第三章

第三章 


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 筆を置こう、と書かれたところで私は手記を読むのを止めた。これ以上は読んでいたくなかったし、読む必要もないと思った。

 三十二年前、三田村の父が殺害されてあの木の下に埋められていたというだけでもショックだったのだ。そしてその犯人は藤森誠一――。

 藤森晴一が三田村を殺したのは間違いないだろう、と私は思う。アリバイ等から考えてそれが妥当な結論だし、否定しているのは友人である俊彦・咲良だけだ。「晴一がそんなことするはずがない」と云う俊彦の主張は、申し訳ないけれどあまり説得力がなかった。

 ということは、三田村順と藤森愛菜は、両者の父親が殺人の被害者・加害者ということになる。守野さんが云っていた三田村たちの「関係性」とは、そのことだったのだ。

 しかし、三田村は気にしていないと云っていたが、実際のところどうなのだろう。藤森の父親に自分の父親が殺されたのだ。当時、三田村はまだ二歳だったとはいえ、大人になった今も憤りを感じていてもおかしくはないだろう。

 もっとも、親の罪がその子供に受け継がれるというわけではないから、藤森愛菜をを憎んだとしても、何にもなりはしないけれど……。

「もう読んだのかい?」

 守野さんが優しく声をかけてくれる。私が首を振りながら「途中まで」と云うと彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに何かに気がついたように小さく頷いた。前半部分を読めばおおよその事情が分かるということは、彼も承知しているのだろう。

「……咲良さん、字がとてもお上手だったのですね」

 目の前に座っている三田村に目をやらないよう気をつけながら、関係のないことを云った。胸が締め付けられるような、こんな気持ちのまま黙っていることはできなかったが、かといって何を話したらいいのか、思いつかなかった。

 まだ少しぼうっとしている美琴さんは、私のおかしな質問を大して気にする風でもなく、ゆっくりとした口調で答えてくれた。

「そうね。お義母さんが書く字はそれこそワープロで打ったように美しいってお義父さんが自慢していたわ。そう、それにあの人……主人も誇らしげに……」

後半は涙声に変わっていた。私は慌てて「すみません」と彼女に謝る。

「ううん、私の方こそごめんなさい。いつまで泣いていても仕方がないもの。よし、じゃあ皆さんに何か食べるものでもお作りしようかしら」

 無理に明るく振る舞う美琴が哀れでならなかった。

 私は頭の中に浮かび上がった黒ずくめの犯人に対して怒りをぶつけた。

 あなたがオーナーを殺したことで、この人がどれだけ傷ついたと思う? 幸せだった二人を引き裂く権利がどうしてあなたにあるの――。

 しかし私がそう思ったところで、現実は何一つ変わらない。博樹は死に、もう二度と美琴さんと口をきくことはない。そして彼を殺した犯人は今も桜村で息を潜めているかもしれない。ひょっとしたらまだ誰かを殺すつもりなのかもしれない。

そう考えると私は居ても立っても居られなくなった。勢いよく椅子から立ち上がる。

「あの、私外を歩いてきます。食事は結構です。あまりお腹空いてなくて」

 それは事実だった。先ほど遅めの朝食を食べたばかりだし、昼食を摂ろうという気は全くなかった。

「水澄くん、守野さん。二人も一緒に行きませんか?」

 誘ってみたのだけれど、守野さんには遠慮しておくよ、とやんわり断られた。水澄くんはというと、私の言葉が聞こえていなかったのか、「うん」と適当に返事をするだけで、椅子を離れようとはしない。天井を見上げている彼は、必死で何かを考えているように見えた。

 しかし、一人で外に行くというのはなんとなく気が引けてしまう。諦めるか、と椅子に座ろうとすると、「俺も行こう」と袴田の声がした。彼が一緒なら不審者が出ても心配ない。私は「お願いします」と頭を下げ外に出た。

「やっぱり少し気詰まりだったのかな?」

 ドアを閉めるなり袴田が訊いてきた。きっと三田村のことを云っているのだろう。私が彼に目を向けないようにしていたことを、この人は見逃さなかったのだ。

「正直に云えばそうですね。三田村さんのお父さんが殺されていたなんて驚きましたし。しかも犯人は多分……」

「多分って、全部読まなかったのか?」

「ええ。あれ以上読んでいられなかったんです。目の前に殺された人の子供が座っている状況で、あの手記を読み続けることは私にはできません。……どういう結末かは大体想像できますけど」

「ふうん。まあ、それが正常なんだろうな。どちらかと云えば君のお連れさんたちの方がおかしい」

「水澄くんと守野さんのことですか?」

「うん。水澄くんはあれだけ手記を読みたがっていたし、云うまでもないだろう。でも守野さんも普通ではないと思うな」

「どの辺りがですか?」

「手記を読むときの、あの目の鋭さがちょっと気になってね。君が散歩に誘った時も何かを考えている様子だったし、彼も事件の真相を突き止めようとしているんじゃないかと思ったのさ。そう云うとなんだか格好いい探偵みたいだけど、現実ではそんなことありっこないからなあ」

 確かに守野さんの様子は少し変だと思っていた。どちらかと云えば、首を突っ込もうとする水澄くんを止めるという方が彼らしい。案外ミステリに興味があるのかもしれない。

 その時、私はふと思ったことがあった。どうしようかと迷ったけれど、思い切って訊いてみることにした。

「袴田さんはどうなんですか?あの手記に、三十二年前の事件に、博樹さんの死の真相が隠されているとは思わないのですか?」

「……さあ、どうなんだろう。関係があるのかは分からないけれど、俺が今やるべきなのはそれについて考えることじゃない」

「じゃあ何だって云うんです?」

「何のために君についてきたと思う?」

 質問をしているのはこっちだ、と思ったけれど袴田の威圧感で私は何も云えなかった。彼に取り調べを受けるのは恐ろしいだろうなとぼんやり思う。

「……さあ、どうしてでしょう」

「聞き込みだよ。海馬、堀田、藤森の三人にね。君がいなくてもいいのだけれど、いた方が話を訊きやすいと思って」

 袴田の云うことも一理ある、と思った。強面の刑事が一人で話しかけてくるより、女子大生と一緒の方が聞き込みの感じがなくて色々答えてくれるかもしれない。

 しかし、私を同席させてもいいのだろうか。一般人が刑事の調査に立ち会うというのはあまりいいことだとは思えなかった。

「いや、この状況だから関係ないよ。俺たちしかいない、閉ざされたこの空間でそんな事云っていても仕方ないだろう?」

 云われてみれば、それもそうかもしれない。本当はぶらぶら歩くつもりだったのだけれど私も袴田と共に海馬たちを探すことにした。

 手記では事件後桜を見たくなかったという心情が書かれていたけれど、私は不思議とそんな気持ちにはならなかった。

 博樹が亡くなったことはショックだったし、その死体をあんな形で発見したことはこの先トラウマになるかもしれない。しかし今は一刻も早く事件が解決するために自分にできることをやらなければいけないと思う。

それは誰が殺したのか、その謎を解きたい思いからではない。美琴さんのため、そして自分が安心するためだ。少なくともそれは自然な感情だと思う。

 私と袴田は桜の木々に沿いながらゆっくりと歩いた。黙っているのが何となく気まずくて、私は彼に質問する。

「美琴さんってどういう方なんですか?袴田さんとバトミントンサークルの同期だったんですよね?」

「ああ、博樹と一緒にね。しかし君も変わった子だな。こういう場合、普通博樹がどんな人物だったのかを訊くものじゃないかな」

 云われて私も一瞬そうなのかな、と思ってしまう。しかし、亡くなった彼がどのような人物だったのかということにさして関心はなかった。いや、関心がないというのは少し違う。昨日出会ったばかりで会話もさほどしたわけではないが、誰に対しても丁寧な言葉で接する、優しくて穏やかな人だということは判っていたのだ。

 もしその認識が間違っていて、実は狡猾で傲慢で……というのであればそんなこと聞きたくはない。だから彼に対する友人の評価は今聞く必要がないと考えた。

 一方、美琴さんに関しては正直掴めないところがあった。夫を深く愛していただけに、今悲しみを隠しきれていない彼女自身は、いったいどのような人物なのか。

 袴田は顎に手をやり、斜め上を向いて考えていた。

「うーん、どういう方かと云われても難しいな。基本的には目立たない学生だったと思うよ。ただ俺や博樹と一緒にいるときは心底楽しそうに笑っていた。バトミントン以外に共通の趣味があるわけでもないし、特に中身のある会話をしていたわけでもないのに三人で盛り上がっていたんだ。――これじゃ答えになっていないか」

「いえ、そんなことは。ところで、美琴さんはその時から博樹さんと?」

「付き合っていたのかってことだろ?えーと確か大学三年の秋だったかな。突然博樹に相

談されたんだ。美琴に告白されたんだけどってね」

 私はそれを訊いて少し驚く。何となく博樹さんの方から声をかけたのだろうと思っていたからだ。

「その時俺はちゃんと受け止めてやれってアドバイスした。その後は二人ともいつも通りだったけど、多分その時から交際していたんじゃないかな。だけど驚いたしそれにショックだったな。美琴がそんな風に思っているなんて知らなかったから。……ああ、こんなことまでは訊かれていないか」

