手記1
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1
事件解決の手がかりを残すためと書いたものの、どこから始めれば良いのだろう。
そのことを考えると少し手が止まってしまったが、やはりそう、昨日の午後、皆が集まった場面から記すのがいいだろう。
事件には何ら関係がないと思われる箇所もあるけれど、それは私が勝手にそう考えているだけで、実際には何か重要な事実が隠されているかもしれない。
私たちは予定通り、四月八日午後十四時に桜村のメインロッジに集まった。招待客は毎年来ている者ばかりだったので、誰も案内の必要はなかった。久しぶりに会った友人たちが会話を楽しむ傍で、私は独り物思いに耽っていた。
桜村創立から早三年が経過した。この村の企画を聞いたとき「一年の内、限られた数週間しか開かないキャンプ施設など、失敗するに違いない」と思ったことを今でもはっきりと覚えている。しかし私の反対など利彦の耳には入らなかったようで、彼は強い意志で計画を実行した。するとどうだろう、先見の明がなかったのは私の方だと思い知らされた。
初めは近所の人ばかりだったのが徐々に噂が広まり、今では県中から客が集まってくるようになったのだ。利彦の計画はさしあたり成功したと云って良いだろう。
しかし、実のところ私はあまり愉快ではなかった。無論彼の成功が、ではない。多くの人がこの土地に足を踏み入れるようになったことが遺憾でならないのだ。
そもそもこの場所を利彦に紹介したのは私だった。まだ歯が生え変わっていないような子供の頃、祖父に連れられて此処にきた時の情景は今でもはっきりと覚えている。
暖かい春風。揺れる水面。舞い散る桜。
幼かった私はあの風景を言葉で伝える手段を知らなかった。いや、今でも知らない。だからあの時見た物、感じたことを此処に書き記すことはできない。
少なくとも「美しい」と感じたことは確かなのだけれど、それを言葉にするのは躊躇われる。私などが感じたことを表しても、あの世界には何の影響も与えないのだから。
そうだ、世界だ。今私は唐突に思いついた。あれは別世界だった。どこか遠いところ、地球ではない別の星かもしれないところにある世界――。
きっと私はそれを見ていたのだと思う。
しかし、今はどうだろう。同じ場所で同じものを見ているというのに、感じるものは全く違う。勿論綺麗だと思わないわけではないけれど、それを表現することを躊躇う気持ちはない。確実に目の前にある、自分がよく知っている世界に存在している木であることを疑う余地は一つもないのである。
これは一体何の変化だろう。桜の側が変わってしまったのか、それとも私の方なのか。どちらかと云えば私が、より正確には私の精神が変容を遂げたのだろう。
人はいつまでも子供のようではいられない。私も少なくとも社会的にはもう大人と見做される歳なのだ。結婚もしているし、長男はもう八歳になる。仕事だってある。
私を取り巻くそれらの事が、たったそれだけの事が私をこの桜から遠ざけたのだろう。
だから他の人と変わらない、陳腐でつまらない感情しか抱かなくなってしまったに違いない。それ以外に自分の心情の変化を説明することはできない。というより寧ろそう思いたかった。自分が本質的に俗物になってしまったとは思いたくなかった。
何だか随分とつまらない事を書いてしまった気がするが、ともあれ、私はそんな事を考えながら椅子に腰掛け、利彦が食器を準備する姿を眺めていた。私も手伝おうと申し出たのだけれど、座っていてくれとオーナーに云われたら仕方がない。そこで夕食前の時間をゆっくり過ごすことにしたのである。
「しかし、この歳になると山を運転するだけで疲れるな。晩飯はまだかね、羽柴くん」
海馬平次の唐突な発言でふと我に返った。大きな腹から出された野太い声に、思わず顔をしかめてしまう。なかなか腕の良い医者だそうだが、嫌味なところのあるこの男を、私はあまり好きではなかった。
「もう少しで出来ますから、お待ちくださいね」
利彦がそう云うと海馬は鼻を鳴らして今度は私に話しかけてきた。昨年一緒に来ていた茂とかいう医学部生の息子は、感じの良い青年だったのに、と思い出す。親子でもこうも違うものなのだなと考えながら、私は曖昧に相槌を打っていた。
そうこうしていると、いつの間にか料理も並び、招待客は全員席に着いていた。利彦が皆を見回し挨拶する。
「今年でこの桜村も創立三年を迎えました。これもひとえに皆様のお陰であり――」
「堅苦しいのはなしにしましょうや、羽柴先輩」
声を上げたのは三田村淳、M大学で助手をしている男だった。
「今更挨拶もへったくれもないでしょう。それに、皆早く乾杯したいと思ってますよ」
彼は大学時代、私や利彦と同じサークルに所属しており、三つ下ながら利彦とはかなり仲が良かった。私はというと、何事においても軽薄な態度で臨み、責任感をひとかけらも感じられない彼のことをあまり好きではなかった。
別に全ての人に対して「あまり好きではない」と云いたいのではない。快く思っていない人間が偶々二人もいるというだけである。
利彦はそんな彼の提案を「それもそうだな」と受け入れて挨拶を省略し、乾杯の音頭をとった。私は三つ下の後輩の言葉に素直に従う彼の姿に苦笑しながらもワイングラスを持ち上げた。
こうして六人による食事が始まった。
ここで全員のことを書いておいた方が良いだろうか。物語の登場人物風に記すと次のようになる。
桜村のオーナーである羽柴利彦。
