第二章


        1


 桃色の空気――いや、これは霧だ。不確かな足取りで私は進む。これは現実ではない、夢を見ているのだいうことには気づいていた。

 しかしそもそも人は夢と現実の区別をどうつけているのだろうか。今自分は目が覚めているとどうして云えるのだろうか。現実だと信じて疑わない世界が、本当は夢であるかもしれないではないか。そのことに気がついた時に漸く目が醒めるのかもしれない。そうではないとどうして云える?

――普段考えないそんなことが、流れるように頭に浮かんでくるここはやはり、夢の世界なのだろう。

明晰夢の中では人は自由に創造できるという。自分の姿も他人の姿も、ひいては世界のありようだって支配することができるそうだ。

だが今私が夢だと認識しているこの世界では、一つも思い通りにならなかった。

 できればこの霧の中を歩きたくない。でも足は動く。

 こんな霧は一刻も早く晴れてほしい。そう思っても、凝結した水蒸気は私にまとわりついてくる。

 いったいどうなっているのだ。私はこんな夢を見ることを望んではいない。早く目覚めて元の世界に戻りたい。

それなのに足は止まらなかった。何を目指しているのかさえ分からないというのに。

 と、その時、頬に生暖かい風を感じて立ち止まった。心地良いものではない。けれども視界は広がり、進むべき道が示される。

私は再び歩みを進める。もはや止まりたいとさえ思わなかった。

このまま自分の夢に従うほかない。

 しばらくすると水の匂いがしてきた。それを感じた瞬間、目の前に小さな突堤桟橋が現れる。そこには一艘の小舟が浮かんでいた。

(あれ、確か二艘あったはずじゃないかしら)

 なぜそう思ったのかは分からないけれど、私は何者かに導かれるようにして舟に乗り込み、艪を握る。

 小舟は水面を流れるように進んだ。想像していたよりも滑らかに。

 緑色の水面は微かに揺れていた。意外にもうまく艪を操ることができたのは、夢の中だからだろうか。

ひねりを加えて左右に動かし、揚力を生み出す。

それだけの動作を五分ほど続けても全く息が上がらなかった。

 そして私は小島についた。中央には大きな木が立っている。その木には花が一つも咲いていない。けれども桃色の霧がかかっているため、それはさながら桜のようだった。

(どこかで見たことがあるような……でもいつ、どこで?)

 風がまた吹く。その風が去っていった直後、私はどこからか視線を感じた。誰かにじっと見つめられている。

 じとっ、とした嫌な感じがしたので私は慌てて辺りを見回した。

 しかし誰もいない。

気のせいだろうか。

 否、私は確かに視られていた。

 ふと下を向いたとき目に入ったもの――土に埋まって私を見上げている、それは紛れもなく人の顔だった。

 会ったことのない男の顔。皮膚は黄土色に変色し、目はかっと見開いたまま動かない。

 何故知らない男が出てくるのか不思議だったけれど、それでも何処かで見たことがあるような気がしないでもない。

しかし、そんなことを云っている場合ではなかった。

死体を見るのは初めてなのだ。瞳孔は開き、口は半分開いている。

 見えるのは頭部だけだったけれど、土の中にある胴や手足もきっと血の気がなく青白いのだろう。

 怖かった。

 叫び声こそあげなかったものの、足の力が抜け、ふらふらと後ろに数歩下がる。

 すると頭に何かがぶつかった。ゆっくり振り向くと――。

 二つ目の死体がそこにあった。

 別の男が木に吊るされている。こちらも会ったことはない。が、やはり似た人を見たことがあるような気はする。

 その男は首を絞められ、顔は紫色に膨れ上がっていた。それなのに、この場所で死ぬことができて幸せだと云わんばかりの笑みが、そこにはあった。

 自ら死を選んだのだろうか。生きるという当たり前の営みに疲れ、安らぎを求めてここで首を吊ったのだろうか。

 そう思わせる喜びが溢れていた。

 しかし、彼がいくら幸せでも、その身体はもうこの世のものではない。この桜の木を通じて死の国へ行ってしまったのだ。

 私は急に怖くなり、一刻も早く帰ろうと思った。

 その瞬間だった。

 紫色の顔がゆっくりと持ち上がり、その目が見開かれる。

 血走った目には何も映らないはずなのに。

 そう思ったが、彼には目が見えているようだった。誰かを探しているのか、左右に首を振っている。

 そして私を見つけると青白い唇を歪め、にたっと笑った。

 限界だった。

 私は初めて悲鳴をあげた。


  




         2


 私は自分の悲鳴で目を覚ました。

勢いよく起き上がり、辺りを見回す。

 窓から眩しい日差しが差し込んでいた。静かな朝だ。ありがたいことに、嵐は夜のうちに過ぎ去ったらしかった。

 自分が肩で息をしていることに気がつく。私はベッドの上で深呼吸し、それから洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗い、いつもと同じように髪を後ろで結ぶ。鏡に映った自分の姿を見つめながら、私は夢の内容を反芻した。

 昨日寝る前に妙なことが頭に浮かんだから、あのような夢を見たのだろう。悪夢に魘されるのは久しぶりだった。

 外に出て深呼吸をする。春の朝の、ひんやりとした空気が肺に流れ込んできて心地良かった。

 まだ七時半過ぎだったけれど、羽柴夫妻はメインロッジにいるかもしれない。頭をすっきりさせるためにオーナー特製のコーヒーを貰おうと、歩き出す。

 そよ風が吹き、芝が揺れている。そんな穏やかな朝なので、鳥の鳴き声が聞こえてもおかしくはないと思うが、〈桜村〉は静寂に包まれていた。そういえばここに来てから鳥や小動物の姿を見ていない。私はふとそのことに気がつき、不気味なものを感じた。彼らが寄り付かないのはその本能でわかっているからではないだろうか。ここが実は死と結ばれた冷たい場所だということに――。

 いけない、と頭を振る。まだ夢が頭から離れていないようだ。現実はもう始まっているのだ。

 歩きながら、桜は思ったよりも残ったなあと安心する。無論、多くは散ってしまったのだけれど、それでも大量に咲いていた内の半分近くが無事なようだ。どの木もまだ十分に美しかった。

 ――あの木は?

 ふとそう思った。

 どうしてそんな考えが浮かんだのか、まっすぐメインロッジに行ってコーヒーを貰わなかったのか、自分でもわからない。私はひょっとすると何かに導かれていたのかもしれない。そう、ちょうどあの夢のように……。

 円形に並んでいる木の下を通って湖に近づく。緑色に濁った水面の上には、昨日よりも遥かに多くの花びらが浮かんでいた。

 その光景は綺麗――なはずだった。

 視線を上げて、湖の中央の小島に目をやる。視力はいい方ではないけれど、「それ」ははっきりと見えた。

「それ」は〈桜村〉の中でも一際大きな木に吊るされ、微かな風で舞う桜の中で静かに揺れている。

 ああ、そんな……。どうして、なぜ……?