 袴田は話し過ぎたと思ったのか、恥ずかしそうに頭を掻いた。

 そんな彼の様子を見ながら、博樹と美琴、それに袴田は手記にあった俊彦、咲良、晴一のような関係性だったのかと私は思っていた。その同一性を袴田はどう思っているのか、気になったのだけど、それを質問することは叶わなかった。 

 海馬と堀田の姿が見えたからだ。

「この湿り気具合は……。いや、昨日の嵐がいくらか影響しているのだろうか。しかしこれでもなお散らずに残っているとは……」

 桜に向かってぶつぶつ云っている堀田を、海馬は黙って眺めていた。その表情からは何も読み取ることができない。

「おや、どうしました。これはまた意外な組み合せですけれど」

 近づいていった私たちを見て、海馬は穏やかに話しかけてくる。少しばかりは気持ちを持ち直したらしい。

 昨日とさほど変わらない様子のこの二人を見ていると、今朝オーナーが亡くなったことが夢の出来事のように感じられた。

 だが、そんな希望的な思いも袴田の言葉ですぐに消え去ってゆく。

「博樹が死んだ事がショックで、少し散歩を」

「……そうでしたか。ああ、袴田さんは彼の親友でいらしたのですね。お気の毒です」

「ところで海馬さんは博樹とどのような関係だったのでしょうか。そこのところはあまり詳しく聞かされていなかったもので」

「ひょっとして取り調べ、ですかな?」

「いえ、そういうわけでは……」

 そう云って袴田はちらりと私の方を見る。それを受けて、海馬も「ああ、そうでしょうな」とこちらを見た。話を聞き出しやすくするという袴田の作戦は成功したようだ。

「彼の友人としての単なる興味というところです」

「といっても昨夜夕食の場で話した以上のことはないのですよ。私の父親である海馬平次が、博樹さんのお父様とお知り合いだったというだけです。私が学生だったとき、ええとあれは何年前だろうか……そうあの事件の前年ですから三十三年前ですか。まだ七歳だった博樹さんと会ってはいますけど、お互いあまりよく覚えていませんでしたよ」

 海馬平次というのは手記に出てきた人物だ。三田村の父親を恨んでいたという彼も医者だった。そういえば海馬茂が学生時代、ここに来て咲良さんと話していたというようなことも書かれていた。

「そうですか。堀田さんも同じような感じで?」

 袴田は堀田の方を見たけれど、すぐ諦めて海馬の方へ向き直った。桜の木を撫でながら

一人呟いている堀田が、質問に答えてくれることはないと判断したのだろうが、恐らくそれは正解だ。

「ええ。彼も博樹さんと特別関わりがあったわけではないでしょう。親同士の付き合いからだと思いますよ。そういえば私の父と堀田さんのお父さんは大変仲が良かったようですね。時たまお互いの家に行って、何やら話し込んでいましたよ」

「なるほど……。因みに海馬さんはここで何を?堀田さんのように桜を調べているわけではないのでしょう?」

「ええ。ただ一人になるのが怖いだけです。ほら、不審者が何処にいるともわからないでしょう?白昼堂々と襲ってくるとは思いませんが、一応ね」

「賢明な判断です」

「おっと、今何時です?あら、もう十二時を回っている。ねえ、堀田さん。昼食を貰いに行きませんか?」

 相変わらず腕時計ではなく、スマホで時刻を確認した海馬は、堀田からの返事がないので少し残念そうだった。

「それでは僕たちはもう少し歩いてきます」

 これ以上ここにいても仕方がないと思ったのか、袴田は目で私に合図をお送りながらそう云った。海馬に会釈をしてその場を辞す。

「何か収穫はありましたか?」

 海馬たちと充分離れてから私は訊いた。

「君、話を聞いていなかったのか?」

「いえ、全部聞いていましたよ」

「だったら分かるだろう?」

 つまり収穫はなかったということである。刑事の袴田は私のような一般人とは違う何かを感じ取ったかもしれないと思ったのだが、どうやら期待外れだったようだ。

「そういえば森の中を捜索するということはしないのですか?」

私は手記で読んだ内容を思い出しながら尋ねた。

「不審者が森に潜んでいるかもしれない以上、探してみるというのは一つの手だと思いますけど」

「ああ、三十二年前はそうしたみたいだな。だがそいつは武器を持っているかもしれないんだ。行くなら大勢の方がいいが、誰もそんなことができる状態じゃなかった」

確かに袴田が捜索を提案していても皆、首を縦には振らなかっただろう。

「ん?あそこにいるのは藤森愛菜かな」

 分かりきったことではないか、と私は思った。ロッジにいる四人と先ほどあった二人と私たちを除けば彼女しかいない。海馬も云っていたように、不審者がこんな昼間から姿を現すとは思えない。

 しかし、もう少し彼女に近づいた時、私は袴田が何故そんなことを云ったのかを理解した。

 彼女の醸し出す雰囲気は、ロッジにいた時のそれと全く異なっていたのだ。背筋をまっすぐ伸ばし、細められた目は湖の中央とキャンバスとを行き来している。筆を持った手には力が入っているようで、しかしその動きは驚くほど滑らかだった。

 私は思わず見惚れてしまう。冷静に考えれば、今朝人が首を吊っていた桜を描こうとする彼女に対し、気持ち悪さを感じてもおかしくはない。しかし、彼女の姿は私にそんな気持ちを抱かせなかった。

「彼女、集中しているようです。別のタイミングの方が良いのでは?」

私の小声に袴田も「そうだな」と頷く。

しかし私たちが振り返り離れようとした瞬間、藤森は短く鋭く声を発した。

「何の用?」

 私は思わず振り返る。藤森の顔は相変わらず桜とキャンバスに向けられているけれど、話をする気が全くないわけではないようだった。袴田は嬉しそうに微笑みながら、彼女に近づく。

「いや、少し散歩していたらあなたを見つけたものだから」

「中年の刑事が女子大生を連れて散歩?スキャンダルにならなければいいけど」

 画家が絵を描きながら叩いているとは思えない軽口を袴田は真剣に受け止め、少しむっとしたようだった。

「俺はまだ四十だ。三十を回っているあんたに中年と云われる筋合いはない」

「そう。なら初老と云った方が良かったかしら」

藤森の返しに思わず吹き出してしまう。そして私は自分が今日初めて笑ったことに気がついた。

「そんなことはどうでもいい。それよりも訊きたいことが……」

「後にしてくれる?私の方も訊きたいことがあるから」

「何だ?」

「あなたじゃないわ。そこの彼女よ」

突然指をさされて驚き「え、私?」と意味のない訊き返しをしてしまう。

 しかし藤森はそんなことは気にする風でもなく、描きかけの絵を見るよう促した。

「玉木さんだったわね。あなた昨日あの桜を見て死のイメージを感じたって云っていたけれど、私の絵からもそれが伝わってくるかしら」

描いた本人、それもプロの画家から感想を求められたことなどなかったので、どう答えたら良いものか戸惑ってしまう。

藤森の桜は確かに綺麗で、かつ精確に描かれていた。

 しかし、実物が放つ禍々しいオーラは感じられず、ぞっとすることもなかった。

「……正直に云えば、その、そういった感覚はありません。丁寧に描かれているとは思うんですけど、でもやっぱり……」

 藤森は片手を挙げて私の話を遮った。彼女の望んでいる答えを私が返さなかったので、苛立っているのかと思って少し身構えたけれど、藤森の顔には意外にも安堵が浮かんでいるように見えた。

「正直に云えば、なんて断っておきながら随分遠慮した話し方だったわね。訊いているのはこっちなんだから、もっとはっきり貶してくれてもよかったのよ」

 藤森は笑いながらキャンバスをイーゼルから下ろした。私が何も云わないでいると彼女は話し続ける。

「あなたのおかげで決心がついたわ。やっぱり私にはあの桜を描くことはできない。父と

は違うのね」

「お父さん……藤森晴一さんのことですね」

「ああ、あなた手記を読んだの。ならあの人が〈桜村〉のためにどういう絵を描いたのかも知っているわけね?」

「どういう絵か、ですか?そういえば、人物は描けないからここの桜を描いた、とありましたけど」

「もっと後半に詳しく描いてあったと思うけど」

「いえ、私が読んだのは三田村さんのお父さんが亡くなった日の出来事までなんです。その先はどうも読む気がしなくて」

 最後に「どういう結末だったのかは大体想像できますけど」とはとても云えなかった。

「……そう、それならそれでいいわ。そういえばあの二人は一緒じゃないのね。水澄って子にも感想を訊きたかったんだけど」

「水澄くんと守野さんはロッジで何か考えている風でした。誘っても来なくて」

「それで刑事とデートってわけか。まあ、殺人鬼が現れても守ってくれるだろうから、相手としては悪くないわね」

「談笑中申し訳ないが」

 しばらく除け者にされていた袴田は、少々不服そうな面持ちだった。藤森は彼の方に顔を向けるが、その表情からは「興味がないから早く終わらせてくれ」という思いが何も云わずとも伝わってくる。