その妻、羽柴咲良。
医者の海馬平次。
大学准教授の堀田清。
その助手である三田村淳。
そして画家の藤森晴一。
集まったのはこの六人であり、他に誰も居なかったことはほぼ、間違いがないことを明記しておく。
ほぼ、というのは不審者が潜んでいる可能性を一応考慮したわけだ。
とはいえ、もしそんな人物がいるのであれば、バンガローでこれを書いているところを襲われてしまうだろう。しかし森の中には誰も居なかった(はずだ)し、昨日の晩に橋が壊れてからは出入りすることはできまい。だからこの記録の「登場人物」は先に挙げた六人だと考えていいだろう。
さて、夕食は実に穏やかに、そして教養溢れる話題とともに進んだ。普段は酒癖が悪い(と私が勝手に思っている)三田村も張り合う相手がいないためか、助手らしく静かに堀田の相手をしていた。
「三田村くん、桜の花言葉にはどんなものがあるかな?」
「ええと、精神美、清純、優れた美人……そんなところですか?」
「ほう。流石M大の生物資源学科は違いますな。時に堀田先生、精神美というのはジョージ・ワシントンが関係しているのですかな?」
「先生はやめてください。海馬さんだってそうじゃありませんか」
堀田は珍しく顔を綻ばせた。普段無口な彼は桜の話をする時にだけ笑顔を見せるのだ。
「ええとワシントンですか?ええ、そうですよ。桜の木を斧で切ってしまった彼が正直にそれを申し出た、という逸話が元になっています」
「他の二つは何でしたかな、清純と……」
「優れた美人、ですね」
三田村が助け舟を出すと海馬は一瞬顔を強張らせたが、すぐに嬉しそうな顔になり、
「いや、まったくここの奥さんに似合う言葉ですな。そうでしょう、藤森画伯」
医者の大きな声に「藤森画伯」は肩を竦め、適当に頷いてみせるだけである。しかし答えようのない質問ではないか。何を期待して訊いているのだろう。「ふふ、そうですね」か?それとも「いけませんよ、そんな事云っては」が正解なのか。
すると、私が不機嫌になっていることが分かったのか、横に座っていた利彦が話を変えた。
「そういえば皆さん、日本三大桜というものはご覧になったことがありますか?」
「日本三大桜、というと福島の三春滝桜、山梨の山高神城桜、岐阜の根尾谷淡墨桜のことだね?無論行ったことがある」
堀田は眼鏡を光らせ、早口で云った。他の者はぽかんと口を開けたままだ。
「いや、実は私たちも昨年根尾村まで行ってきましてね。それはもう圧巻でした。なあ、咲良?」
「ええ、とても綺麗でした。ぎりぎり間に合ったのですけれど、もう散る間際のものもあったんです。ですが、それでもとても美しいと感じました」
「ええ、そうでしょう。桜というものは散る姿さえ人の心を掴むのです。いや、春の間ずっと此処に居られるあなた方が正直云って羨ましい」
心の底からそう思っているのがひしひしと伝わってくるくらい感情のこもった台詞だった。滅多にないことなのだろう。助手の三田村も驚いた顔で上司を見ている。
「でもいい事ばかりではありませんわ。此処を開けている時は旅行にも行けませんから」
「すまないね、僕の我儘で」
利彦がおどけてそう云うと、皆は声を上げて笑った。よかった、と私は思う。仲のいい夫婦と云っても問題ないないだろう。私はそのことが何よりも嬉しかったのである。
「そもそも桜という言葉にはいくつか語源がありましてね」
酒が回ってきたのだろうか、堀田はかなり饒舌になってきている。三田村はそれに適当な相槌を打ち、海馬は熱心に聞いているように見える。が、顔が真っ赤なのを考えると恐らく彼も酒のせいで我を失っているのだろう。
「『さ』というのは穀霊を表し、『くら』には田の神が寄り付く座、という意味がある。しかし私が最も好きなのは木花開耶姫の名前から取られた、という説なのだよ」
「何ですか、そのコノハナノサクヤビメというのは」
「日本神話の女神ですよ。本名は神阿多都比売と云ってですな……」
「ああ、なるほどなるほど。流石先生、桜のことなら何でもご存知でいらっしゃる」
先ほどから海馬は「画伯」には話しかけないようになっていた。「画伯」があまりにもつれない態度をとるせいなのだろうが、大人しく、どちらかといえば根暗な男なのだから仕方あるまい。
「しかし、この三人が揃うとやはり懐かしく感じるものだね」
海馬たちを見ながら利彦が突然云った。
「この三人?今は六人もの人間がいると思うが」
「いや、僕と咲良そして晴一、君のことを云っているのだよ。どうだい、M大で過ごした日々が懐かしく感じられるじゃないか。ねえ、咲良」
「ほんとね。藤森くんも相変わらずだし。もう十五年も経っているっていうのに」
十五年か、と私は思わず考えてしまうが、私にとってはその数字は何の意味も持たなかった。大切なのは十五年前ではないのだ。
「そういえば晴一、最近はどんな絵を描いているのだい?」
「その質問は君の依頼以外で、という意味なのだろうか」
「依頼って、あなた藤森くんに何か頼んでいたの?」
利彦は満面の笑みを浮かべ、「何だと思う?」と楽しそうに云った。
「何って、藤森くんに態々頼むとなったら絵しかないじゃないの。どうせ図書室のキャンバスに入れるものでしょう」
私がすんなり云い当てたので、俊彦は「まあそうなんだけどさ……」と実に残念そうに答えた。
彼は三年前、何か絵を飾りたいと意気込んで五十号大のキャンパスを購入したのだが、生憎、御眼鏡にかなう作品は見つからなかった。そこで画家の友人に頼めばいいではないかとようやく気がついたのであろう。