 一瞬そんなことを考えたけれど、それ以上思考は進まなかった。

 気づけば私の耳には今日二度目の悲鳴が鳴り響いていた。

        3


「玉木さん、大丈夫かい?何があったの?」

「ああ、やっぱり彼女の声ですよね。随分と大きな悲鳴でしたけれど……」

 聞き慣れた二人の声がする。こちらに走ってきているようだったけれど、私は振り向くこともできなかった。

 やがて優しい手が私の肩に置かれる。守野さんの手だった。

「どうしたんだい?外に出た途端、悲鳴が聞こえたものだから……」

「守野さん、あれ……」

 まだ口を開くことができない私の代わりに水澄くんが小島の方を指差した。

「あれは……まさか。一体どうなっているんだ?」

 狼狽える守野さんを初めて見た。しかし無理もないと思う。

 私はようやく話せるようになったので説明した。

「メインロッジに行こうとした時、ふとあの桜の様子が気になって見にきたんです。そうしたら――」

 後半は言葉にならなかった。今、気を緩めてしまったら涙が出てしまうだろう。

「そうか……。しかしあれは誰なのだろう?確かめる必要があるね。警察にも連絡しなくちゃいけない」

「あの、救急車は……」

 すると水澄くんがゆっくりと首を振った。

「もう生きちゃいないよ。あれは、死体だ」

 それは私にもわかっていた。見た瞬間、もう生きたものではないと判ったし、だからこそ恐怖を感じた。

 でもそれが事実だとは認めたくなかった。

 誰かがあそこで首を吊ったなんて――。

「玉木さん、水澄くん。皆に知らせてくれないかい。特に海馬さん、袴田さんには小舟で来るよう伝えて欲しい」

「守野さんは?」

「僕は一人で見に行ってくるよ」

「一人で、というのは少し……」

「ああ、まあそうだね。じゃあ悪いけれど水澄くん、君はついてきてくれ。玉木さんは一人で大丈夫かい?」

 私は無言で頷いた。守野さんはそれ以上何も云わず、水澄くんと舟に乗り込んで小島へと向かった。

 私は云われた通り、皆のバンガローのドアを叩いて回った。海馬はすぐに出てきたので手短に説明し、見に行ってもらうよう頼んだ。

「死体?あの木にかい?一体どういう……」

「ですから、誰かが首を吊っているのです。海馬さんはお医者さまですから」

「ああ、そうだが……うん、わかった。とりあえず行ってみよう」

 私はすぐに他の者も起こしに行った。堀田、三田村、藤森も眠そうにしながら出てき

た。彼らには事情を説明している暇はない。皆不思議そうにその場に突っ立っていた。

 袴田は私の言葉に驚いた様子だったが、刑事らしく急いで桟橋に向かって行った。

 最後はオーナー夫妻のバンガローだ。夫か妻のうち片方がもうこの世にはいないことに

なる。それがどちらなのか、私にはわかっていた。あれは女性には見えなかった――。

 ノックをしても返事はなかった。もう一度叩いてみるが誰も出てこない。

「私たちを起こして回って、一体どういうつもりかしら」

 振り返ると藤森、そして堀田と三田村がこちらにやって来ていた。

「大変なんです。オーナーが、博樹さんが首を吊っていて。それで美琴さんを起こそうとしているのです」

「何ですって?そんなこと……」

「首を吊っているって、一体どこで?」

 三田村の問いに私は早口で答えた。

「あの木です。小島の……」

 それを聞くやいなや藤森が駆け出した。三田村と堀田はその姿を目で追うだけで動こうとはしない。

「美琴さんならもうロッジにいると思う」

 堀田が聞き取りにくい声で云った。そういえばそろそろ朝食の用意をしているはずだ。 

 私はロッジへと急いだ。堀田と三田村も後を追って来る。

 私は何も考えずに走り、白いドアを思い切り開けた。

「あら、皆さんおはようございます。ごめんなさいね、主人が見当たらなくて私だけで準備しているものですから、朝食は少々遅くなります。一体どこに行ったのかしら……」

 首を傾げる美琴さんに私は何も云うことができなかった。羽柴夫妻には昨日会ったばかりだったけれど、その仲が睦まじいことはよくわかっていた。だから事実を伝えるのが躊躇われたのだ。

「とりあえず彼らが帰って来るのを待ちましょう」

 三田村が小さく云った。

 彼ら、というのは守野さん、水澄くん、海馬、袴田、藤森のことである。五人は今、死体を目の前にして何を思っているのだろうか。

 私はこれ以上立っていられなかったので椅子に腰掛けた。昨日夕食を食べた場所だ。あの時はこんなことになるなんて思っていなかった――。

「あの、どうなさったのですか?」

 ただ一人、夫が亡くなったというのにその事実を知らない美琴さんがキッチンから尋ねてきた。けれど何が起こっているのか、それを彼女に説明することなど私にはできない。

三田村も堀田もそれは同じようだった。守野さんたちが帰ってきたら誰かに辛い役目を引き受けてもらわなければならない。

 それから十五分程すると彼らが帰ってきた。海馬を先頭にロッジに入ってくる。皆の表情は重かった。

 医者は首を振りながら私たちの方へ歩み寄ってきた。

「だめだ。もう死んでからかなり時間が経っていたよ」

「死んでから?誰が死んでいたというのです?まさか――」

 美琴さんの声に海馬は驚き、そしてこちらに目をやる。私は彼から視線を逸らした。

「まだ伝えてなかったのか……。美琴さん、大変申し上げにくいのですがご主人は――博樹さんは首を吊って亡くなっています」

「そんな……。ひょっとして、何かの冗談でしょうか?」

 そう訊く美琴の声は震えていた。海馬は彼女にゆっくりと、やさしく説明する。

「冗談ではありません。残念ですが先ほど確認してきました。小島の桜に――」

「嘘……嘘だわ。そんなことあるわけが……ああ……あなた……!」

 美琴さんは後ずさり、机にもたれかかったかと思うと次の瞬間ドアをめがけて駆け出した。すぐに袴田が後を追いかける。

 守野さんや水澄くん、海馬は一瞬迷ったようだったが、彼らは私たちと同じように席に着いた。皆の口から自然と溜息が漏れる。

「彼が自殺するとはね……。いや、正直驚きましたよ。久しぶりに会ったのですが、以前と変わった様子はなかったですし。しかしこうなった以上、山を降りて警察に連絡せねばなりませんね」

 それを訊いた瞬間、私は猛烈な不安を感じた。鼓動が早くなるのがはっきりとわかる。

 頭の中には昨日抱いた思いが蘇っていた。

(橋が落ちたらここは陸の孤島になる……)