「確認なんだが、あんたも父親同士の繋がり以外、博樹と接点はなかったのか?」

「当然でしょう。まあここに招待されるのは初めてじゃなかったし、オーナーはいい人だったから彼が死んだことには少なからずショックを受けているわよ」

「それなのにあの桜を描こうと思ったのか?博樹の死体があれにぶら下がっているのを見たんだろう?」

「ええ、見たわ。だからなんだって云うの?死体が頭にちらついて描けない、なんてことにはならないわよ。今も死体が吊るしてあるのならともかく、もう降ろされた後なんだから気にすることは何もないじゃない。この世で人が死んでいない場所なんてそうそうないんだから、気にするほうがどうかしている」

 どうかしているのは藤森の方ではないか、と私は思う。絵筆を握る彼女を見た時はそう感じなかったけれど、やはり少しおかしい。今朝人が死んだばかりの桜を描こうというのはいくら芸術家だといっても異常だ。

 だが、と私は思う。きっと彼女にそれを云えば「異常って何?」という質問が返ってくるのだろう。

正常に対して異常。

 彼女の行動をおかしいと思うことが正常だと私は考えている。だけど彼女からすればそれが異常なのだ。

つまり正常とか異常とか、個人の価値観によって変わるもの、普遍的な定義がないものについて議論するのは無駄なのである。

藤森は多分そう云う。そして恐らく水澄くんも、もしかしたら守野さんもそれに賛成するのだろう。

 だけど――。

「あの、藤森さん」 

 絵を描く道具を片付け、帰ろうとしていた彼女を私は呼び止めた。

「今朝は博樹さんが首を吊られていました。そして三十二年前には三田村淳さんが埋められていた。あの桜が死を呼び寄せていると思いますか?」

 違う。私が訊きたかったのはそんなことではない。

 もっと直接的な、核心をついたことを訊きたかったのにどうしてだろう。言葉が自分の思った通りに出てこない。

 藤森はそれを感じたのか、あるいは私が変なことを訪ねたからなのか、一瞬言葉に詰まったようだった。

やがて彼女はゆっくりと微笑み、

「私に訊いてどうするの?」

 その通りだった。私は返す言葉もなく、ただ俯く。すると彼女は私たちに背を向け、自分のバンガローへと戻っていった。

 私は顔を上げて湖の中央、小島に独り立つ桜に目をやる。あの木が先ほどの質問に答えてくれたら、と思ったが、美しくも禍々しいその桜が口を開くことはなかった。


        2


「収穫はあったかい?」

私がロッジに戻るなり守野さんが訊いてきた。私は黙って首を振る。

「そうか……。あれ、袴田さんはどうしたの?」

 袴田は少し一人になりたいと云って帰っていった。

 刑事という職業柄、私たちを危険な目に合わせてはいけないと思う一方で、親友を失った彼はきっとまだ心の整理ができていないのだ。楽しそうに大学時代のことを語る彼の姿を思い出し、それも無理のないことだと思った。

「そういえば水澄くんがいませんね」

 ロッジには守野さんと美琴さんしかいなかった。どうやら三田村も引き上げたらしい。

「ああ、彼はなんだか気分が悪いと云ってバンガローに戻ったよ。ここで休んだ方がいいんじゃないかとも思ったけど、まあ一人の方が疲れもとれるだろうし……。彼も大分参っているんじゃないかな。あんな光景を目にしてしまったのだから」

 本当にそうだろうか、と何故かそう思った。水澄君の先ほどまでの様子からすると、死体を見てショックを受けたとは考えられないのだけど……。

「玉木さん、コーヒーはいかが?」という美琴さんの言葉に甘え、私も椅子に腰掛けた。

彼女が少し落ち着いたようで少し安心する。

「美琴さん、もう大丈夫みたいですね」

「いくらかね。でもまだ何かのきっかけで、張っている糸が切れてしまうかもしれない。せめてここに閉じ込められている間は気遣ってあげないと」

そうですね、と相槌を打ちながらコーヒーを淹れる彼女を見た。夫のコーヒーを誇らしげに語っていた彼女。その姿が博樹と重なり、私は思わず目を背ける。

「お待たせしました」

 熱々のコーヒーは昨日よりも少し苦く感じる。けれど私は「美味しいです」と微笑んでみせた。

「そう、良かった……」

 目を細める美琴さん。魅力的な女性だと思うのは昨日と変わらないけれど、その儚げな笑みに少しどきっとする。彼女はこの先大丈夫だろうか。最愛の夫を失って生きていくことができるのだろうか。

「あの、美琴さん――」

「さて、そろそろお料理作らないと」

 美琴は私が声をかけるのを遮るように立ち上がった。それでも彼女を追いかけようと私も席を立とうとしたが、守野さんが首を振ってそれを止める。

「でも――」

「彼女はね、無理をしているんじゃない。気遣いは必要だけれど、一人にしてあげる方が良い場合もあるんだよ」

彼の云う通りなのかもしれない、と私は腰を落ち着ける。

「ところで守野さんはずっと何を考えていらしたのですか?」

 守野さんが再び自分の世界に引きこもってしまう前に、と私は慌てて話題を変えた。彼は少し戸惑った顔を見せたけれど、ぽつぽつと話してくれた。

「朝も云ったかもしれないけれど現状、藤森さんの意見が一番尤もらしい。つまり、オーナーは侵入してきた不審者を発見してしまったために殺害され、桜の木に吊るされたということだね。だけど……」

「外から来た人があの暗闇の中でボートを見つけ、島に渡ったとは考えにくい」

私は咲良の手記にあった言葉を思い出しながら後を引き取った。

「そう。手記を読んでそれに気がついた。それに死体の処理もよくわからない」

「首を吊ったことですか?」

「うん。それに三十二年前も昨日と同様の嵐だったようだけど、死体を態々埋めている。そちらの方は手記の最後に解釈が記されていたけれど……」

「死体を埋めた動機ですか?それって一体……」

「君も何となく分かっているのではないかい?」

 私の心を見透かしているかのような守野さんの目に私はどきりとする。

 彼の云う通りだった。

 三十二年前の事件を起こした犯人が私が考えている通りだとすれば、動機を想像することができる。

 例えばそう、桜の下に醜い死体を埋め流ことで、その花の美しさを際立たせるとか、そういう発想があったのではないか。

 通常では考えられないことだけれど、画家の藤森晴一がそう考えたとしてもおかしくはない――ような気もする。図書室に飾ってあったという彼自身の絵に満足できなかったとか、そういう理由で。

だけど――。

「今回の事件はそれと同じだとは思えません。もしそうならあの人――藤森愛菜さんが犯人ってことに……。でもそうだとはとても……」

「とても思えない、かい?玉木さん、それは論理性の欠片もない意見だよ。真実を見ることを、君の主観が妨げている。その考え方は些か問題があると僕は思うね」

 そう云われて私はショックだった、というよりまず驚いた。守野さんの言葉とは思えないほど冷たい響きがあった。しかもその顔には翳りが見えた、ような気がした。

 けれどそれは流石に気のせいに過ぎなかったのかもしれない。彼の声色、口調はすぐにいつもの様子に戻った。

「とはいえ、オーナーが首を吊っていた、あるいは吊るされたのには何か別の理由があるのかもしれない」

「自殺に見せかける、とかですか?」

「そう、それが一番ありそうだね。あるいは全く逆か」

「逆?」

「博樹さんの死は本当は自殺だったけど、殺人に見せかけるために強く首を締め直し、猟奇殺人を装って、あんなところに吊るした、とか」

「でも何のために……」

「いくつか可能性は上げられるね。例えばこんなのはどうだろう。博樹さんには多額の保険金がかけられていて、自殺を外部に知られるわけにはいかなかった。自殺だと生命保険が降りないのは知っているだろう?」

「でも、それならもう少し分かりやすくした方がいいんじゃないですか?例えばナイフで刺すとか……」

「首に自殺の痕も残っていれば、その方がかえって不自然だろう?だから絞殺に見せかけるしかなかった」

「確かに、皆博樹さんの死は殺人だと了承していますし……」

「殺人を自殺に見せかけるという、小説やドラマでよくあるパターンの逆というわけだ。そして、この後本当に誰かを殺せば連続殺人に見えるかもしれないね」

 自殺を隠すために人を殺す?それは正常な人間の思考だとは思えなかった。だから守野さんが少し、いやかなり怖かった。彼はどうしてそんなことを思いつくのだろう。ひょっとして水澄くんも同じことを考えているのだろうか。だとしたら私が一緒に来た二人は実は危険な人物なのではないか……。先ほどの袴田の言葉が思い出され、私は少し怖くなった。

「勿論、可能性の話だよ。そんな恐ろしいことを考える人間がこの〈桜村〉の中にいるとは思えないしね――って、これも論理性の欠片もない、か。うん、やっぱり人はこういう状況だと、希望的観測に縋りたくなるんだなあ」

 それを聞いて私はひとまず安心した。そう、別に守野さんや水澄くんが犯人だというわけではないのだ。守野さんは多分あらゆる可能性を挙げていき、一つ一つ吟味することで正解に辿り着く、そういう思考の持ち主なのだろう。

 しかし、私はふと気がついた。

 保険金目当ての工作ではないか、と守野さんは云った。だが生命保険金の受け取りが可能なのは通常、二親等以内であるはずだ。つまり配偶者、子供、両親や祖父母、姉妹兄弟もしくは孫に限られる。そして今〈桜村〉にいる人物で、オーナーから見て二親等以内に当てはまるのは――。