「モチーフはやっぱり桜なのかしら」
「ああ、そうだね。この場所に合うのはそれしかないから」
「観るのが楽しみだわ。いつキャンパスに入れるの?」
「実はもう入っているんだ。今日君がバンガローで昼寝を楽しんでいる時にね」
「じゃあどうしてあんな訊き方したのよ。自分で依頼しておいて、最近どんな絵を描いているのか、なんて失礼じゃないかしら」
「あ、いや僕は純粋に訊いたんだよ。ほら、彼にも家族があるし稼ぎが必要だろう?僕の依頼は無償で引き受けてくれたわけだから、他にも何か描いているだろうと思ってさ」
「ごめん、僕の云い方が悪かったね。君を少しからかっただけさ。なに、今でも変わらず風景画しか描いていないよ。人物は苦手なものだから」
「藤森くんらしいわね。……そういえば愛菜ちゃんはお元気かしら?」
「まだ二歳なんだから、元気じゃなかったら大問題だよ。言葉を話せるようになった、と思ったら日に日にやかましくなってきて大変さ」
「藤森くんのところは奥さんも物静かだったわよね?」
「そう。だから一体誰に似たのか……。それより博樹君の方はどうだい」
これには利彦が身を乗り出して答えてくれた。
「親の僕が云うのも何だけどね、随分と良い子だよ。顔は咲良に似て整っているし、性格は僕に似たのか真面目で素直で……」
「真面目な人は自分でそんなこと云わないわよ。それにしても、博樹が産まれてもう八年になるのね。大変だったこと、今でもはっきり覚えているわ」
私は八年前の日々を思い出す。それは確かに「大変」と云うしかないものだった。精神的にも肉体的にもあれほど疲弊したことは、それ以後ない。
「ああ、そうか。利彦はあの時、確か海外出張だったんだよね」
「うん。桜が妊娠したことも電話で聞いたくらいでね。出産にも立ち会えなかったし、本当に申し訳ないことをしたと思っている。晴一にも色々世話になってしまったね」
「友人なんだから、それくらいはいいさ。だけど、その後会社を辞めて喫茶店と〈桜村〉を始めると云い出だしたのには驚いたね」
「最初は私たちも止めたのにね。なにも会社を辞めることはないって。でもこの人昔から云い出したら聞かないでしょう、意外と。しかも行動も早くて、すぐに店を建てるわ、この土地を買って〈桜村〉を創るわ……」
それを聞いて俊彦は苦笑を浮かべた。
しかし、桜がたくさん咲くこの場所は、大変居心地が良いので、やはり〈桜村〉が創立されてよかったのかもしれない。
素晴らしい景色を独り占めというのも罰当たりな気もする。
それにここを紹介した時の博樹の様子――。「咲良を愛する僕にぴったりじゃないか」と云ってくれたことで、私はどれだけ救われただろう。
「オーナー、食後のコーヒーをいただけるかな?」
ワインに飽きたのか、海馬が唐突に云った。利彦は手伝おうと腰を浮かせかけた私を片手で制し、一人キッチンへと向かう。
「あれ、お二人とももう飲まないんですかあ。なんだ、つまんねえの。じゃあ俺は一足先に帰るかな」
三田村は不満そうに口を曲げると徐に立ち上がった。
「おや、三田村くんはコーヒー飲まないのかい?」
「羽柴先輩、知ってるでしょう。俺、苦いのは無理なんです。先輩、喫茶店じゃなくてバーを開いてくれた方が良かったのに」
利彦は「バーは僕には似合わないからね」と笑うだけだ。三田村は肩をすくめ、玄関へと向かった。そして彼がドアを開けた丁度その瞬間――。
光った、と思った直後に聞こえる轟音。
「きゃっ」
「大丈夫かい、咲良」
「雷か……。随分近いようだが、そんな予報あったかな」
「停電しなければ良いのだが」
突然の雷鳴に皆ショックを受けて若干狼狽える。雷というものはいくつになっても恐ろしいものなのである。
「皆さん、良い歳してびっくりしすぎじゃないですかあ?しかし、こりゃあ嵐が来るかも
しれませんね。僕は先に戻りますのでどうぞお気をつけて」
三田村はそれだけ云うと不確かな足取りで自分のバンガローへと戻っていった。
私はその時、彼の背中を追う海馬と堀田の目にはっきりと憎悪の色が浮かんでいるのに気がつき、少し意外に思った。
彼らは心の中で三田村を恨んでいる。
その理由は知っていたけれど夕食時の様子を見る限り、もうその気持ちはかなり薄らいでいるものだと思っていたのだ。しかし、そう簡単に許せるものではないらしい。
「やっといなくなったか、あのへぼ学者」
「まったく、無能な助手と休息日を過ごすなど、耐えられん」
二人はメビウスを取り出し、吸い始めた。私もつられてマイルドセブンの箱を取り出し火を付ける。
「お二人とも、まだ彼のことを……」
五人分のコーヒーをトレイに乗せて戻ってきた利彦が、彼ら二人の目を見ることなく呟く。
「当たり前だろう。私はあいつに全てを奪われたのだ。折角個人診療所を持てたというのに、三田村の言い掛かりで台無しだ。ひどいと思わんか?」
海馬は私にそう訊いてくるが、なんと答えたら良いものか。代わりに俊彦が気を使って返事をした。
「ええ、そうですね……。やはり夜間診療だけでは厳しいものがありますか?」
「厳しいも何も!収入は減り、妻や息子と会話する時間も減った。何もかも順調にいっていたのに、だ。私は処方する薬を間違えてなどいない、絶対に。それをあいつが……」
「まあまあ落ち着いて、海馬さん。ほら、コーヒー飲んで」
「しかしね、奥さん。落ち着いていられるもんじゃないですよ。私も海馬さんと同じで三田村に人生を狂わされたんだ」
堀田の口調には、桜のことを語る時と同じくらい熱がこもっていた。