 あの頼りない橋が強風で崖の下へと落ちていく光景は容易に想像できた。今日は「まさかそんなことはないだろう」と云うことはできない。

「警察を呼ぶ前に遺体を運んであげませんか?あのままではあんまりでしょう」

 三田村は顔を両手で覆ったままそう提案した。昨日の快活さは微塵もなかった。

「それはできないと思うよ、三田村くん」

 海馬が残念そうに首を振る。どうしてだろう、と私は思う。三田村の云う通り、いつまでも木に吊るされたままの状態にしておくのは忍びない。

「自殺の場合でも警察は呼ばなければいけないことになっているんだ。そして現場は可能な限り保存しなければいけない。そうでないと後々の捜査に支障をきたすからね。写真を撮って、一旦木から下ろしたが、下手に動かさない方がいいだろう」

 医者という職業上、そのような知識も持っているのだろう。しかし私には彼がそう云う理由はよく判らなかった。

「明らかな自殺なのですから捜査も何もないのでは?それにここには袴田さんもいらっしゃいます。彼に確認してもらえば……」

「刑事一人ではどうしようもないだろう。鑑識さんや他の刑事たちも来ないことにはね。それに袴田さんも遺体は動かさないようにと云っていたよ」

「そうですか……。でもすぐに山を降りれば今日中には警察もここに来ますよね。それなら焦ることもないかもしれない」

 三田村は納得したようだった。だけど私はやはり何か引っかかっていた。論理的な説明はできない。だけどどうしても数時間後に警察がここへやってくる光景が想像できなかったのだ。

 その時玄関のドアが再び開いた。皆、そちらの方を振り返る。美琴さんが袴田に引付き添われて戻ってきた。彼女は椅子に座らされても、ぼうっと宙を見つめている。

「彼女、随分取り乱して。泣き喚いていたんですけど何とか宥めて連れてきました。今はご覧の通り、茫然自失といった感じで」

 美琴さんの姿は正直見ていられなかった。最愛の夫を失ったショックからか、この数分でかなり老けてしまったようだった。顔には生気が全くない。

「袴田さん、警察を呼ばなくてはなりませんよね」

 腰を下ろし、皆の前で昨日は吸っていなかった電子煙草を加熱し始めた袴田に守野さんが云った。

「ええ。その必要性はあるでしょうね。俺一人ではどうしようもありませんから。それにあいつの死が、我々が考えているようなものではないかもしれない」

「自殺ではない、ということでしょうか」

 それを聞いた袴田は一度煙を吐いた。それから守野さんの方へ向き直る。

「ええ、あなたの云う通りである可能性はあります。彼の友人として、自殺するとは考えにくいと云わざるを得ない」

「すると、殺人事件ということですか?確かに私も博樹さんが自殺するとは思えないが、しかしそんな……」

 海馬が震える声でそう云った。

 それにしても殺人とは……。私は自分でそう考えておきながら、「殺人」というその言葉に身震いした。

 誰かが、オーナーを殺した。何故、そして何のために?

 私は自分が突然巻き込まれたこの状況に軽い目眩を感じた。

「自殺だろうと殺人だろうと、とにかく警察は呼ばなければなりません。今すぐ山を降りましょう」

 袴田はそう云って立ち上がった。急いで煙草を仕舞い、私たちを見回す。

「どなたか一緒に来てくれませんか。俺は博樹の車で来たものでね」

 袴田の願いに対し、守野さんが「それなら私が」と申し出た。すると「ぼくも行きましょう」と水澄くんが手を挙げた。ここにいても仕方がないので私も行くことにする。

「では行ってきます。海馬さん、彼女のことよろしくお願いします」

 美琴を指差して袴田が云うと海馬は「任せなさい」と頷いた。美琴さんはまだ呆然としている。彼女の顔を見て私は胸が締め付けられるように感じた。

 その時ふと三田村と藤森の様子がおかしいことに気がついた。二人とも押し黙って何度も溜息をつき、不安げに辺りを見回したり、頭を振ったりしている。

 しかし自分たちが知る人物が自殺した、もしくは殺されたのだから当然の反応なのかもしれないな、と思った。むしろ昨日とさほど変わりない堀田がおかしいのかもしれない。彼は今の状況にはさほど興味がないといった様子で、自分の掌をじっと見つめていた。

 だが玄関に向かう途中、背中で聞いた彼の声がしばらく忘れられなかった。

「車まで到達できるといいんだけどねえ……」


        4

 

 私たち四人は昨日通った細い道を行く。元々歩きにくかったのに、昨日の雨でぬかるんでいるため足元は最悪だった。

「刑事さんはやっぱりすごいですね。こんな時でも冷静に行動できている」

 後ろを歩く水澄くんが突然云った。彼としては素直に感心したつもりだったのだろう。実際袴田はこの非常事態において私たちとは違う行動力を見せていた。

 しかし、張り詰めていた袴田の顔は水澄くんの言葉を聞いた途端、崩れ去った。大学来の友人を失った悲しさを思い出したのか、泣きそうな表情を浮かべる。

 それを察知して守野さんが「水澄くん」と小声で諌めた。水澄くんも「すみません」と謝るが袴田の耳には届いていないようだった。

 きっと彼の心は混沌としており、とても話ができるような状態ではないだろう。友が死

んだのは何故かという疑問、胸が張り裂けるような悲しみ……。

 それらを押し込めるために刑事の職務を遂行しようとしているのではないか、と私は勝手に想像した。

 気の重い沈黙がしばらく続いたが、それを破ったのは袴田であった。

「勿論博樹の死はショックだった。美琴の嘆きようもだ。あれだけ取り乱した姿を見たことがなかったからなあ。……だけどいつかこうなるかもしれないとは心の何処かで思っていた」

 私は驚いて彼を見る。後ろの二人も今の発言が気になったようだ。「どういうことでしょうか」と守野さんが問いかける。

「呪われているんですよ、〈桜村〉は。もうずっと前から死に取り憑かれているんです」

 刑事の口から「呪い」という言葉が出たことが私をまた驚かせた。それがどういう意味かということよりも、何故そんな表現を使ったのかということの方が気になる。

 私たちが何も返さないでいると、袴田は再び口を開いた。

「ああ、そういえば昨日は結局見ずじまいだったのでしたね。……博樹の母、咲良さんの手記ですよ」

「それがどうかしましたか?」

「あれに三十二年前の事件が記されているということは聞きましたよね?あれを読んだとき、博樹はいつか全てが崩壊してしまうと感じたそうです。大袈裟な言葉だけど酷く酔うと、あいつはいつもそう云っていましたよ。――あいつの死がその崩壊と関係があるのかどうかは俺にはわかりませんけどね」

「もし博樹さんの死が自殺だとしても、その動機とは繋がらないようですね。自分の予感を現実のものにするために死を選ぶ、ということは考えられない」

「ええ。それはもちろんそうですが……」

 それから私たちは無言で歩いた。道が歩きにくい分、昨日よりかなり時間がかかった。

 出発して二十分ほど経った頃、ようやく視界が広がった、と思った瞬間、袴田の口から呻き声が漏れた。

「橋が……ない」

 それを聞いた時、私は自分がふらつくのを感じた。

 そんな……。あれは私の妄想で……。

 男三人は私を残して橋があった所に駆けていく。それをただ呆然と見ていることしかできなかった。

「これは……昨日の風で落ちたのでしょうか。どう思います、袴田さん」

「これだけ跡形もなければ何とも云えませんね。偶然落ちたとも考えられますし、あるいは……」

 そんな会話がぼんやりと聞こえてきた。守野さんと袴田がしゃがみながらその後も何か話しているのは聞こえたし、水澄くんが立ったまま黙って崖の下を覗き込んでいるのも見えた。