そう、美琴だけだ。守野さんが云ったことが真実なのだとすれば、それを行う動機があるのは彼女の他にはいない。

キッチンで一人黙々と作業する美琴に目をやる。彼女が夫の自殺を偽装し、挙句罪のない人間の命を奪おうとしているとは到底思えない。

論理的ではないかもしれない。

だけど私にはそれがどうしても有り得ないことにしか思えなかった。

それと同時に守野さんに対する恐れがまた湧き上がってくる。私が知っている彼の考え方ではなかった。それとも私が守野さんのことを十分知らなかっただけなのだろうか。

可能性があればどんなに残酷なことでも考慮し、いつか美琴さんにその考えを突きつけるかもしれない。

その時私はどうしたら良いのか。もし守野さんの考えが正しかったら、その行為も正しいものになる。

しかし真偽がわからぬこの段階において私はやはり、彼に若干の恐れを感じずにはいられなかった。

 守野さんはそんな私の心の揺れには全く気がつかないようだった。 先程と同じ穏やかな声で、口には若干笑みを浮かべさえしながら云う。

「しかし僕も含めて皆、危機感がないよね。不審者が潜んでいていつ襲ってくるともわからない。あるいは僕たちの中に殺人犯がいるかもしれない。そんな状況で一人になったり教え子を散歩や昼寝に行かせたりするなんて」

「昼の間は明るいからではないですか?」

「うん、多分そうなんだろうね。太陽が出ている間、人間の心は無意識のうちに安心している。今襲われるなんてことにはならない。だから一人で行動しても大丈夫なんだ。そう勝手に思い込む。でも夜になると一体どうなるんだろう。部屋の電気をつけていたとしても窓の外は真っ暗。その闇の中で殺意が、憎悪が蠢いているかもしれない。そんな状況になった時、僕たちは平静を保っていられるのだろうか。僕はそれが怖くてたまらない」

 私の中に芽生えた守野さんへの恐怖は一瞬にして消え去っていた。今は彼の云う夜の恐怖がじわじわと心を侵食している。

 日が沈むまでまだ時間はあるけれど太陽が西に傾き、空が赤色に染められるにつれて私は焦っていくのだろう。そして夜が〈桜村〉を包んだ時、私は恐怖に耐えることができるだろうか。

 結論から云えば、耐えることなど到底できなかった。夕食の七時にはもう日は完全に落ちており、ロッジのドアが開くたびに私はさっと身構えた。

 しかし恐怖を感じているのは私だけではないようだった。皆の顔にも緊張の色が浮かんでいる。昼間と変わらないのは堀田と、少し遅れてやってきた水澄くんくらいだった。

美琴さんが悲しみを押し殺して作ってくれた料理は、相変わらず手が込んでいて豪華だったのだけれど、食事の様子は昨日と全く違った。

 誰も話そうとせず、食器が触れる音と咀嚼音だけがロッジに響く。私は空いている博樹の席になるべく目をやらないようにしながら、食事を続けた。沈黙は嫌だとは思わなかった。むしろ何か言葉を発することなどできそうにもなかった。

 外に縄を持った黒い影がいて、だんだんとロッジに近づいてくる。あるいは私のバンガローの近くに隠れている。そんな光景ばかり想像してしまう。

 そして自分自身の思考に怯えて意識を目の前に戻せば、今度は集まった人間の内、誰かが殺人鬼であると考えてしまい、また怯える。

 私は恐怖のあまり、死んでしまうのではないかとさえ思われた。昼間は何も感じなかったというのに、おそらくシャワーも浴びることさえできない。眠ることなどもってのほかだ。明日を無事に迎えることができるのか、私はそれだけを考えながら夕食を口に運んでいた。

「お通夜みたいな雰囲気じゃないか。もう少しなんとかならないかね」

 普段自分から話さないくせに堀田が突然そう云った。しかし誰もそれに答えない。海馬でさえ一度開いた口を閉じた。そんな皆の様子に堀田は不満そうにして、グラスのワインを呷った。

 結局夕食の席での発言はそれだけだった。事件のことはおろか世間話でさえ、される気配がなかった。

 静かな晩餐も終わり、美琴が席を立って食器を片付け始めたので私は彼女を手伝うことにした。彼女は微笑んで私の申し出を受け入れてくれた。

「ありがとう、玉木さん」

 私がシンクで皿を洗っていると小さく、か細い声で礼を云われた。

「いえ、このくらいなんでもありません」

 それは本心だった。守野さんには一人にしてあげることも必要だと云われたけれど、それでも私は彼女のために何かしてあげたかった。

「あの、美琴さん。色々と大変だと思いますけど、その……」

 彼女の目は見ないようにしていたのだけれど、それでも言葉に詰まってしまった。どんな言葉をかければいいのか、皆目見当もつかない。

 しかし私の気持ちは彼女に伝わったらしかった。泣きそうな顔になりながらも目を細め

て微笑んだ美琴はもう一度ありがとう、と云った。彼女の心からの微笑みを見るのは今日初めてだ、と私は気づいた。

 私の心も少しだけ晴れ、洗い物に戻った時ふと視線を感じた。顔を上げると守野さんと水澄くんがこちらを向いていたようだった。だが、私がそれに気がつくと二人とも慌てて目を外してしまった。なんだか気持ちが悪かったけれど、美琴に「コーヒーを運ぶの手伝ってくれるかしら」と頼まれて仕事に戻る。

 結局守野さんたちは私たちが席に戻っても何を話していたのか、訊ねてくることもなかった。

それならば私の方から訊いてみようと思った時、水澄くんが突然口を開いた。

「皆さん、今夜はどうします?」

私は最初その発言の意図を汲めなかった。今夜はどうするかと問われたらバンガローの中でじっとしている他ないではないか。

 しかし私がそう云うと水澄くんは不思議そうにこちらを見た。

「僕たちは今、この〈桜村〉に閉じ込められているんだ。そして人が一人殺されているかもしれない。そんな状況で皆バラバラになるのか、あるいは一箇所に集まるのか。後者の方がいいと思わないかい?」

「一箇所に集まる……あ、そうか。みんなでいれば不審者に襲われることはない。そうすれば交代で眠ることもできるわね」

 そういえば昼間、袴田もそんなふうに云っていたのを思い出す。

 今夜は徹夜をしなければなるまいと覚悟していた私にとって、水澄くんの提案は神の救いのように思われた。

「それだけじゃないよ。この九人の中に犯人がいる場合、その人物の行動を制限することにもなる」

 水澄くんが云っていることは間違っていないかもしれない。だけど今、それを云わなくても良いのではないか、と私は思った。

この九人の中に犯人がいる――。

 その言葉で皆互いの顔を伺い始める。その目には他者への疑惑が色濃く現れていた。今朝からずっと心の奥にあったものの、なるべく気がつかないふりをしてきたその可能性。隣に座っている者がオーナーを殺したかもしれないという疑念。夜になって突然もたらされた恐怖は、全てこの中にいる誰かのせいなのかという苛立ち。

 ロッジの空気がさらに悪化してしまった。得体の知れない不審者よりも、自分が会話し、食事を共にしてきた人々に対する恐怖の方が何倍も大きかった。

疑心暗鬼が食後のダイニングテーブルを囲む。そんなことを考えながらも私自身、一人一人顔を盗み見た。

 美琴。藤森。袴田。海馬。堀田。三田村。守野さん。そして水澄くん。

この八人の中に殺人犯がいるのか。それとも闇に潜む闖入者がオーナーを手にかけたのか。はたまた彼は自殺し、誰かが――おそらく美琴が――それを偽装したのか。

 いずれにせよ、水澄くんの提案はやはり魅力的だった。私は手を挙げて賛成する。

 しかし――。

「それは反対だわ。犯人がもし強力な武器を隠し持っていたとしたらどうするつもり?もしそうなら一緒にいる方が危険じゃない」

 藤森がそう反論した。

「強力な武器……。確かにこういう場所・状況に猟銃はぴったりだ。美琴さん、銃の類は〈桜村〉に保管されていますか?」

 銃。その響きに私は思わず体が震えるのを感じた。この平和な国で暮らす上で通常話題に上ることのないその凶器だが、ここにあってもおかしくはない。もしライフルや猟銃を持っていれば八人をまとめて殺害することも難しくはないだろう。

「銃はないと思います。私は詳しくないのですがああいったものを所有するのには免許がいるのでしょう?私も夫も興味もなかったし、必要性も感じていなかったので態々面倒なことはしていません」

 なるほど、それならば安心だ。咲良さんの手記にもあったが、どういうわけかこの辺には動物がほとんどいないし、美琴さんの云う通り必要性がないのだろう。 

 私はほっと胸を撫で下ろしたが藤森は引き下がらなかった。

「ここにあるかどうかなんて関係ないわ。私たち、荷物検査をしたわけじゃないのよ。誰が何を持っているかなんて判らないじゃない」

「僕も彼女に賛成だね。殺人犯と共に寝るというのが嫌なわけではなくて、そもそも誰かと同じ場所で睡眠をとるというのが考えられない」

「ああ、まあそうですな。確かに一人でいる方が逆に心が落ち着くかも知れない。バンガローにも鍵はかかるのだし、問題はないでしょう」

「ミステリでも、水澄くんの云うような提案がなされるけどね、いざ自分がこんな状況に立たされると、とてもじゃないが犯人ではないかもしれない人たちと一緒には寝られないな」