それもそのはず。堀田は三田村に自分の長年の研究を盗まれたのだ。学者としてそれが許せないのは分かる。
「共同研究として発表するという意思があったのなら、まだ容認できる。三田村の働きは実際役に立っていた。しかし単独で論文を書き、その拙さ、内容の薄さゆえに学会で撥ねられたのだ。そのせいで私まで叱られ、教授への道が遠ざかった。同じ内容で論文を書いても、もう見向きもされないだろう。それなのにあいつは詫びの一つもしない。どうしてあんなやつに私の人生が狂わされるのか……」
「前から思っていたのですけど」と利彦が穏やかに切り出す。
「三田村くんをどうして責め立てないのですか?お二人は表面上、彼とうまくやっているように見受けられます」
「何か弱みを握られている、とか」
その瞬間、海馬と堀田の表情が一変した。
「おい、晴一」
利彦はとっさに咎めるが仕方がない。藤森晴一という画家はこういう男なのである。云わなくても良いことを云って人を怒らせることが時たまあった。
しかし、二人の表情はすぐに元に戻った。溜息をつく彼らは何かを諦めている風にも見えた。
「いや、藤森画伯の云うとおりですわ。私ら、三田村に強い態度を取れない理由があるんですよ」
堀田は辛そうに煙を吐き出した。
弱みとは何か訊くんじゃないぞ、と利彦は口の軽い画家に目で釘をさす。
しかし、訊かなくても大体判っていた。海馬も堀田も、その能力はともかく、色々とよくない噂が囁かれていた。医療上の不正やアカデミックな世界での不祥事は少なくない、ということだ。
三田村は昔からそういった話題にめざとかったから、二人が隠したいことを何処かで仕入れたのだろう。
「あら、あなたミルク持ってきてくれなかったの?私、ブラック飲めないのよ」
「ああ、ごめん。すっかり忘れていたよ。今、取ってくるね」
なんとなく重たくなってしまった空気を変えようと、いやに明るい声で話す夫婦の努力も虚しく、それっきり誰も何も話さなくなってしまった。
するとパラパラと雨が屋根に当たる音が聞こえてきた。
「降ってきたか……」
私は呟くが、他の四人は反応せず、既に空になったコーヒーカップを見つめていた。「何故だろう」と私はこの時考えていた。一足先に戻っていった三田村に対する恨みを海馬と堀田が話した。たったそれだけのことで、どうしてこんなに空気が変わったのか。強いて云えば雨の音が徐々に大きくなってきていたこと、雷が鳴る音が増えてきたことがその要因なのかもしれない。
しかし今になって思えば、彼ら四人があの時頭の中で何を描いていたのか、それがとても重要なことなのだろう。
残念ながら私にはそれを知る能力がない。あればこんな事件起こっていないのだ。
「さ、そろそろ皆さんもお戻りになった方がいいでしょう。片付けは私が残ってやりますので」
利彦は唐突にパン、と手を叩いた。時計を見ると時刻は二十時を少し過ぎたところだった。
「あら、私もやるわ。何もかもあなたに任せられないもの」
「いや、いいんだ咲良。天候が悪化する前に戻っていてくれ」
「なら僕が……」
「晴一も早く戻った方がいい。そうでないとひ弱な君は雨に流されていってしまう。ほら皆早く行ってください」
先程も書いたように、彼はこうと云ったら聞かないところがある。これ以上は仕方あるまいと諦めて私たちは雨の中へと歩み出た。
ゴロゴロとまた雷が鳴る。その音はかなり遠かったけれど、雨脚はどんどん強くなっていた。芝に踏み出すと雨が染みてきて冷たい。
「走っていくしかないな。それでは皆さんお気をつけて」
海馬はそう云って太った体を揺らしながら堀田と共に駆け出していった。
残った私たちも「それじゃあ」と短く挨拶して別方向へ駆け出した。
しかし五歩走ったところでふと思い立って後ろを振り返る。
段々小さくなっていく背中が目に入る。
その背中を見るのは一体いつ以来だろうか、という考えが頭をよぎり、そのまま暫くそこに立ち尽くしていた。
雨に濡れるのも構わず……。
2
嵐というものはどうしてこうも自分勝手なのだろう。我々の目の前にいる時はあれだけうるさいくせに、過ぎ去る時はなんの前触れもなく、人知れず消える。そしてそれは大方夜の出来事である。
子供の頃から私はそんな嵐が好きではなかった。寝ようとしているのに風と雨が戸を打ち付け、心は不安のどん底へ落とされる。
それなのに朝、カーテンを開けると眩い光が部屋に差し込む。その瞬間、私は嵐に勝ち逃げされたような気になって嫌になる。一体何が勝ちで何が負けなのかはわからないけれど、とにかくその静けさが私は嫌いだった。
それは大人になった今でも一緒で、とりわけ今朝はその思いが強かった。
だがそれだけではなかった。
そして、何かを感じていたのは私だけではなかったはずだ。
桜の息遣いが聞こえてきそうなほどの静寂の中に漂う異臭――。
その時はまだ本当に悪臭を嗅いだわけではない。けれど鼻の奥で異様な雰囲気を捉えたことは間違いではなかった。
そのことはすぐに証明されたのである。
「三田村くんがまだ来ていないのだよ。どこかで散歩でもしているのかな」
私がロッジに入った時、利彦は心配そうな顔でコーヒーを淹れていた。確かに三田村の顔だけが見当たらない。
そして彼はいざ朝食を食べようというその時になっても姿を見せなかった。どうしたものかと顔を曇らせる利彦だったが、堀田の声は冷たかった。
「大方寝坊でもしたのか、あるいは二日酔いなのでしょう。彼は飲み会のあった次の日は研究室に来るのも遅れるほどですからね。放っておいても問題ないと思いますよ」