 しかし体を動かすことは叶わなかった。自分の状態はよくわかる。

 私は今、恐怖していた。

 ふと心を掠めた嫌な予感が今、現実のものとなった。陸の孤島に閉じ込められてしまっ

たのだ。これが誰かの仕業なのか、それとも〈桜村〉の――いや、あの禍々しい桜の木の

呪いなのだろうか。

 私は後者の可能性を否定できず、身震いした。

 

        5


 ダイニングテーブルを囲む私たちの顔は暗かった。美琴さんは何とか茫然自失の状態から抜け出し、全員分のトーストを用意してくれていた。私たちは遅めの朝食を無言で摂った。話し合うべきことはたくさんあったが、とりあえずお腹に物を入れてから、ということになったのだ。

 当然のように食欲はなかったので、少しずつパンをかじる。絶妙な焼き加減のトーストと自家製だという苺ジャムが、今は全く美味しくなかった。

 私たちがおかれた状況について、特に何かを考えることもできなかった。不気味に揺れるあの死体を発見したのは、もう二時間も前のことだけれど、まだ恐怖で頭がぼんやりとしている。その上、橋が落ちて閉じ込められてしまったことで現実感の希薄はその程度を増していた。

 もう温くなったコーヒーを口に含む。亡くなったオーナーが拘っていたというこのコーヒーもやはり美味しく感じなかった。

「状況を整理しておいた方がいいでしょうか」

 皆が食事を終えたのを見て、守野さんが口を開いた。誰も反応を返さなかったが、守野さんはそれをイエスと取ったようだった。

「まず、この〈桜村〉は閉ざされた空間となってしまいました。山を降りることもできなければ、外部と通信することもできない。このことはかなり大きな問題でしょう。博樹さんのことを通報することはおろか、私たちもいつ帰ることができるか判らなくなってしまいました」

 橋が落ちていたことはもうすでに伝えてあった。それは皆にかなりのショックを与えたようだった。あれだけ口数の多かった海馬も先ほどからは俯き加減で黙っている。三田村や藤森も不安をはっきりと顔に出していた。

 冷静だったのは堀田くらいだろうか。彼は守野さんの報告を受けても「あ、そう」とだけ答え、顔色を変えなかった。きっと、興味があること以外はどうでもいいことなのだろう。変人、といってしまえばそれまでだけれど学者にはそういう人が多いことを私は知っている。守野さんのようにまともな人の方が少数だろう。

「こんな時代にクローズドサークルとは……。しかし実際閉じ込められると、随分心細いものだね」

 私の隣で水澄くんが小声でそう呟いた。私も声を顰めて尋ねる。

「それ、何?」

「ミステリ用語だよ。外界との連絡が途絶えた状況で事件が起こるんだ。警察の科学捜査

が介入できないから、簡単に犯人を特定することができない。種類はいろいろあるけど、今回の吊り橋が落ちるというのはまあ定番だね」

 私はそれを訊いて驚いた。何だか水澄くんがこの状況を楽しんでいるようには思えたのだ。ここに来る前に彼に抱いていたイメージが、崩れ去っていくのを感じる。

 透き通るような美しいその白い肌が、今はなんだか怖かった。

 私はそこで、水澄くんの台詞に違和感を覚えた。

「水澄くんはあれが殺人だと思っているの?確かにその可能性もあるけれど、自殺かもしれないんだし……」

「そうかな?少なくとも僕は、博樹さんがあんなところで首をくくるとは思えない。自殺するにしても、山の中とか、人目につきにくい場所を選ぶんじゃないかな」

 博樹には昨日会ったばかりだったが、あの穏やかな人柄を考えると、確かに水澄くんの意見には頷けるところがあった。

 しかし殺人だ、と決め付けたくはなかった。ニュースでよく聞く言葉ではあるけれど、それが自分の周りで起きるなどとは想像もできなかったのだ。

「第一、昨晩は嵐だったんだ。わざわざボートを漕いで小島に向かうかな。なんらかの意味――つまり何かのトリック、もしくは動機に関する理由があると考えた方が自然だと思う。他にも、彼が自殺した夜に橋が落ちるというのも何だかね」

「それは嵐で――」

「うん。もちろんその可能性は十分あるし、実際にそうだったのかもしれない。だけど、誰かが博樹さんを殺害して、そして橋を落とそうとした、という方が『形』として正しいような、そんな気がするんだ」

「形」とはどういうことなのか、尋ねようとすると、私たちの会話を聞いていたらしい守野さんが、

「その点についても考えておかなければいけませんね」

 そう云って袴田に視線を向けた。

 袴田はとうに空になっているカップを持ったまま静止していたが、守野さんに名前を呼ばれてはっと我にかえったようだった。

「ああ、そうですね。すみません……」

 親友を失ったショックからやはり立ち直っていないのだろう、と想像した。刑事であってもその悲しみから容易に抜け出せるはずがない。

「自殺か他殺か、ということですが私は他殺だと思っています」

 その言葉に私はどきっとする。

「友人として、やはり彼が自殺するとは思えない、というか思いたくない。誰かに殺されたという方がよっぽど信じられる。そしてその犯人が吊橋を落とし、我々が警察に連絡できないようにした。――そんなところでしょう」

 誰も彼の言葉に異を唱えなかった。皆もこれは殺人だと思っているのだろうか。

「……そういえば海馬さんは先ほど彼の遺体をご覧になっていましたよね。例えば首の締められ方などから自殺か他殺か、判断がつかないものなのでしょうか」

 守野さんの問いに、海馬は少し目を伏せて答えた。

「医者といっても、ああいう死体を見るのは稀ですからな……。専門的な知識があるわけでもありませんし。ただ、自殺にしては痕が少しくっきりとしすぎていたような気がします。しかし、断言はできません。あの時は自殺したものだと思い込んでいましたから」

 それも無理はない、と思った。殺人ではないのかと最初から疑うことなど、できないだろう。

「ですが袴田さん、警察に連絡できないようにするというのは、それほど大事なことなんですか?いつかは明らかになるというのに……」

 私は先ほどから疑問に思っていたことを訊いてみた。

「科学捜査を遅らせるというのは思っている以上に、犯人にとって有効となる場合があるんだ。例えば死亡推定時刻一つとってみても、警察の捜査がなければ幅を大きく取らなければならない。そうすればより多くの無実の人にも疑いがかかるようにできる」