 堀田と海馬、そして三田村がロッジでの立てこもりを拒否したので、二対四となってしまった。美琴さんは口を開くような雰囲気ではなかった。守野さんはどうか、と横を見るとどちらに賛成すべきか迷っているようだった。 

 頼みの綱は現役刑事の袴田だ。彼が全員で集まっていた方がいいと説得してくれたら、四人も考えを改めてくれるかもしれない。

「俺はやはりロッジに集まっているのがいいと思う。たとえ誰かが銃を持ち出しても俺が止められるかもしれないし、侵入者が犯人だった場合は、集まった俺たちに手を出そうとは思わないだろう」

 しかし、袴田に対しても藤森は冷たく云った。

「あなたが犯人ではないという証拠はあるの?」

「え?」

袴田は言葉に詰まる。私も口を開けたまま藤森を見た。

「博樹は親友だから殺すはずがない、刑事の俺が人を殺すはずがない。そんなことを云われても私たちにはそれを信用するだけの根拠がない。それは皆平等のはずだわ。誰だって自分の無実を証明できないのだから。……むしろあなたなら拳銃を調達するのも容易だし体格だって一番いいわ。刑事の云う通りにして殺されたら死にきれないわよ」

「そう云われては返す言葉がないが、しかし……」

「どうしたって私の気持ちは変わらないわよ」

 困ったことになった。これで三対四。あとは守野さんがどう出るか――。

「うーん、僕はどちらが良いのか正直判らない。皆の判断に委ねるよ」

 実に守野さんらしい回答だった。しかし、今はそれが煩わしい。どう考えても皆でいた

方が安全なのに、どうしてバラバラになろうとするのだ。私にはそれが全く理解できなか

った。

「では、仕方ありませんね」

 水澄くんが残念そうに云った。

「一人でもこちらに賛成してくれたら……」

 私がそう呟くと、水澄くんは、

「まあ何も多数決をとった、というわけじゃないからね。それに藤森さんたちの気持ちも分からないでもないし……」

 藤森さん、と云いながら彼の目は三田村に向けられていた。三十二年前、ここで父親を殺された彼の怯えは、確かに尋常ではないだろう。

「それに海馬さんも云っていたけど、バンガローに鍵はついているし、まあ大丈夫だとは思うよ」

 しかし、その顔が本当に大丈夫だとは思っていないように感じられ、私は頷くことができなかった。

 ともあれ、こうして私の願いは聞き入れられなかった。袴田も仕方がないか、と諦めている。

「そうと決まれば早く出ましょう。ここにいても仕方がないわ」

 藤森はすでに立ち上がっている。皆、彼女に続いてロッジを出た。 

 美琴さん、藤森、三田村、袴田は左へ。残りは右周りで自分の寝床へと帰る。

 外はかなり暗く、桜の姿も朧げにしか見えないほどだった。やはりロッジで夜を明かしたかった、と今更云っても仕方がないが、そう嘆きたかった。果たして私は翌朝あの場所へ戻ることができるのだろうか。

「雲がかかっているらしい。随分暗いのはそのせいですね。ところでどなたか今何時かわ

かりますか?」

私の少し前を歩く海馬が誰にともなく訊いた。

「おや、海馬さん腕時計をつけているじゃないですか」

 守野さんは海馬の癖を知らないようだった。彼には時刻をスマホで確認する癖がある。

「そういえばそうでした。ああ、もう九時だったのか。意外と時間が経っていたな」

「海馬さん、スマホを忘れてきたのですか?」

「ええ、お恥ずかしながら。しかし奥さんは鍵をかけていましたから、取りに行くこともできませんし、別段困ることもありませんから」

 本人がそう云うのだから本当に構わないのだろう。それ以上心配するのはやめた。

「それじゃあお互い戸締りには気をつけましょう」

 海馬と堀田は自分たちのバンガローへ入って行く。やがて私たちも寝床に辿り着いた。

 守野さんは立ち止まって私と水澄くんの顔を交互に見ながら云う。

「いいかい。鍵は絶対にかけること。誰かがやってきても不用意にドアを開けたりしないこと。それから極力窓の外も見ないほうがいい。犯人に気づかれたら大変だ。心配しなくても必ず朝は来る。だから――」

「分かりました。でも守野さんも、ですよ」

 守野さんはリムレスメガネのブリッジを中指で押してみせた。

「ああ、もちろん僕も充分気をつけるよ。それじゃあまた明日」

「おやすみなさい」

 私は彼の背中がバンガローの中に消えるのを見送った。私もそれに続こうとした時、水澄くんが黙って桜の方に目をやっているのに気がついた。

「あれ、水澄くん。入らないの?」

 彼はそれに答えずスマホのライトを桜に向ける。少し距離があったので一部しか照らすことができていなかったけれど、それでも昨日ここにきた時に比べれば、随分花が散ったことが分かった。

「あとどのくらい持つのかな」

 自分の持つ明かりで照らされた水澄くんの顔を見て、私は少しどきりとする。

 目を細め、桜を見つめる彼の顔には悲哀が浮かんでいるように私には見えた。だがその理由が分からない。どうして水澄くんが悲しそうな表情を見せるのか。ただ桜が散っていくその様が悲しいと云うのか、それとも……。

 水澄くんの声に答えることができないまま私は彼を見つめていた。

 と、その時少し強めの風が吹く。この風でまた散っていくのかと思って桜の方を向いたが、水澄くんはその瞬間ライトを消した。

再び闇が訪れ、桜がそこに溶けていく。

水澄くんはもう何も云わず私に背を向けドアに向かった。

 静寂。

 風もあの一度きりでもう吹く気配もない。海馬の云っていた通り雲がかかっているのだろう。月や星の姿は全く見当たらなかった。

 私は今自分が一人であることを急に思い出し、慌ててバンガローへ駆け込んだ。しっかり鍵をかけ、そのままベッドに倒れこむ。スプリングの軋む音にさえ驚き、声を上げてしまった。やはりこのままではシャワーを浴びることはできない。朝になって、光が部屋に差し込んでからにしよう。それまではベッドに寝転び、目を開けておこう。そうだ、電気も点けっぱなしにしておけば怖くない。本でも読みながら夜を明かせば――。 

 しかし自分の考えは間違いであることに気がついた。明かりを点けたままでいれば「招かれざる客」に自分の居場所を教えることになる。彼もしくは彼女が人のいる所を手当たり次第に狙っているのだとすれば、それだけで自分の寿命を縮めることになるのだ。

私は仕方なく電気を消し、天井を眺める。目を閉じなくても、今日目にしたものが頭の中に浮かび上がってくる。

博樹の死体。落ちた橋。羽柴咲良の手記。

そして藤森愛菜の絵。

 いや、違う。最後に浮かんできたのは彼女の絵ではなく、あの禍々しいオーラを放った実物だった。あれは人間が描き写すことなどできない。

頭の中のその木は私の方へ枝を伸ばし、死に引きずり込もうとする。

(やめて!)