「ですが二日酔いになる程飲んでいたわけではありませんし、やはり見てきます」
「私もいくわ」「僕も行こう」という妻と親友の申し出を利彦は一瞬迷ったようだったが結局今度は断らなかった。
「彼のためにそこまでしなくてもいいと思いますけどね。ま、そういうことなら私と堀田さんはゆっくり朝食を頂いているのであなた方だけでどうぞ」
憎んでいる三田村だけでなく、私たちまで嘲るような海馬の言葉に少しばかり腹が立ったけれど、相手にしていても仕方がないと思い直しロッジを出た。
嵐の去った空の下はやはり本当に静かだった。少し薄気味悪い程だ。何か不吉なことが起こるのを暗示するかのように。
その時私はふとあることに気がついた。もう何度もここを訪れているのに、どうして今まで気がつかなかったのか、自分でも不思議であった。
「ずいぶん深刻な顔をしているが、どうかしたのかい?」
利彦が顔を覗き込んでそう云ってきたので私は慌てて「なんでもない」と首を振った。
何となく人に話すことは躊躇われたのだ。
今になって思えば別に大したことではなかったのかもしれない。けれどあの時は猛烈に違和感を感じた。
どうしてこの桜村には動物の姿がないのだろう?小動物だけではない。鳥の姿さえ見当
たらないのである。沙倉山は自然豊かで、動植物の状態が非常に良いことはM県民ならば誰もが知っていることである。それなのにどうしてこの場所だけ、と湧き上がってきた疑問はたちどころに私の頭を支配した。
思えば幼少期祖父に連れられて来ていた頃から鶯一匹見たことがない。この季節、日本人ならば誰もが思い出すあの鳴き声を、この空間で聞いたことは一度もないのだ。
それは何故か――。答えはあまりにも明白なようで、それでもやはり分からない。
いったい何が動物を遠ざけているのだろう。
彼らは人間より危険を感じる能力は高いというが――。
いや、危険とは何だ。何が危ないのだ。ここはまさに平穏そのものではないか。
(――混乱しているな)
私は自分でそれを自覚し、頭を振って踏み込んだ思考を断ち切った。
「三田村くんが使っているのはここだけど……」
〈桜村〉の北側に三つ並んでいる内、最も東に位置するものが彼のバンガローだった。利彦はそのドアを何度かノックする。
「三田村くん、まだ寝ているのかい?おーい、返事くらいしておくれよ」
ノックの音は段々強くなっていったが、返事はなかった。
「おかしいな。彼、いないみたいなんだ」
「散歩に行っているだけなんじゃないかしら?」
「何も朝ごはんの前に行かなくったって……。ねえ、晴一」
「いや、彼女の云う通りかもしれない。ほら、昔から彼は自由人だったじゃないか」
利彦は腕組みをして少し考えているようだったが、やがてぱん、と手を打った。
「やっぱり心配だから森の中を少し探してみよう。万が一のことがあるかもしれないし」
私は正直行きたくはなかったし、利彦の云う万が一というのも、具体的に何を指すのか分からなかったが、一人で帰るという訳にもいかない。仕方なく頷いて森の方へ足を向けた。
それから私たちは暫く無言で歩き続けた。辺りを見回しながら進むが、三田村の姿は全く見当たらない。
昨晩の風の、およそ十分の一程度の強さしかない風が四月の森を揺らす。その音は本来心地よく感じるものなのかもしれないが、しかしその時の私には全く違ったように聞こえたのである。
その風が内臓まで揺らしているような嫌な感覚。葉が揺れる音が徐々に聞こえなくなっていき、心臓の鼓動だけが感じられる。
これも多分今朝と同じで、私の第六感が何か良くないことが起きると告げていたのだと今になって思う。そんな能力がどうして今日、目覚めたのかは分からないけれど、とにかく絶望が胸に広がっていくのを私は確かに感じていた。まだ何も目にしたわけではないというのに。
「え」
突然声を上げたのは利彦だった。私は彼が黙って指差す方向に目を向けた。
その瞬間、全身から汗が吹き出した。力が抜け、思わず膝を折ってしまいそうになる。
桜村と街を繋ぐ唯一の橋がそこになかったのである。それはつまり、私たちが沙倉山を降りられないということである。
「これは……昨日の嵐で?」
「恐らくそうだろうね。閉じ込められたんだよ、僕たちは。まさかこんなことになっているなんて」
他の二人と同様、私はその場で立ち尽くしていたが頭の中では考えを巡らせていた。
先程感じた胸騒ぎは多分、橋が落ちていることを予感したものであろう。
では起きた時に感じた異変は何だったのか。それは恐らく三田村がいなくなったことに対してだ、とすぐ結論づける。
いなくなった三田村。落ちた橋。この二つを結びつけて考えると――。
まさか、と思いながらも私は崖に駆け寄った。
「どうしたんだい、そんなに慌てて。橋がなくなったことは大変なことだけれど……」
「三田村くんは誤ってここから転落したのかもしれない」
私が云うと利彦は「そんな馬鹿な」と微かに笑って見せたが、その顔色は青かった。
しかし三人で崖の下を覗き込んでも三田村の姿はなかった。私たちは顔を見合わせ立ち上がる。
「取り敢えずよかったわね。彼のことだから、戻ってみたら元気な顔をしてパンを頬張っているかもしれないわ」
「そうだね。だが橋が落ちていることは事実だから、皆に伝えなくてはいけないな。ひとまず戻ろうか」
私たちはロッジへと戻った。その帰り道は閉じ込められてしまった不安を取り除こうと明るく振る舞った。が、しかし二人の顔にはどこか翳りがあるように思われた。恐らく私もそう見えていただろう。不吉な何かが待ち受けていることを予感していたのは、最早私だけではなかったのだ。