「袴田さんのおっしゃる通りですね。私と彼がこの場で検視を行なったところで、正確には絞り込めないでしょう。一応後でやってみますか?」

「何か判るかどうかは微妙なところですが、やらないよりはましかもしれませんね。ある程度処理できれば、どこか屋根のある場所に移してやってもいいでしょうし」

「では後で行きましょう」

「ちょっといいかい」

突然口を挟んだのは堀田だった。

「あと二つほど、考えなければならないことがあると思うんだが」

「二つ、ですか?」

 きっと守野さんはそう訊き返している間に堀田の云う可能性について考えを巡らせてい

るのだろう。私も彼が何を云いたいのか考える。しかし答えは浮かばなかった。

「犯人が橋を落としたと仮定した場合だが、警察の介入の遅延以外にも意図があるのではないかな」

 どもった声で、堀田は云った。私はまだ彼の云いたいことが分からなかったが、水澄くんは違ったようだった。

「つまり、犯人はまだ殺人を犯すつもりではないのか――そういうことですね?」

 堀田は満足げに頷いた。

「連続殺人ということか……」

 袴田の言葉で皆の体がびくっと震えた。

 連続殺人――。

 一人が死んだだけでもショックなのに、この上さらに事件が起きるというのは想像もしたくなかった。しかし、堀田の指摘がもっともだったので、想像せざるをえなかった。

「そしてもう一つ。犯人はいったい、この中の誰なのかということだ」

 私が考えようともしなかったことを堀田は云ってしまった。多分他の人も想像さえしていなかったに違いない。

 この中に、殺人犯がいる。

 もしそうなら非常に危険だ。私は思わず皆の顔を見回した。三田村と藤森は相変わらず俯いているし、他の者も緊張感と不安が入り混じった表情だ。その心の内を読み取るのは私にはできなかった。

「あなたは私たちを疑っているのね」

 若干の沈黙の後、ようやく藤森が顔を上げた。その目はきつく、まるで堀田を睨みつけているようである。

「そんな怖い目で見ないでくれ。私は自殺ではなかった場合に、という話をしているつもりだ。それならば、至極真っ当な疑いじゃないか」

「例えば外から忍び込んだ人間が、橋が落ちる前に逃げた、とも考えられるわ」

「嵐の中、山を登って人を殺し、降りていったとでも?」

「昼間のうちに忍び込んで、犯行後はどこかに身を潜めているかもしれないじゃない」 

 博樹を殺害した人間が〈桜村〉のどこかに潜んでいる姿を想像し、思わず声が出そうになった。堀田はそんな私にお構いなく、やれやれと首を振る。

「現実的とは思えないな。それとも君にはやはり、心当たりがあるのかね」

 その返答を受けた画家の目からは、もう明らかに相手に対する敵意が込められていた。

 一瞬微妙な、張り詰めた空気が流れた。袴田と海馬、美琴さんまで堀田を睨め付け、三田村は藤森を横目で見ている。

 堀田の発言の何がいけなかったのか、私には分からなかった。どうして藤森に心当たりがあると思ったのか、それは〈桜村〉の関係者たちしか知らない理由があるのだろう。

「ああ、いや今のは良くなかったかな。うん、謝るよ」

 堀田が素直に頭を下げたのでその場は収まった。藤森は不愉快そうに堀田を一瞥してから頬杖をついてそっぽを向いた。

 それを見て袴田が一つ咳払いをし、話を戻した。

「まあ堀田さんが云われたように、部外者が嵐の晩に山を登ってきて博樹を殺害したとは考えにくい。一方で、藤森さんの意見も十分あり得ることだ。とにかく警戒を怠らないようにしましょう」

 それには皆が頷いた。

 ふと横を見ると、水澄くんはぼんやり天井を眺めていたが、突然袴田に向かって、

「一つ気になる事があるのですが――」

「なんだい?」

「博樹さんの死が自殺であろうと殺人であろうと、あの木に吊るされていたということに何か特別な意味があるのではないでしょうか」

 それを聞いて、守野さん以外の皆が顔色をさっと変えたのがわかった。やはり何か、私たちの知らない事情がこの〈桜村〉にはあるらしい。

「以前、人があの桜の下に埋まっていた事があった。さらには首を吊った人もいたそうですね。そこで博樹さんも亡くなったというのは、偶然とは思えないでしょう」

「水澄さん」

 険しい声でそう云ったのは海馬だった。

「それについては今回の件と関係があるわけがないのです。昔の事件はすでに解決している。掘り返されたくない人もいるのですから、あまりその話はしないでください」

 掘り返されたくない人、というところで海馬は藤森と三田村を見た。過去に〈桜村〉で起きた事件というのは、どうやら先ほどから顔色の悪い二人に関係している事らしい。

「……海馬さん、我々はそろそろ検死へ行きましょう」

 袴田の呼びかけに海馬は黙って頷き、席を立った。

「できればもう一人来ていただけませんか。死体を降ろすのにはもう少し人手があった方がいい」

「では私が行きましょう」

 守野さんがすっと立ち上がり、三人は黙ってロッジを出て行った。

 その姿を見て私は素直に立派だと思った。私だったら死体には近づきたくもない。

 想像したくもないのにオーナーの蒼白な顔が頭の中に浮かび上がってきた。いや、首がしまって死んだのだから紫色になるのだろうか。

 そうだ、やはり紫に膨れ上がるのだ。私は今朝見た夢を思い出した。

 しかしあれは羽柴博樹の顔ではなかった。では誰の……?

 私はふと、自分が異常な思考をしているのに気がついて頭を振った。この非常事態に頭が混乱しているのだろう。

「さて、どうするか……」

 水澄くんがいきなりそう呟いたので隣に座った私は驚いて彼を見た。どうするか、といっても私たちにできることは何もないではないか。私がそう云うと、水澄くんは驚いたように見返してきた。

「黙って助けが来るのを待っているつもりかい?」

「そうする他ないじゃない。刑事の袴田さんがいるけれど、一人でどうにかなるものではないわ。心配しなくても、私たちは今日帰る予定だったんだから、誰かが気づいてくれるでしょう」

「研究室の皆が不審に思うのは明日になってからだろう。だとすると警察が何とかしてここに辿り着くのは、早くても明日の夕方。それまで誰が殺人犯かわからないまま過ごすのは御免だ」

「そもそも、まだ殺人と決まったわけじゃないわ。自殺だったかもしれないじゃない。仮に殺人だとしても、犯人がここにいる人じゃないかもしれないのよ」

 この状況に怯え、気持ちが不安定になっているからか、つい普段より強い口調になってしまう。

「じゃあそれを証明しないといけないと思う。もし外部犯だったらまだ森の中に潜んでいるかもしれないんだ。その場合、皆一緒にいるというのが一番いいだろう?俺たちの中に犯人がいたとしても、皆が見張り合っていればいいけれど、殺人犯と共に過ごすというのも気持ちが悪い。結局誰が犯人を突き止めないといけないんだよ」

 それを聞いて水澄くんはどこかおかしいのではないか、と思った。物静かで他人と関わろうとしない、という印象はここに来てから無くなってはいたが、ここまで来ると逆に野次馬根性の塊みたいに感じられる。

