い出したいと願っているのだ。 

その気持ちはよく判った。出来ることなら私もそうしていたい。しかし、毎年ここに来

る度にこの事件を思い出して苦しむことになるのだろうという気がしていた。それはどうやっても避けられないことなのだ。

ただ、絵を燃やすことに関しては私も賛成だった。不気味な絵として飾っておくのも悪くはないかもしれないけれど、こんな事件の後だと不気味では済まされない。

すると利彦は本棚から一冊、本を取り出した。『梶井基次郎全集』だ。

「これも一緒に処分してしまおうと思う。三田村くんの死体を見つけた時からあの文章が

頭から離れなくてね」

利彦が何を云っているのかはよく分かった。私もあの鮮烈な一行を思い出したのだ。


櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる!


昨日発見された三田村くんの死体はまさにその状況をよく表していた。『櫻の樹の下には』を収めたその本をこの場所に置いておくのは確かに気味が悪い。

じっと表紙を眺めていた利彦はぽつりと呟くように云った。

「見立て殺人なのかと思っていたんだけれどね……」

見立て殺人――。その言葉は聞いたことがあった。童謡や詩などに見立てて死体の装飾を行うミステリのテーマ。その程度にしか理解していないけれど、あくまでそれは虚構の世界の話ではないのか。私はそんなこと思いつきもしなかった。

「それは少し馬鹿馬鹿しいと思うわ。三田村くんの死体は隠すために埋められたのでしょう?」

「うん、そうみたいだね。今朝彼の死体ともう一度対面してそれを確信したよ。あの様子だといつか掘り起こしてばらばらにするつもりだったのだろう。……信じたくはないけれど」

 私だって信じたくなかった。その異常な行動の理由を考えたくもない。

もっとも、知りたいと思っても藤森くんに直接話を聞くことは叶わないのだ。警察の捜査で判明するわけでもないだろうし、こればかりは謎のまま残ってしまう。

それで良いのだ。少なくとも海馬や堀田の云う通り、藤森くんが〈芸術〉と考えて事件を起こしたと判明するよりずっと良い。

 私たちの中では彼はいつまでも親友なのだから――。


結局警察はその日の夕方にやってきた。二人の無残な死体を見て流石にうろたえたようだったけれど、利彦が事の次第を説明すると納得したようだった。私たちもその場で簡単に事情聴取されたけれど、警察の目から見ても藤森くんが三田村を殺した挙句自殺したことは間違いないようだった。

一応この手記の前半も目を通したようだったけれど、流石にこれを証拠として扱う気はないようだった。元はといえば事件解決の手がかりにと思って描き始めたのだけれど、真相が明らかとなった今役立つものではない。

もうしばらくしたら私たちも山を降りられるようだ。家に帰るのは少し遅くなるだろうけれど、久しぶりに博樹に会うことができる。

そういえば博樹は藤森くんに妙に懐いていたけれど、その死を知ったら悲しむだろう

か。小学一年生の彼が人の死というものの意味をどこまで理解出来るかは判らないけれど

感じることはきっとあるだろう。

あの子も――藤森くんの子にとっても辛い報せになる。それでもどうか、彼のことを恨むことがないようにと願ってやまない。

 

ここを出る前にもう一度あの桜を見に行こう。そして彼に別れを告げよう。

 冥福を祈りながら――。


========================================

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜の花が散る前に プリズム @observer_prizm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る