「あれ、小舟が……」
桜村に戻り、桟橋の近くに来た時、私は違和感を感じた。ロープで繋がれた小舟の位置が昨日と若干変わっているように見えたのだ。
私は何かに吸い寄せられるように小舟へと向かう。二人も黙ってついてきた。
示し合わせたように、私たちは小舟に乗り込んだ。
島に何かがある。
三人ともそう思っていた。
利彦が櫂を握って舟を滑らせる。この時私はもう何も考えていなかった。胸騒ぎとか、心臓の鼓動とかそんなものも一切感じず、ただじっと小島に立つ一際大きな桜の木を見据えていた。
その時、利彦が小さな声で「やはり昨夜のは……」と呟いた。それは一体どういうことかと尋ねようとしたが、丁度舟が島に辿り着いたので訊くのは止めて舟を降りる。
「あれ、あそこ何か変じゃないか?」
利彦が桜の根元を指差した。
その時私はふと気がついた。
他よりも圧倒的に美しいこの桜の木も根元は醜いのだということに。
これは一体どうしてなのだろうか、と考えていると「何か埋まっているのか?」と声が聞こえる。
――桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
「桜の樹の下には」の冒頭がふと思い出された。
何故だろう、とそんな風に考える暇もなかった。
「ひっ」という短い悲鳴。「そんな、どうしてこんな……」と狼狽える声。
私は恐る恐る彼らに近づく。そして「それ」を見た瞬間、今朝から感じていた異様な空気が何だったのか、瞬時に理解した。
利彦の云う通りどうしてこんなことになったのかは分からない。しかしそれを知っている彼は、もう何を訊いても答えてはくれない。
土に埋められた三田村の目は晴れ渡った四月の空に向けられていたが、そこにはもう光は全くなかった。
3
三田村の死はすぐに海馬、堀田にも伝えられた。彼らは大変驚いた様子を見せた。昨夜の様子を見る限り、憎んでいた三田村が死んで喜ぶのではないかと思っていたので、少し意外だった。
「それに橋も落ちていたとは……。救助がすぐに来てくれたらいいが、まあ難しいか」
「明日には下山する予定でしたから、少なくとも明後日には誰かが不審に思って警察に連絡してくれるとは思いますが……。それより海馬先生、三田村くんの死体はあのままで良かったのでしょうか」
「あのままと云われても、奥さん、私は見ていないのでね。その、埋まっていた、というのがよく分からないんだが」
「桜の根本の様子がおかしかったのが気になったんです」
俊彦が口を挟んだ。
「土を少し払うと頭部だけが見えました。こう云ってはなんですが、気味が悪くて掘り返したりはしていません。しかしあの顔は間違いなく三田村くんでしたし、息があるとは思えませんでした」
土の中から上を見上げていた青白い顔を思い出し、私は気分が悪くなった。
「死んでいるのなら私が診ても仕方あるまい。下手に弄らん方がいいだろうし……」
「でも変じゃないかね」
堀田が突然口を開いた。「何が変なのでしょう?」と私は訊く。
「三田村は埋められていたのだろう?それならば間違いなく殺人ということになる。では
その犯人はどうやって〈桜村〉を出たのだろう?あるいはまだ何処かに隠れているのか」
殺人――。それは確かに明白だった。自殺ではあり得ない。自分で命を絶った後、土に潜ることなど人間にはできないのだから。
だが私は堀田とは全く別のことを考えていた。
「しかし堀田さん。三田村君を殺した人物が外部の人間だとすると、彼もしくは彼女はいつここにやってきたのでしょう?昨晩、あるいはその前からずっとということですか?そう考えるよりは、その……」
「我々の中に犯人がいると云いたいのだろう?」
海馬の言葉に私は頷く。その方がずっとありそうではないか、と私は皆を見回した。全員微妙な顔をしている。横にいる者の顔を見て、すぐに目を逸らす。もしこの中に三田村を殺した犯人がいるのだとすれば、自分以外は信じることができないのだから、それは当然の反応だった。
「だけどこの五人のうち誰かが三田村くんを殺したなんて、そんなことやっぱり信じられません」
利彦はあくまでも外部の人間が犯人だと云いたいようだった。
それならば、と私は桜村中を見回ることを提案した。隠れている犯人がいればそれでよし。いなければ既に逃げた後か、あるいは私たちのうち誰かが犯人であるということだ。
皆その提案に賛成したので私たちは全員一緒になって桜村を回った。
五人しかいなかったのでそうする他なかったのだ。二手に分かれるとなると二人の組を作るか、或いは誰かが一人になるしかない。一人になるのは皆嫌がったし、殺人犯かもしれない人間と二人きりになるのは当然避けたかった。大人が五人で怯えながら捜索するのもどうかと思ったが、仕方なかった。
しかし結論を書けばその捜査で不審者を発見することはできなかった。つまり一緒に見回った人間の中に殺人鬼がいる可能性が高まったわけだ。
また、何か変わったものを発見できたわけでもないのでこの時のことについては省略する。というより、どこからか凶器を持った殺人鬼が飛び出してくるのではないかと、気が気でなかったので、あまり物事を観察する余裕がなかったのだ。
気がついたことといえば皆、怯えた表情をして落ち着きがなく、私同様に余裕がなかったというくらいか。