 そう思っていると、「いい加減にして!」と藤森が叫んだ。

「あなたたち、少し静かにしてもらえないかしら。そこの彼女、玉木さんだったわね。あなたが云っていることが正しいわ。人が一人死んでいるのに探偵ごっこをしている場合じゃないでしょう」

 それを聞いて「同感だな」と三田村も云った。

「ミステリが好きなのはいいけどね、俺たちは今、現実の事件に巻き込まれているんだ。水澄君のように出しゃばるのは間違っている。袴田さんに任せておけばいいのさ」

 水澄くんも何か云いたそうだったけれど、憔悴しきった藤森、三田村の顔を見て出掛かった言葉を飲み込んだようだった。そして素直に「すみません」と謝る。

 藤森は溜息をついて視線を落とした。

「まったく、大学なんてところにはまともな人がいないようね」

 それは暴言だ、と一瞬思ったが私はすぐにそれが堀田に向けられた言葉だと悟った。彼女がどうして腹を立てているのかはわからないけれど、先ほどの出来事を根に持っているのは明らかだった。 

 しかし当の堀田は全く気がついていない様子である。それどころか、彼は余計なことを云って藤森をさらに怒らせた。

「僕は気になることを放っておくことの方が良くないと思うなあ。今この瞬間にも世界の何処かで誰かが死んでいるわけだろう。それが身近で起こっただけのことなのに、非常事態だと思う方がおかしいね。ただ頭を使いたくないだけなのかな」

「ではあなたはその素晴らしい頭脳で、事件の真相を明らかにしてくださるのね。非常に楽しみなことですわ。期待しております」

 それを聞いて私の頭には「慇懃無礼」という四字熟語が浮かんだ。しかし、堀田はやはり動じない。

「いやあ僕は別にそういうつもりはないよ。誰が犯人か、そもそも他殺なのかということには大して興味がない。だから考えようとは思わない。強いていうなら桜を見づらくなってしまった、というだけかな」

「なら、黙っていて」

 遥かに年下の女性に厳しい言葉を浴びせられた変人学者は肩を竦めると、云われた通り大人しくなった。 

 そんな二人のやりとりを興味深そうに聞いていた水澄くんだったが、堀田が黙ると今度は美琴さんの方を向いた。

「羽柴さん、こんな時に申し訳ありませんが昨日云っていたお義母さんの手記、拝見してもよろしいでしょうか」

 美琴さんはぼうっとしていたようで、すぐには応えなかったが、水澄くんが繰り返すと「ああ、ええ……」と閲覧を許した。

 しかし上の空の返事だろう、と私は思う。しばらくずっと喋っていなかったし、きっと博樹のことで頭がいっぱいなのだ。

 そんな彼女にとって手記のことなど、どうでもいいことなのだろう。私も水澄くんがそれにこだわる理由がわからなかった。

「君はやけに咲良さん――前オーナーの奥さんの手記に拘るね。何がそんなに気になるんだい?」

 三田村は呆れている口調だった。昨日水澄くんとミステリ談義に花を咲かせていた時の輝かいた目ではない。彼は先ほど云っていたように、現実に起こった事件と小説の話をしっかりと区別できているのだろう。

「やはり僕が気にするのはおかしいでしょうか?でも皆さんならその理由がわかりますよね。いえ、わからないはずありません。僕が手記を見たいのはそのためです」

「どういうこと?」と私は訊いた。

「三十二年前の事件と同じなんだよ。その時も誰かがあの木で首を吊って死んだ。僕たちはその事件を知らないし、皆それについて口にしたくないみたいだから、博樹さんのお母さんの手記を読むしかないじゃないか」

 水澄くんはそう語ったが、後半の方はほとんど耳に入ってこなかった。

 思い出さないよう仕舞ってあったあの悪夢が再び溶け出し、頭の中を占領しかける。

――あの桜の木は呪われている。

 そんな想像を、慌てて記憶の抽斗に押し込んだ。

 勿論気がついていないわけではなかった。夢にまで出てきたのだから、その類似性を意識しない方がおかしい。当然三田村たちも分かっているだろう。

 しかし、だからといって水澄くんが手記を見たがっている理由はよく分からない。そんなことをしたところで、ショッキングな内容を知ることになるだけだろう。皆が話したがらないことからも、相当恐ろしい事が起こったことは明らかなのだから。

 だから私は「手記を読んだところで何も解決しないわ」と水澄くんに云った。しかし彼は澄ました顔で答える。まるで私の言葉を予期していたようだった。

「じゃあ他に何ができるんだい?」

 そう云われて答えに困った。水澄くんはただじっと警察の到着を待っているつもりはないようだし、先ほどの様子だと守野さんも、おそらく袴田刑事もそうだと思う。ならば三人と共に事件を解決することを目指すのが良いのだろうか。

 三田村や藤森と同様、時間が過ぎるのをただ待っているつもりだった私の心は微かに動き始めていた。だが今はただその場で小さく振動しているだけの状態。まだ賛同を示すことはできなかった。

「それでは拝見します。確かあそこにあるのでしたね」

 水澄くんはそう云って、昨晩博樹が「図書室」と呼んでいた部屋に向かった。奥に開く大きな木製のドアを開け、中に入っていく。私がぼんやりその方を見ていると、水澄くんはすぐに出てきた。手に持っているのはB6版の小さなノートである。薄桃色のその表紙には何も書かれていなかった。

「どうしてすぐにそれだと分かったの?」

「本棚には分厚い書籍が並んでいただけだったから、そこにはないと思って机の抽斗を開けてみたんだ。そうしたらこれが入っていた。ぱらぱらと捲ってみたらこれに間違いないと思ってね」

 水澄くんは手記を一旦机に置いて椅子に腰掛けた。ページ数はかなりあるようだが、どのくらいまで書かれているのだろう。

「まず僕からでいいかい?」

 水澄くんに訊かれて些か驚いた。「読みたい」などとは云っていない。私の心はまだ振動を続けているだけだった。

 私が何も応えないのを了承の意と解釈したのか、水澄くんは「それじゃあ」と云って手記を開いた。

 それからしばらくは非常に手持ち無沙汰、というよりただ居心地が悪かった。誰も言葉を発しなかったことに加え、皆が口にしようとしない内容が書かれた他人の手記を、平気な顔で読んでいる水澄くんが横にいる。正直に云って、気まずかったのだ。

 守野さんたちが早く戻ってこないか、それだけを考えていた。検死や現場保存、そして

遺体を運ぶのに手間取っているのだろう。だからといって助けに行けるわけでもなかったので、余計にもどかしかった。

 だがその重い沈黙の時は約三十分後、突然終わりを迎えた。

 手記を全て読み終えた水澄くんが「ふう」と溜息をついた。

「なるほど、確かにこれは……。うん、埋まった死体に首吊り……か」

 水澄くんは天井を見上げ呟いた。それを聞いてあっ、と思った。

 首吊り以外にも、もう一つ事件があったということだった。あの桜――何故か死を連想させるあの桜の木の下に埋まった死体。この手記はそれについても触れているらしい。

「ほら、玉木さんも読むだろう?」

 突然そう云われて戸惑う。読む気はなかった。しかし水澄くんの表情が気になった。どんな顔か、と訊かれても言葉で説明できない。ただいつもより目力が数段強く、「読むべきだ」と云われているような気がしたのだ。