私は思わず目を閉じる。そしてもう開けることはできなかった。開ければ闇から無数の枝が手のようにことらに伸びてくるような気がしたから。

そして私はそのままゆっくりと微睡んでいった。


        3


 翌朝、私は陽の光で目を覚ました。悪夢のせいで起きたわけではなかったから、少なくとも昨日よりは良い目覚めと云って良いだろう。

 昨夜は着替えることすらしなかったのか、と自分で呆れながら服を脱いでシャワーを浴びる。夜を無事に越えられたことに対する安堵とお湯の温かさで心はかなり落ち着いた。

髪を乾かして時計を見ると、もう八時五分前になっていた。

急いで靴を履いてロッジに向かう。朝食は八時からだ。遅れたら皆に心配されてしまうかもしれない。そんなことを考えながら走っていたのだけれど、ふと嫌な予感がした。

 だけどそれを確かめようという気は起こらなかった。もしまたあんな光景を見たら、今度はきっと気絶してしまう。

私はなるべく湖の方を見ないようにしてまっすぐ走った。

だがそんな心配はいらなかったようだ。ロッジの玄関前で後ろから声をかけられて振り返った時、小島の桜が目に入ってしまったが、そこには誰も吊られていなかった。

「どうしたんだい、溜息ついて」

 声をかけてきたのは水澄くんだった。死体がなくて安心したのよとは云えず「なんでもないわ」とだけ答えて中に入る。

 その瞬間、守野さんが駆け寄ってきた。

「ああ、君たち……。本当に良かった。もし君達に何かあれば僕は……」

「え、ちょっと守野さん落ち着いて。どうしたんですか?」

 突然のことで私は驚く。確かに時間ぎりぎりになってしまったけれど、そこまで心配されると、こちらとしても戸惑ってしまう。

「いや、実は……」

「なるほど、そういうことか」

 説明しかけた守野さんを水澄くんが止めた。

「二人、来ていませんね。早く見に行きましょう」

 その言葉で私もようやく気がついた。

昨日夕食を共にしたのは九人。しかし今、ロッジには私と水澄くんを含めても七人しかいないのだ。

「手遅れでなければ良いけど……」

 挨拶を交わす暇もなく、また、皆の顔色を窺う暇もなく、水澄くんを先頭に全員で駆け出した。しかし頭の中では警鐘がなっていた。

 見に行ってはいけない。ロッジに残っていた方がいい。

一種の防衛本能なのかもしれないその音に気づいていながら、私は足を止めることができなかった。

 バンガローにつくと、やはり水澄くんが先頭に立ち、三つ並んだ内の一番左のドアに手をかける。

「鍵はかかっているかい?」

 守野さんが恐る恐る訊ねた。水澄くんはノブを回し、黙って首を横に振る。

「待って。俺が行こう」

そう申し出たのは袴田だった。水澄くんも彼に任せるのが最適だと思ったのか、大人しく引き下がる。

袴田はゆっくりとドアを開け、そして中に入っていった。

次の瞬間――。

「これは!」という大声。それを聞いた瞬間、水澄くんが中へ入っていく。私は少し怖かったけれど、何が起きているのか知りたくて守野さんと共に入った。

「来るな!」と袴田が云ったがもう遅かった。私はすでに中へ入ってしまったのだ。

すぐに嫌な匂いを感じた。噎せ返るような悪臭。この濃い匂いの正体はすぐに分かったけれど、ここまではっきりと感じるのは初めてだった。

「血の匂いだ……」

 守野さんが呟く。私は彼の右腕にしがみついて奥へ進んだ。

 そして「それ」を見た瞬間、私は膝から崩れ落ちた。

 水澄くんと袴田が囲んでいる「それ」は真っ赤な血だまりの中にあった。

 しかし、本来あるべき姿ではなく――。

「そんな、なんで、誰が、こんな……」

 誰も答えてはくれない、答えられないと分かっていながらも、ついそんな言葉が出てしまう。不思議と吐き気はしなかった。身体が正常に機能していないのかもしれない。頭でもこの出来事をきちんと理解できているのか、そもそもこれは現実の出来事なのか、私は自信がなかった。

「あの、この臭いはなんですか?何か大変なことが?」

 美琴さんの声だ。来てはいけない。入ってはいけない。この地獄に足を踏み入れてはいけない。彼女を止めなければ――。

 しかし私は立ち上がれないどころか、首を回すことさえできなかった。

 なんとかショックを断ち切ったのか、それとも無意識なのか、守野さんが素早く動き、外にいた人が入って来ないように止めにいった。

「どう、思います?」

 しゃがみ込んで「それ」を眺める水澄くんが小さな声で呟いた。

「これは彼――海馬茂なんだろうか」

 水澄くんがそう云ったのも無理はない。

 その死体には首がなかったのだ。

 首だけでなく、右手と、それから左脚もなくなっていた。

 その代わり、なのか胸には桜の枝が深々と刺さっている。

 毒々しいほど鮮やかな赤に伏したその身体を、だから私は何かのオブジェなのではないかと錯覚したのだった。人の形をしていなかったから――。

 しかし、グロテスクな切断面と、立ち込める鉄の臭いが「それ」が人間だったことを物語っていた。

「ここが海馬氏のバンガローなのは間違いない。体型も彼のものだが……」

袴田は渋い顔をしながら云う。

「しかし、堀田さんも同じような体つきでしたよね」

 水澄くんはそう答え、そして急に立ち上がった。

 そうだ。ロッジにいなかったのはもう一人――堀田もなのだ。

 水澄くんに続いて外に出ると、守野さんが美琴たちに状況を説明していた。

「海馬さんかどうかは分かりませんが恐らくは……。ええ、酷い状態です。見ないほうがいい」

 その横を通り過ぎ、隣のバンガローへと向かう。

 一足先に水澄くんと袴田が中に入っていったが、先ほどのような大声は聞こえなかったので、私も恐る恐る踏み込んだ。

 幸いバラバラ死体はそこにはなかった。

「お風呂場にもトイレにもいないようだ。堀田氏のことだから、どこかで桜を観察しているのかもしれない。あるいは……」

 袴田は云いかけた言葉を飲み込んだが、私の頭にはその先――「堀田も殺されたのかもしれない」という可能性が浮かんできた。首を振ってなんとかそれを頭から追い出す。

 これ以上、堀田のバンガローにいても仕方がなかったので、私たちは外に出た。すると美琴たちが、いったい何が起こっているのか分からないといった様子で駆け寄ってきた。

「あの、海馬さんが亡くなっていたというのは……」

「ええ、本当です。首、右腕、左脚が切断され、胸には桜の枝が刺さっていた。……間違いなく他殺です」

 美琴は「そんな」と呟き、両手で口を押さえてその場に座り込んでしまった。

「それで、堀田さんは?」

 堀田も殺されたと思ったのか、そう訊く守野さんの顔色は青ざめていた。

「とりあえずは行方不明、ということになりますね。少なくともこのバンガローの中にはいませんでした。

「すると彼が殺人犯ということでしょうか。いや、ひょっとすると――」

「さあ、まだそこまでは。何にせよ、一度〈桜村〉中を捜索した方がいいでしょうね。山を降りることはできないのだから、どこかに隠れていることに間違いはない」

 袴田は落ち着いて、いや、落ち着いているのを装って、私たちに指示を出した。

「女性三人はロッジに戻っていてください。男四人で堀田さんを捜索します。――それでいいですね?」

 守野さんと水澄くんは頷いて了承の意思を示したが、三田村は答えなかった。というよりこの状況を飲み込めているのかどうかも怪しい。

顔面は蒼白で、手の先は小刻みに震えている。

「大丈夫ですか、三田村さん」

「大丈夫なわけないでしょう!二人殺されて一人が行方不明。こんな状況で落ち着いていられると思いますか?」

「三田村さん、少し冷静に――」

 しかし袴田の言葉はもう三田村には届いていない。

「親父の時と一緒だろう。この桜村には殺人鬼がいるんだよ。人を殺して楽しんでいる狂人が。皆殺される。生きて山を降りることはもうできないんだ!」

 その叫びで誰もが言葉を失う。今も森の陰から私たちの様子を伺ってほくそ笑んでいるのか。次は誰を殺そうかと考えて楽しんでいるのか。

 思わず辺りを見渡す。しかし気配は何も感じられなかった。森はひっそりとしている。

「この様子では仕方ないな。美琴、三田村さんも連れて行ってくれ。何か落ち着くものを摂らせてあげるといい」

袴田は舌打ちして云った。堀田捜索の人手は多い方がいいのだろう。

「あの、私も行きましょうか? 大勢で探したほうが効率的だと思いますが……」

「それは駄目だ」 

私の申し出を守野さんが断った。

「海馬さんを惨殺した犯人がうろついているかもしれないのに、行かせるわけにはいかない。本当は水澄くんにもロッジで待機していて欲しいのだけれど……」

「もし犯人に遭遇したら取り押さえるのに男手は多い方がいいでしょう?凶器を持っているかもしれませんし」

「……まあ、そういうことだ。だから玉木さんはロッジで待っていてくれ。必ず鍵をかけて、僕たちが戻ってくるまで開けちゃいけないよ」

「……分かりました。守野さんも、水澄くんも気をつけて」

 そうして私たちは二手に分かれた。ロッジに戻る間、桜の側に堀田の姿がないかと探したが、そんな様子はなかった。

「もしかしたらあそこにいるのかもしれないわね」

 ロッジに入る前、藤森が振り返って小島の方を見る。彼女だって、少なからずショックを受けているだろうが、怯えた様子もなく、かといって毅然と振る舞っているというわけでもなかった。

 藤森は今、自分の父親のことを考えているのだろうか。昨日読んだ手記の内容を思い出し、私はふとそう思ったが、それ以上は踏み込まず、彼女が伸ばした手の先を見た。

 あの桜の下に堀田が埋まっていると云いたいのだろうか。私はその想像を広げたくなくて「どうでしょう」とだけ答えて中へ入った。藤森も返事を待っていた訳ではなかったらしく、すぐ桜に背を向けて鍵を閉めた。

「コーヒーを淹れますね」

 直接死体を見た訳ではないとはいえ、相当精神的なダメージを負っているだろうに、美琴は私たちに気を回してくれる。それがとても嬉しく、また憐れにも感じられた。彼女もまた大切な人を失ったばかりなのだ。その悲しみをなんとか忘れようとしているのが昨日から痛いほど伝わってきていた。

 しかし今は私も彼女に気を使う余裕はなかった。

 目を瞑ると、血の海に倒れていたバラバラの身体がありありと浮かんでくる。頭を振ってもそのイメージは中々消えてはくれない。

 正直もう限界だった。なんとか気を張ってここまで来たものの、精神的にかなり疲弊しているのが自分でも分かる。

「コーヒーが入りました」と美琴の声が聞こえたが、テーブルに伏した顔を上げることはできない。

 守野さんたちは堀田を見つけただろうか、或いは殺人犯と出会ってしまっただろうか。

 どうか無事でいて欲しい、と思ったところで私の意識は途切れた。

  


 話し声が聞こえる。なんと云っているのかは判らないけれど、これは守野さんと袴田の声だ。そして三田村が呻く声。藤森が「もう嫌」と短く、鋭く云う。美琴さんは小さく悲鳴を漏らしている。水澄くんの声は聞こえなかった。 