揃って暗い顔をしながらコテージに戻った後は、全く自然な流れで昨夜の行動を語り合うことになった。誰も口には出さなかったが、この中の誰かが犯人であることは明らかだったのだ。
「何をしていたかと云っても、昨夜はあの天気でしたからね。海馬さんと別れてからはシャワーを浴びて、しばらくぼうっとして、それから寝ただけですな」
「私も堀田さんと概ね同じだな」
「私は絵の修正を少ししていたくらいで、あとは特に何も」
「夫が帰ってくるのが遅かったので少し心配はしていましたけど、いつの間にか寝てしまっていたようで、気がついたら朝でした」
私たちは順番に発言していったが、とりわけ収穫は得られなかった。しかし嵐の夜のアリバイなどある訳がない。自分の行動を証明できないのも無理はなかった。
最後は利彦だった。彼は顎に手をやって首を傾げながらぽつぽつと話し始めた。
「皆さんがお戻りになったのが確か二十時頃でしたよね。それから一時間くらいかけて食器を洗って乾かして……。そうそう、テーブルを拭いている時にメビウスの箱を見つけたのです。海馬さんの座っていたところだったので、彼のところへ届けに行きました」
「そうでしたな。わざわざ雨の中すみませんでした」
「いえ、お困りになっているといけないと思って。……あ、そういえばその時に気がつい
たことが二つ」
「二つ?」
「ええ。まず、海馬さんがドアを閉められた時、ちょうどお隣の堀田さんが顔をお出しになったのです。特にお話しをしたというわけではありませんが」
「ああ、すっかり忘れていました。雨の音が酷かったので、何となく外の様子が気になりまして」
「……それで利彦、もう一つというのは?」
「堀田さんに挨拶してから僕はもう一度コテージに戻ったんだ。まだ片付けが少し残っていたからね。その帰り道、舟を漕ぐ音が聞こえたような気がするんだよ」
それを聞いて私は先程俊彦が舟で云っていたことが分かった。「やはり昨夜のは……」
という呟きはこのことだったのだ。
「勿論、雨の音の中で微かに聞こえただけだったから確信は持てないし、その時も確かめにはいかなかった。まさか本当に誰かが舟を漕いでいるとは思わなかったから、単に気のせいだろうって……」
嵐の晩のことだから、それも無理がないだろう。
「だけど舟の位置が変わっていたことを考えると、あれはやっぱり誰かが漕いでいたのだと思う」
「……するとこういうことにならんかね?つまり、三田村を殺した犯人がたった一人に絞られる」
海馬が放ったその言葉に、私たちは身を固くする。彼が何を云おうとしているか、それは分かっていたのだけれど、それでも私は聞きたくなかった。
「オーナーが小舟の音を聞く直前、私は彼と会話をしているし、堀田さんもロッジにいる姿を確認されている。犯人が三田村を埋めに行ったのはその時で間違いないだろうから、この三人は容疑者から外していいだろう。では残ったのは奥さんと藤森画伯だ。しかし考えてみてくれ。あの雨と風の中、女性が一人の男を殺して運んで埋めるなどということができたかね?答えは否だろう。天気云々より体力的にも不可能かもしれないくらいだからな。ということは犯人は藤森画伯、貴方で決まりだ」
やはり思った通りだった。
「ちょっと待ってください。藤森君がそんなことするわけないわ。まだ外部犯だっていう可能性も……」
「奥さん、それはありえませんな」と海馬が首を振る。
「昨晩は真っ暗だったでしょう?外からやってきた不審者がボート、そして小島の存在を知ってそこに死体を埋めにいくことを考えると思いますか?死体を隠したいのなら森に引きずっていく方がいいでしょう」
「でも以前ここに来たお客様の誰かが……」
「そうやって可能性の低い方向へ話を進めても何も得られません。それに、もし貴女の云う通りだとすれば、動機がまったく考えられないではありませんか。三田村と藤森さんは顔見知りでしたから二人の間に何かあったとしてもおかしくはありません」
「それとも何か?」
海馬に続き、堀田が意地悪そうな目をして云う。
「咲良さん、あなたはご自分に犯行が可能だったと云いますか?海馬さんがおっしゃったように、大人の男を小舟に乗せ、埋めにいくというのは女性には難しいでしょう。それとも旦那さんの、舟の音が聞こえたという証言が嘘だとでも?」
「いえ、そういうわけでは……」
「でしょう?それなら犯人は藤森晴一しか考えられない。さ、弁解があれば聞かせてもらいたいもんですな」
名探偵は勝ち誇った笑みを太った顔一面に浮かべている。何か反論する手がかりはないのだろうか。
「ほら、どうしました。私の指摘が的を射ていたものだから何も云うことが出来ないのかな?ふん、そもそも六人しかいなかったのに殺人など犯すからこうなるんですよ。しかも出口は閉ざされてしまったわけだから逃げ場もない。残念でしたな」
「……動機」
「は?」
「動機ですよ。先ほど堀田さんが仰ったでしょう?三田村くんを殺す動機が私にあったか
もしれないと」
「ええ、確かに云いましたが、それが何か?」
「あるかもしれない動機より、確実に三田村くんを恨んでいた人のことを考えませんか?そちらの方がずいぶん現実的だと思います」
「それは私と堀田さんのことを云っているのかな?確かに私たちには三田村を殺すだけの動機があるし、実際いつか殺してやりたいと思っていたよ。でもそれは実行しなければ何の罪にも問われない」
「私たち二人には鉄壁のアリバイがありますからね。二人で協力すれば誤魔化せるものではありませんし、オーナーと三人で謀って、などとはまさか云わないでしょう?」