 さてどうしようか、と思っていると玄関のドアが開く音がした。守野さんたちが帰ってきたのだ。三人とも疲れ切った表情をしていた。

「博樹さんのご遺体は倉庫に安置しましたが、それでよろしかったでしょうか?」

 海馬の問いに美琴さんはやはり上の空といった感じで頷いた。倉庫なんてあっただろうかと思っていると、横に座った守野さんが「ロッジの裏にあるんだよ」と教えてくれた。

 そして彼は机に置かれた手記に目をやったが、それについては何も云わず、立ったままの袴田に意味ありげな視線を送る。それを受けて袴田は口を開いた。

「博樹の死亡推定時刻をはっきり特定することはできませんでしたが、彼があの雨に長時間晒されていたらしいことはわかりました。大体ですが、午前一時から三時の間に亡くなったものと思われます」

「雨が止んだのがいつかは定かではありませんが、四時過ぎにはまだ降っていたと海馬さんが仰っていました」 

 守野さんの補足に海馬は無言で頷く。トイレか何かで目を覚ました時、音を聞いたのだろう。袴田は皆を見回してから先を続けた。

「さて、どなたかその時間何をしていたか説明できる人はいらっしゃいますか?」

「アリバイ調査かい?一時から三時なんて皆寝ているんじゃないかね。そんな時間にアリバイがあればむしろ怪しいと思うよ」

 馬鹿にしたように云ったのは堀田だった。それを聞いて袴田は「いつもの癖で……」と頭を掻く。彼は切れる刑事なのだろうと勝手に思っていたので私も少し驚いたけれど、やはりショックで頭が回っていないのだ。

「自殺か他殺か、それは分かったのですか?」と三田村が訊いた。

「あれは……ええ、おそらくく他殺です。よく見るとやはり自殺にしては強い痕が残っていましたから」

「ああ、そうですか……」

 三田村は海馬の答えにショックを受けたように項垂れたが、私も同じ気持ちだった。誰かが悪意を持って博樹を殺害した事が確定したのだ。

「犯人は博樹の首をロープで絞め、それをあの木に吊るしたのでしょう」

 水澄くんが「足跡はどうだったんだい?」と質問する。それに対し、

「多分それは手掛かりにはなりませんよ」と答えたのは袴田ではなく水澄くんだった。

「僕も今朝あの小島に行きましたけど、地面は踏み荒らされていました。足跡が誰の靴のものか、到底判断できる状態ではなかった」

「君、その時そんな余裕があったのかい?」

 水澄くんは守野さんの問いには答えず、肩を仕組めた。私は遠くから見ただけで動転したくらいだから水澄くんの冷静さには驚く、というより呆れる。

「美琴さん、昨夜あなた方のバンガローに訪ねてきた人物はいませんでしたか?例えばそう、戸を叩く音がした、とか」

 守野さんが美琴の顔色を伺いながら尋ねると、彼女はゆっくりと首を振った。

「……いいえ、私は何も聞いていません。昨夜はぐっすり眠っていましたから」

「ちょっと待ってください、守野さん。犯人が呼び出したとするとおかしくありませんか?博樹と美琴が一緒にいることは判っているはずなんだから、ノックするという行為は彼女に気づかれる危険性を考慮していないことになる」

「では、袴田さんは博樹さんが嵐の中へ出ていった理由についてどうお考えですか?」

「それは……事前に打ち合わせがあったのではないでしょうか。夜中に人目を忍んで話すほどの内容だったのですから、あの天候の中でも予定は中止されなかったと考えられる」

「しかしそれは今日の夜ではいけなかったのかな」

「どういうことです、海馬さん?」

「橋が落ちていなくとも、我々は明日まで滞在する予定だったはずです。それなのに悪天候の中予定を決行したというのがどうも腑に落ちないのですよ。オーナーが途中でいなくなるはずがないのだから、一日くらい待っても良さそうじゃありませんか」

 それは確かに不思議だった。それに加え、遺体を桜の木に吊るす必要性があったのかという問題もある。嵐の中でそんな作業を行うことは犯人にとっても危険だったはずだ。それほど急がなければならない事情があったということなのだろうか。

 そう思ったのだが、海馬がこちらに控えめな視線を向けているのに気がついて、私は彼が云いたいことが判った。

「違ったらごめんなさい。ひょっとして海馬さんは今日の昼に帰る予定だった私たちの中に犯人がいると云いたいんですか?」

 私は強い口調でそう云ってから横に座った守野さんをちらっと見た。彼は表情を変えずじっと海馬を見つめている。恐らく彼の意図にはとうに気がついていたのだろう。

「ええ、まあその可能性が強いのでは、というだけでして……」

 海馬は語尾を濁らせたが、その目は完全に私たちを疑っていた。少し腹が立って腰を浮かせかけたところで守野さんが口を開いた。

「海馬さんのいうことも一理あるでしょう。いや、かなり説得力があると僕は思います。

しかし極めて重要な一つの条件を見落としています。ですから反論せざるを得ない」

「条件?さて、何のことでしょうか」

「僕たちが博樹さんにお目にかかったのは昨日が初めてなのです。それなのに殺したりす

るでしょうか。つまり、動機が全く考えられないのですよ。勿論、昨日のうちに何かあっ

た可能性もあるでしょうけれど、夜中に呼ばれて出て行くほどのことだとは考えられません」

「ああ……なるほど……うん、確かにそうだ。大変失礼いたしました。いや、こんな状況で少し参っているのかもしれません。どうも頭が働いていないようだ」

 海馬が守野さんの主張を即座に飲み込み、本当に申し訳なさそうに謝るので怒りはたちまち消えていった。守野さんも彼ににっこり微笑む。

「すみません、こちらこそ偉そうに。ただ、僕たち三人とも昨日博樹さんとトラブルを起こしたことなど断じてない、とはっきり申し上げておきますね」

「ちょっと待ってください。海馬さんの意見では明日まで滞在する予定だった俺たちは犯行を焦る必要がない。一方、守野さんたちは昨日会ったばかりの博樹を殺すはずがないと主張している。どちらも筋が通っていますが、それならば誰が犯人なんだ?」

 袴田は本当に困ったという顔で頭を掻いた。そんな刑事に「もしかすると何かを見落としているのかもしれません」と云う守野さんの声は優しい。

 すると「あの、そのことなのだけれど」と藤森が遠慮がちに切り出した。

「外部犯の可能性が消えたわけではないんでしょう?そうだとすれば、こういうのはどうかしら?目的はよく分からないけれど、山を登ってきた不審者を、オーナーがバンガローの窓から目撃したのよ。それで外に出ていったところ、怪しまれていると思った不審者が彼を殺してしまった。遺体の処理に困った彼、もしくは彼女は外部の人間ならそこまではしないだろうという心理を逆手にとって、わざわざボートを漕いで木に吊るしたのよ。あるいは自殺に見せかけたかったのかもしれないわね。そして橋が落ちる前に下山して行った」