 私は机に顔を伏せたまま頭の中で人数を数える。何度やっても、このロッジには私を含めて七人しかいなかった。

 三人もの人がいなくなってしまった。オーナーと海馬は変わり果てた姿で見つかり、堀田は――。

 そうだ、堀田だ。彼はどうなったのだろう。

 私は重たい頭をなんとか上げた。姿勢が悪かったせいか全身が痛む。それでもなんとか声を発することができた。

「あの、堀田さんは――」

「気が付いたみたいだね。まったく、帰ってきたら君が気を失っているものだから心配したよ。まあ、あれだけの血を見たのだから仕方のないことかもしれないけれど……」

「心配をおかけしてすみません。でも大丈夫です。頭は少しぼうっとしているけど……。それより堀田さんは見つかったのですか?」

守野さんはその問いに首を横に振った。

「隅々まで探したんだけどね。もちろんボートで小島にも行ってみたが、彼の姿はどこにもなかった」

 どうやら堀田は見つかっていないらしい。すると生死もわからない訳だ。しかし生きて

いるのであれば姿を隠す必要がない。ということはもしかして……。

私がそれを云うと今度は袴田が答えてくれた。

「今それを話していたところだ。堀田さんが生きているのか、それとも死んでいるのか。どちらとも断定はできない。ただ、湖に沈められた、あるいは崖から落とされたのだとすれば、死体を見つけるのは難しい。――それだけは、はっきりしている」

「でも、もし生きているのであれば姿を現さないのはおかしいですよね」

 それに対し、「そこが問題なんだよ」と守野さんが云った。

「堀田さんがどうして姿を見せないか。その答えは彼が犯人だから、という理由が第一に挙げられる。その場合、博樹さんと海馬さんを殺した堀田さんは、僕たちの様子を窺いながらうまく移動し、捜索を躱した、ということになる」

彼の説明を聞きながら私は徐々に脳がクリアになっていくのを感じていた。質問がすぐに二つ思い浮かんだ。

「訊きたいことが二つあるのですが」

「二つ?」

「ええ。博樹さんがと海馬さんを殺した犯人が同じだということは間違いないんでしょうか」

「ああ。そう考えて問題はないだろう、と袴田さんもおっしゃっていた。出入りが禁じられたこの空間で、二人の人間がそれぞれ別の標的を狙っていたなんていう偶然があると思えないだろう」

 確かにその可能性は低い。殺人犯が二人いると考えるのも嫌だ。

「それで、もう一つというのは?」

「さっき守野さんは堀田さんが犯人だってことを第一の理由と云いましたよね。ということは第二、第三の理由があるってことでしょう?」

「うん。堀田さんが現れない理由はもう一つ考えられるんだ。それを皆で話し合っていたんだよ」

「それってどういう……?」

「殺されたのが海馬さんではなく堀田さんだから」

 私は「え」とだけ発し、しばらく固まった。守野さんは何を云っているのだ。「あれ」は海馬のコテージで発見されたのだ。一見人の形に見えて、実はもう人ではない、バラバラになった「あれ」を彼もあそこで見たではないか。

とその時、私は気がついた。

 あの死体には首がなかった――。

「まさか、そんな……」

 そんな台詞が思わず口を衝いて出る。確かに海馬と堀田は年齢も近く、体型もよく似ていた。だから海馬が堀田を殺害し、その死体を自分に見せかけて、とそういうことなのだろうか。

「この考え正しいとすれば、首が切断されていたことにも納得がいくんだよ。首の切断というのは、かなりの重労働なんですよね」

 袴田が頷き、それに同意した。

「バラバラ殺人なんて、俺たちも滅多に遭遇することはないが、大抵の場合、強い殺意か異常な精神がその動機だ。そうでもなければ人体を切り刻むなんてことするわけがない。時間も体力も相当に必要になるからな」

「だから今回、首が切られていた理由を考えるのが犯人に辿り着く近道なんだ。そうすると、この入れ替わり説が濃厚になる。腕や脚を切って、胸に桜を突き刺したのは、猟奇殺人だと思わせるためのカモフラージュで、実際は死体が誰か、分からなくするためだったんだろう」

 守野さんは「皆で話し合っていた」と云ったが、実際は彼と袴田の二人で話を進めていたのだろう。他の四人は俯いているだけで、なんの反応もなかった。ミステリ好きだという水澄くんも、流石に参っているのかもしれない。

 しかしあの温厚そうな海馬が二人を殺したとはどうしても思えなかった。一昨日会ったばかりの人だけれど、おしゃべり好きの彼が、今も息を殺して森の中に潜んでいる姿は想像できなかった。

 守野さんが語った説は皆を納得させたようで、しばらくは誰も何も云わなかった。しかし、ふと新たな疑問が浮かび上がった。

「そういえば凶器はありませんでしたよね。身体の切断には斧か何かが必要だと思うんですけど」

「ああ、それについては見回っているときに袴田さんとも話をしたよ。今玉木さんが云ったように、斧が最適な凶器だと思うんだけど、倉庫にそれらしきものはなかった。そうだ美琴さん。あの倉庫に斧があったかどうかご存知ですか?」

「斧……。いえ、私はあまりあそこには近づかないものですから、はっきりと覚えていな

いんです。でも以前夫が家から持ってきたと云っていたような気が……。すみません、断言できなくて」

「いえ、とんでもない」

「守野さん、倉庫の中には他に凶器になりそうなものはなかったんですか?例えばチェーンソーとか」

「意外と物騒な事を云うね。勿論、そんなものは無かったよ。ただそこまで詳しく調べたわけじゃない。あそこにはほら、博樹さんの……」

 後半は美琴さんに聞かれないような小さな声だった。そういえばその倉庫に博樹の死体が安置されているのだ。確かにそんな状況であれこれ探し回るのは憚られるだろう。

「彼の死体に異常があったかどうかは確認しましたか?」

私も他の人に聞こえない声で訊く。

「一応ね。でも何も変化はなかったよ」

外部からの侵入者が犯人だという可能性を考慮するのであれば、殺害したオーナーの身体に何かするかもしれないと思ったが、そういう訳でもないらしかった。

勿論、オーナーが実は生きているなんてこともないようだ。

私たちが小声で話を始めたのでロッジは静かになる。そして完全な沈黙はすぐに訪れた。皆思い思い何かを考えているようで、実際はそうではないのかもしれない。

黙っているとこの状況の異常さを改めて認識し、思考ができなくなってしまっているのではないか。少なくとも私はそうだった。

死んだのは海馬か、堀田か。犯人は海馬か、堀田か、侵入者か、或いはこの七人の中にいるのか。

そんな問いだけがずっと頭の中を回っている。私の脳内は霞みがかっており、次に晴れるのはいつになるのか分からなかった。

 一度外に出ようかとも思ったけれどすぐに思い直す。〈桜村〉ではどこにいたって桜の姿が目に入る。今あの薄桃の花を見てしまったら、床に転がるあの死体をはっきりと思い出してしまうに違いない。

 それから五分ほど経った頃だろうか、壁にかけられた時計が十二時を知らせた。

 私はもうそんな時間なのかと驚く。朝食は摂っていないがお腹は空いていなかった。「あの、簡単なものをお出ししましょうか。ロールパンとジャムくらいしかありませんけど……」

 いつものように美琴さんが尋ねてくれる。全員無言で頷いたので彼女は席を立ってキッチンへと向かった。

 食欲はなかったけれど、何か甘いものは口にしたかった。そうしなければ鈍く痛むこの頭が、もう二度と元に戻らないような気がしていた。

 十分もしない内にテーブルにパンと苺ジャム、そしてコーヒーが並べられる。甘くて美味しい筈のジャムは全く味がしなかった。

 食事の時も誰も話をする気はないようだった。無言でパンをちぎり、ジャムをつけ、口に運ぶ。七人ともその動作を暫く続けた。

 しかし皆がコーヒーに手をつけようとした時、水澄くんがぽつりと呟いた。

「スマホ……」

 たったそれだけ、しかも然程大きくはない声だったが久しぶりの発言だったからか、彼に注目が集まった。

「スマホってなんのことだ?」

 ずっと難しい顔で宙を睨んでいた袴田が訊く。私も水澄くんの云ったことの意味は判らなかった。

「え?僕、何か云いましたか?」

 どうやら無意識の内につぶやいていたらしい。自分自身が驚いたような顔でそう訊き返した。

「ああ、スマホって云っていた。何か考え事でもしていたのか?」

「いえ、ちょっと気になっていることがあって。でもお話しするようなことではないので黙っておきます」

「気がついたことがあればなんでも話してもらわないと……」

「だから本当にどうでもいいことなんです。それに警察が来るまでは捜査も進められないでしょう。刑事さん一人じゃどうしようもありませんからね。それなら話したところで特に意味はない。僕の呟きが意味ありげに聞こえたのなら謝ります」

 水澄くんらしくなく、なんだかムキになっているようで変な感じがした。

 一方、袴田は「あなた一人ではどうしようもない」と大学生に云われたからからだろうか、一瞬顔を険しくした。彼だって親友を失っているのだ。早く事件を解決したいという思いは強いだろう。水澄くんはもう少し言葉を選んだ方が良かったのではないだろうか。