それはない、と断言していいだろう。私の知っている羽柴利彦は人殺しはおろか、嘘をつくこともできない人間なのだ。
するとその利彦が久しぶりに口を開いた。
「やっぱりやめましょう。ここでどれだけ話し合ってもあまり意味はないようです。私や咲良からすれば晴一が人殺しだとは思えませんし、お二人に犯行が不可能だったこともまた事実です。警察の捜査を待ちましょう」
その言葉で淀んでいたロッジの雰囲気が若干軽くなる、などということはなかった。
少し一人になりたくて私はトイレに立った。その背後で海馬と堀田が何か囁いているのが聞こえたけれど私はそれを無視する。彼らの様子にいちいち気を払っていてはこちらが腹を立てるだけだ。
小用を足して戻ってくると利彦が昼食にしようか、と立ち上がるところだった。いつの間にか十二時を回っている。食欲は全くなかったけれど、結局朝は何も食べていなかったし、このまま空腹でいるのも精神衛生上良くないと思って彼に賛成した。
利彦が準備をしてくれている間、私たちは誰も立ち上がらず各々物思いに耽っていた。私はというとあの桜の木を思い出していた。
風に揺られ美しく舞っている花びら。他のどんな桜よりも大きく広がった枝。視界いっぱいに広がる桃色――。
しかし次の瞬間、私の目線は急降下する。映し出されるのは節くれだった幹。花からは想像もできない醜い根元。――そして三田村の頭部。
血の気のない、人間のものとは思えないその顔。見開かれた目はどんよりと濁り、唇は青白く、冷たい。
今更ながら私は吐き気を催した。慌てて口を押さえ、先ほど行ったばかりのトイレにまた駆け込む。便座が上がっていることを確認し、そのまま嘔吐した。そしてその場にしゃがみ込む。
どうして私があんなものを見なければならなかったのか。私が何をしたというのだ。
何故思い出を、幼い頃から心の中にあった思い出の桜を汚されなければならない。
いや、それは私の思い違いなのかもしれない。
桜は元々醜い。
私がその事実に気づいていなかった、あるいは目を逸らしていただけなのか。
――桜の樹の下には屍体が埋まってゐる。
それは今私の前で現実となった。しかし、以前も同じようなことがあったのかもしれない。あの桜は人間の死体を養分として吸い上げて、その美しさを保っていたのだ。
もうそうだとしか思えなかった。私はなんと愚かなのだろう。そうだと知らずに、あの木を別世界の光景だとか、そんなことを考えていたなんて。あの桜に近づこうとさえしない動物たちの方がよっぽど利口だったのだ。
「大丈夫かい?」
トイレに駆け込む私の様子を心配したのだろうか、利彦がドアの向こうから声を掛けてくれた。それに対して「もう大丈夫」と返し、立ち上がる。ゆっくりとドアを開けると俊彦の顔がすぐ側にあった。
私は意図的に彼を見ないようにして自分の席に戻る。そうでもしなければ人目も憚らず泣き出してしまうのではないかと思ったからだった。
それからのことはあまり覚えていない。本当は利彦たちとゆっくり花見でも、という予 定だったのだけれど、当然そんな気分にはなれなかった。桜の姿さえ見たくなかったし、外にも出ずにいた。
図書室に行って本でも読もうかとも考えたけれど、あそこには今、三田村の死体が眠っているあの桜をモデルにした絵が飾られている。ドアの前に立った瞬間、そのことを思い出して本を読むことも諦めた。
こうして私は半日をロッジの中でぼんやりとしていた。特に何かを考えるということもなかった。もう思考することさえ億劫だった。
他の人がどうだったのかはわからない。利彦を始め私以外の人間は皆外に出て行った。
自分のバンガローに戻った者もいるだろうし、あるいは桜を眺めていた者もいるかもしれない。私にはその神経は判らないけれどそれは人の自由なのであるから何も云うまい。
ただ、その間に事件に関する何か重大なことが起きていたとしても私の目には止まっておらず、故にここに書き記すことはできない。記録を残すと謳っておきながら情けないことではあるが、見ていないのだから仕方がない。
例えばこの時犯人が証拠隠滅を図っていたならば――。
それを目撃できなかったことは悔やまれる。だからこそ、今こうして落ち着いて事件の謎について考えているのかもしれなかった。
とにかく、今日の午後の記録はあまりない。そのあとの夕食についてもほとんど誰も話さず終わった。
そして今夜は嵐ではなかったが、早めに自室に引き上げようということになった。
海馬と堀田が小さな声で「一介の画家が……」「芸術家というのは……」と話していた後で、その「芸術家」を見ながら「戸締りには気をつけよう」と云ったのには腹が立ったが、彼らからすれば、それも仕方がないのかもしれない。
今日も後片付けは一人でやると云った利彦を残し、皆バンガローへと戻る。
私はシャワーを浴び、ベッドに寝転んだのだけれど、どうしても寝られず、この記録を書き始めたのだった。
しかし、今日はここまでだ。
私は自分が犯人ではないことを知っているし、アリバイや人柄を考慮すると、他の四人の中に犯人がいるとは思えない。
そんなことばかり思っていると、少し疲れてしまった。
だが、そもそも私に犯人を突き止めることなどできるわけがないし、だからこそ、こうやって記録を残そうと思ったのだ。明日か明後日になれば警察がやってくるし、そうすれば事件は一気に解決するかもしれない。
今はそれを願って筆を置こう。
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