 それを聞いて守野さんが、

「そう考えれば博樹さんが嵐の夜に外へ出た理由も説明できますね。不審者がいるとなると、一刻も早く対応しなければなりませんから。うん、今まで出た意見の中で一番可能性があると思います」

 と感心するが、藤森はニコリともしない。

「ほら、これで解決じゃない。もうこんなところに集まっているのはやめましょ。時間が勿体無いし、あまり気分がいい過ごし方ではないわ」

「しかしね、仮に外部の者が犯人だとしても、橋が落ちるより前に山を降りて行ったかどうかは分からない。まだどこかに潜んでいる可能性もあるんだ」

「刑事さん、それは外へ出るなという意味かしら。私、絵を描くつもりなのだけど」

 つい先程までショックを受けた様子で黙り込んでいたというのに、随分図太い神経だなと私は思った。同じく口数の少なかった三田村は若干呆れたように彼女を見上げた。

 藤森は袴田を睨んでいた。「誰になんと云われようと私は絵を描く」という意思がその顔から滲み出ている。

 芸術家というのはそういうものなのだろうか。知り合いが死んだことは辛いけれど、それと絵を描くことは全くの別物。神聖な自己表現を邪魔するほどのことではない。いや、自己表現などではなく、再び死体が吊るされることによって死のオーラを増したあの桜を描きたいだけなのかもしれない。

 どちらにしても彼女がそう考えているのなら恐ろしい、と私は思った。しかし、それと同時にこの女流画家に対する興味がさらに湧いてきているのも感じていた。

 彼女は自分の芸術活動をどう捉えているのだろうか。そんな疑問がこの非常事態におい

て浮かび上がってきたことに自分でも驚く。彼女がなぜ絵を描くのか、どんな絵を描くのか――。昨日は社交辞令で訊いたそれらは今や、はっきりとした答えを得たい疑問へと昇華している。その状態変化が何故起こったのか、それは私にも分からなかった。

 だが、私がそれを問う前に彼女は腰を上げ、メインロッジを出ていった。その様子を目で追っていた海馬、堀田も「私も失礼します」と次々に席を立つ。三田村と袴田、そして美琴さんは座ったままだった。

「ここに固まっていた方がいいと思うんだが……」

「そう考えるのが普通ですが、彼らの気持ちも分からないではありません」

 藤森たちが出て行ったドアを恨めしげに見ていた袴田の呟きに答えるような形で、水澄くんは云った。

「藤森さんはああ云ってましたが、まだ僕たちの中に犯人がいるかもしれないという思いが心のどこかにあるんでしょう。殺人者と一緒にいたくないという心理が働いたとしてもおかしくはない」

「それもそうだが……」

 ここに集まっていれば、もし私たちの中に殺人者がいたとしても、その行動を制限できる。刑事であり、殺された博樹の友人でもある袴田にとってはそれができないのが悔しいのだろう。

 しばらく沈黙が場を支配したが、守野さんがそれを落ち着いた口調で破った。

「水澄くん、僕にもそれを見せてくれないかい」

 そう云って彼が示したのは殺された博樹の母、咲良さんが書いたという手記だった。水澄くんは守野さんにそれを手渡すと、思い出したように深刻な顔つきになる。守野さんはそんな彼の様子をしばらく見ていたが、表情を変えることなくスムーズに手記へと目を落とした。

 私は再び手持ち無沙汰になってしまった。勝手にコーヒーを淹れて飲もうかと思ったけれど、場の雰囲気が重かったので断念する。しかしそのまま座っているのも気詰まりだったので、図書室へ行くことにした。

 なるべく音を立てないように椅子を引き、立ち上がる。誰も私の方を見ようとしなかった。ゆっくりドアを開けて中に入る。思っていたほど広い空間ではなかったが、三面の壁に立てかけられた本棚は一杯だった。

 右手の壁には本棚が置かれていなかった。その代わり、先ほど水澄くんが云っていた机がある。あの抽斗の中に例の手記が眠っていたのだろう。私はその机に近づいた。

 するとその上の壁にうっすらと跡がついているのが判った。五十号のキャンバスがかけられていたようだが、どうして外してしまったのだろう。それ以前に、描いた人は誰でどんな絵だったのだろう。

 そんな疑問が浮かび上がるが、美琴さんや三田村に訊けるような状況ではないことは無論承知している。

 私はいくつか本を取り出してみたが、こんな時に読書など出来るはずもなかった。仕方なく部屋の中をぐるぐる回りながら時間を潰す。

 ふと気がつくと図書室に入って既に二十分が過ぎようとしていた。守野さんもそろそろ手記を読み終えた頃だろうか。絵の跡を見つけたくらいしか収穫がなかったが、私は図書室を出ることにした。

 すると、守野さんはやはり手記を読み終えたらしく、鹿爪らしい顔で閉じたノートを睨んでいた。

 私は去る時と同様、音を立てないようにして椅子に座る。それから五分程黙って待っていると、守野さんは小さな声で云った。

「これは……。もしこの手記に書かれていることが本当であるならば、あなた方の関係について、認識を改めなければならないようですね」

 唐突にそう云った彼の視線は三田村に向けられていた。「あなた方」とは三田村と誰のことを指すのだろう。それとも守野さんは桜村にいる人間全員の関係について言及しているのだろうか。

「認識を改めたところで、何も変わりはしないでしょう。あなたがどう思おうが、私たちには微塵も影響を及ぼさないのですから。俺たち――いや、少なくとも俺は今の関係性に疑問を抱いていませんし、これからも変わることはないと信じている。変える必要などないのですから」

「あの、守野さん。関係性とは一体……」

「ああ、玉木さんは読んでいないんだっけ。そうだね、どこから説明すれば……。いや、玉木さんも自分の目で確かめた方がいいかもしれない」

「でもこんな状況で昔の凄惨な事件の話なんて……」

「玉木さんの云うことも分かるよ。だけど、この場合は読んだ方がいいと思うんだ」

「どういうことですか?」

「この手記に書かれている、三十二年前に起こった事件が現在の事件に関わっている可能性が皆無とは云えない、ということさ」

「……あの木で首吊りあったという共通点があるからですか?」

「勿論それもある。だけど他にもいくつか、ね。とにかく自分で読んで確かめてみるといい。人の説明を聞くよりその方が早いし正確だ」

「百聞は一見に如かず、ですか……」

守野さんがそこまで云うのなら読まないわけにもいかないだろう。

 ふと、水澄くんの様子を探ってみると、彼はぼんやりと宙を見つめているだけだった。この手記の内容を反芻しているのだろうか。

 私はノートに視線を戻す。

 人の手記を覗くのはやはり若干気がひけるが、そもそも誰かに読まれることを意図して書かれたものなのだろうと自分を納得させ、私はノートを開けた。

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