 しかし袴田は云いかけた言葉を飲み込むように喉を鳴らすと「そうか」とだけ答えた。

 このおかしなやりとりは、他の者の耳には入っていないようだった。私もそれ以上機にするのはやめにした。

 しかし、水澄くんは突然、美琴に質問した。

「今朝一番初めにロッジに入ったのは美琴さんですよね?」

「ええ。私が鍵を持っていたから」

「その時に何か異変はありませんでしたか。どんなことでもいいんです」

「異変?……さあ、図書室やトイレの掃除で忙しかったからよく覚えていないけど、特に変わったところはなかったと……」

「他の人はどうです?僕たちが最後に入ってくるまで、何かに気がついた人はいないでしょうか」

「私は君たちが来る直前に入ったけどその時はもう海馬や堀田、そして君たちがまだ来ていないことを皆で話していたわよ」

「俺も異変は感じなかったな。昨日はあまり眠れなかったから、ずっと椅子に座って目を擦っていただけで……」

 藤森と三田村はそう答える。守野さんも首を傾げて、

「僕は美琴さんの次に来たんだけど、気になることはなかったと思うよ。しばらくして袴田さんがやってきたくらいかな……。水澄くんはどうしてそんなことを訊くんだい」

 水澄くんはそれに答えず、袴田の方を見た。彼は黙って首を横に振る。

「そうですか。何もなかったのならそれでいいんです」

 先程の「スマホ……」というつぶやきといい、今の質問といい、水澄くんが何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。しかしこれ以上頭を悩ませたくなかったので深く考えないようにする。

水澄くんが黙ってしまったのでロッジはまた静かになった。

 その静寂の中にいて、私はまた一人暮らしのアパートが恋しくなった。本来ならば昨日の内には東京に戻っているはずだったのだ。橋が落ちたせいでそれは叶わなくなってしまった……。

その時、私は昨日も話していたことを思い出した。

「守野さん、そろそろ研究室の誰かが、警察に連絡してくれている頃ですよね?もしそうなら今日にでも警察のヘリがここに来てくれるかもしれない」

 だとすれば事件についても話すことができるし、犯人もすぐに見つかるだろう。ここで怯えて過ごす必要がなくなるのだ。

「そうだといいんだけどね……。ちなみに、袴田さんはどうです?刑事さんだからそんなに多く休みを取れていたわけじゃないでしょう?」

「ああ、昨日の夕方には山を降りるつもりだった。だけど駄目だな。ここに来ている事は妻にも云っていない。行方不明者にはなっているかもしれないが」

「……とにかく今日はもう誰も外に出ないでおきましょう。夜もこのロッジで交代で眠るのがいいかと」

 それが一番安全だから、と守野さんは藤森を見ながら云った。彼女も流石に危険を認識したのか、神妙な顔で頷いて同意を示す。

 美琴さんも三田村も守野さんの提案に安心したのか、その表情がいくらか和らいだ気がした。私もそう見えていただろう。

 勿論この中に犯人がいるという可能性は消えたわけではない。しかし私は殺人者が海馬か堀田か、もしくは侵入者のどれかだろうと思っていたし、多分他の人もそうだったのだろう。だからロッジに篭るという選択を今日はすんなりと受け入れることができた。

 こうなれば犯人が誰なのか、ということにはもう興味がなくなっていた。

 海馬が殺されていたのか、それとも彼が堀田を殺した挙句細工をしてどこかに潜んでいるのか。

 そんなことを真剣に考えていた自分が莫迦らしくなってくる。確かに私は事件の目撃者だ。しかし真相を云い当てることなんて、できる訳がない。刑事である袴田にも無理なことなのだ。

 今日か明日には助けが来るかもしれないと再認識したこと、そして皆でここに籠城すると決まった安心感で、私は少し冷静さを取り戻すことができた。

 ずっと精神が不安定だった三田村も落ち着きを取り戻し、ソファで一人電子タバコを咥えている。袴田と守野さんもその隣に腰掛け、二人で何やら話していた。

 テーブルに残っていたのは藤森と水澄くんだけだった。しかも二人とも難しい顔をしている。私は水澄くんの隣に座った。

「何か気になることでもあるの?さっきから様子がおかしいけど……」

「ああ、ちょっと」

 彼の答えは短かった。

「もう何も心配することはないのよ。皆でここにいれば今日は何も起こらないし、その内警察が来てくれる。事件もすぐに解決するし、私たちも無事帰ることができるわ」

 誰かが悩んでいるのを見ていると、こちらも不安になってくる。だからあれこれ考えるのはやめてくれないか、という願いを込めてそう云ったのだけど、生返事しかなかった。

一方、藤森も怖い顔をして自分の両手を見つめている。これまでの彼女の言動から考えると、水澄くんのように事件についてあれこれ考えを巡らせている訳ではなさそうだ。

 とすると、やはり今回の事件と三十二年前の事件を結びつけているのだろうか。同じ場所で二度も事件が起こったのは偶然だと思う。しかし咲良さんの手記に記されていたあの事件は藤森にとって人生を左右するものだったことは間違いない。

 父親だけでなく、自分までもが〈桜村〉で起きた事件に関わることになった運命を、彼女は心の中で呪っているのだろうか。

 そんなことを考えていると、突然水澄くんに肩を叩かれた。

「図書室に行かないかい?」

「どうして?」と反射的に訊く。図書室に事件解決の手がかりが残されているわけでもないだろうに。

「いいから」

 いくらか落ち着きを取り戻し、少々手持ち無沙汰ではあったので、彼についていくことにした。

「それで、どうしてここに来たの?」

 二人で図書室に入り、ドアを閉めてから私は尋ねた。

「これをもう一度見たかったんだよ」

そう云って水澄くんが机の抽斗から出してきたのはあの手記だった。

「もう一度読んでどうするのよ。そこに書かれた事件と今起きている事件には何の関係もないでしょう?」

 しかし手記をパラパラとめくり始めた水澄くんは答えない。私は質問を続けた。

「それに読むだけなら一人でもいいじゃない。私を連れて来る必要はないでしょう?」

 すると水澄くんは今度はノートから顔を上げた。

「一人で行動するのは怪しまれるからね。袴田さんに変に疑われるのも嫌だから証人がいた方がいいと思って」

 悪びれた様子もなくそう云う水澄くんに、私はなんだか呆れてしまった。

「水澄くんって、なんというか、もう少しとっつきにくい性格だと思っていたわ」

 私は軽い気持ちでそう云ったのだが、彼は途端に表情を固くした。

「あの……癇に障ったのならごめんなさい」

「いや、そうじゃなくて……」

 水澄くんは一度言葉を切り、そして私をまっすぐ見据えて云った。

「名探偵って、信じるかい?」

「……は?」

 私は今、自分が何を問われているのか分からなかった。「あの世って信じる?」や「生まれ変わりって信じる?」といった構造の質問で、「名探偵」という言葉を聞いたことがなかったから――。

「ええと、それってどういう――」

「正確には〈名探偵の現象〉といった方がいいかな」

 正確に表現されたところで、私には彼の云いたいことがこれっぽっちも分からない。

「だからね、名探偵が死を引き寄せるという、至極当たり前の現象のことだよ」

「……」

 私は懸命に水澄くんの言葉を考えた。

 つまりこういうことだろうか。彼は自分のことを「名探偵」だと思っている。そして自分のせいでこのような殺人事件が起きてしまったと――。

「うん、そういうことだよ」

 私は少し目眩がした。

〈桜村〉に来てから様子がいつもと違っていたけど、ここまでおかしな人だったなんて。「透き通るような白い肌の、何やら謎めいた青年」というイメージが、音を立てて崩れ去る。しかし、均整のとれた、どこか儚げな顔のまま、水澄くんはさらにおかしなことを云い続けた。

「だから僕はこの事件を解決しないといけないんだ」

「……よく分からないけど、そんなのやっぱりおかしいよ。普通の大学生に事件を解決できるわけじゃない。手がかりかもしれないと思っていた手記を読んでも、結局何も分からなかったじゃない。昔の事件だって聞いてた話と大体同じだったし・・・」

「ああ、それは……」

 そして水澄くんは予想外のことを云った。

「玉木さんが、とても重要なところを読んでいないから」

「重要なところ?」

「うん。後半部分、つまり、三田村淳が殺された翌日の手記だよ」

 私は頷いた。だってあれ以上読まなくても、三十二年前の事件については知ることができたから――。

「とんでもない。覚えていないのかい?君も博樹さんから聞いただろう。あの桜の木は、その下に死体が埋まっていただけじゃない。あの木で首を吊った人もいるんだよ」

 昨日の朝に見た光景が、私の頭をよぎった。

 だらん、とぶら下がった身体がゆっくりと揺れて――。

 いや、違う。あの時吊るされていたのは博樹だった。すると一昨日、彼が話してくれたのは――。

「それについてもここに記されている」

 水澄くんは咲良の手記を持ち上げてみせた。

「それにね、前半だけ読んでも、多分この手記はなんの意味も為さないんだよ」

「どういうこと?」

「ああ、いや、それはともかく――」

 続きを読んでみるといい。

 そう云って彼は私にノートを手渡す。

 一体どうして水澄くんがそこまで云うのか、私には全く判らなかった。昨日は特に読むことを強要したわけではなかったのに、どうしてなのだろうか。

しかし彼が差し出すノートを見て、私はこれを読まないわけにはいかないんだろうなと確信した。

それは水澄くんが読め、と云ったからではない。

私はノートを開いて手記を読む。そして自分の考えが合っているのか確かめる。

そういう運命なのだ、と直感したのだ。その行為がどれだけ重要なのかは判らない。別に読まなくてもいいものなのだ。

しかし、私はもう水澄くんからノートを受け取っていた。無意識のうちに。


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