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 小ざっぱりした普段着といった感じの格好で、昴は指定のカラオケボックスの前に姿を現した。「お待たせ。そっちが倉嶌さん? どうも、話は皐月からかねがね」

「倉嶌琉夏です。お休みのところ、わざわざ来ていただいてすみません」

「いや、レポートも終わって暇だったし。ところで、なんでカラオケ?」

「主な理由は、人目がなくて密談に適してるからです」

「なるほど。探偵らしい理由だ」

 昴は納得している様子だったが、本当はこの店にソフトクリーム食べ放題付きのコースが存在するからだと私は知っている。それこそ心配になるくらいに食べる。いくら好きでも限度があると思うのだが。

 ともかくも三人で部屋に入った。琉夏さんがマイクを取り上げ、ここまでの事情を昴に説明する。それから彼にマイクを手渡して、

「皐月の話の中で、セラーハースト以外にも何組かのミュージシャンが登場しました。名前だけ覚えています。XTC、スティーリー・ダン、ドナルド・フェイゲン――どういう音楽なのか知りたいので、ここで何曲か歌ってもらえませんか」

 まるで予想外の申し出である。そういう意図があったなら、事前に言っておけばいいものを。

 昴も目をぱちくりとさせていたが、ややあって、「別にいいけど」

 彼は本当に歌った。セラーハーストでも多くの曲でコーラス、ときにメインヴォーカルも担当するだけあって、歌唱力はかなりのものである。

「ありがとうございました」琉夏さんが拍手する。「さすがに現役のバンドマンですね」

「まあ、XTCなんかはバンドでコピーすることもあるしね」

「私は音楽のことは分かりませんけど、非常に洗練された曲ばかりだと感じました。セラーハーストのメンバー、特に石垣さんはこうした完璧さに惹かれている。ですよね?」

「うん。すべての音が必然、というのが奴の理想らしい」

「普段から真摯で、自分に厳しい人だと聞きました」

 昴は頷いて、「それがあいつの美点だよ。みんな敬意を抱いてる」

「――尾崎さんも?」

「もちろん。いちばんの理解者だね。俺たちに話せないことでも、尾崎さんになら話すみたいだし」

 琉夏さんがこちらを見た。それから意を決したように、「ぶっちゃけた話、ふたりは順調ですか?」

「順調だろうね。理想的な関係だと思うよ」

 なぜそんなことを訊くんだと言わんばかりの口調だった。私たちより遥かによくふたりを知る人物の言葉だ。信用に値する。

 私は黙って琉夏さんに頷きを返した。認めざるを得ない。志島皐月の推理は、ここに崩壊した。

「参考になります。ではその前提をもとに、私の考えを話していこうと思います。疑義があれば、遠慮なくお願いします」

「聞くよ。生で聞ける機会が来るとは思ってなかった」

「恐縮です。まずお兄さんにひとつお尋ねしますが――」

「部長」と私は思わず声をあげた。「お兄さんと呼ぶのはやめてください、なんか気になるので」

「じゃあなんて? 昴さん?」

「俺はどっちでもいいよ。質問はなに?」

 ん、と琉夏さんは咳払いをしてから、「石垣さんから明日は弾けないと連絡が来たとき、最初になにを考えましたか?」

「セトリをどうするかだね。あいつがヴォーカルに専念させてくれと言うから、それを最大限尊重しようと思った」

「原因について訊こうとは思わなかった?」

「あんまり。土壇場でもどうにかできるのが強みってバンドだから」

「つまり一種の曲芸集団だという誇りがあった。でも同時に、もっともミュージシャンとして厳格なのは石垣さんですよね。その彼が弾けないと言い出すのは相当のことだったのでは?」

「まあそうだね。だけど俺たちはカバーできたし、奴は過去最高ってレベルの歌を披露した。お客さんも満足してくれた。俺たちにとっては、その事実のほうがずっと大事だよ」

「よく分かりました」と琉夏さん。「ではもし、石垣さんが明日は行けないと言っていたとしたら?」

「三人で演るだけだね。俺たちでどうにかするから安心しろ、と答えたと思う。もっとも、あいつが大病で入院するとか、事故に遭うとかしない限り起こりえないだろうけどね」

「なるほど。ではこうだったらどうでしょう。べつだんギターは弾けるけど、明日は丸ごと歌いたいから歌わせてくれ」

 ここで初めて、昴は唸りながら首を傾けた。「それは正直、想定外だな。さすがに理由を訊くかもしれない」

 琉夏さんは少し勢い込んで、「そこなんです。弾けない、なら周囲がいくらでもカバーしてくれる。でも自分が歌いたい、では筋を通して理由を話さなければならない。重要なのは、なぜギターを弾けなかったかではなく、なぜヴォーカルに専念したいと申し出たか、です」

「分からない。なんでなんだ?」

「事情を正直に話せば、皆さんの演奏に影響を与えてしまうと思ったからでしょう。もちろん並大抵のことでは動じないメンバーだという信頼はあったはずです。それでも――これは黙っていたほうがいいと石垣さんが判断するだけの特別な事情が、あの日にはあった」

「それは?」

「考えた順番に話していきましょう。客席にいた尾崎さんは、スマホを舞台に向けつづけていた。しかし録画はできていなかった。より正確に言えば、彼女は最初から撮っていなかったんです。そしてそのとき使っていたスマホは、彼女のものではない」

 え、と私たち兄妹は声を揃えた。昴が先に、「じゃあ誰の?」

「ライヴ時の彼女のスマホのカバーはエッシャーで、新幹線で皐月に出会った時点では白の無地に変わっていた。皐月はこれを、カバーだけを取り換えたと推理したわけですが、実際には違ったんです。スマホ自体が変わっていた。白いほうが本来の尾崎さんの所有物でしょう。そしてエッシャーのほうは――おそらく石垣さんのものです」

「つまり尾崎さんは石垣のスマホを借りて、録画するでもなくただステージに向けてたってこと? なんのために?」

 琉夏さんは答えず、黙って選曲用の端末を引き寄せた。画面からコマーシャルが消え、曲のタイトルが表示される。〈ジョニー・B・グッド〉。

 困惑する昴に向け、琉夏さんが飄然と、「ホットなやつをもう一曲」

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、ジャズマンがマーティに告げた科白そのままである。これに昴は、半ば反射的な反応を見せた。体に染みついているのだろう。巧みにマーティ・マクフライを演じはじめる。エアギターに合わせて歌う――。

「チャック、俺だよ。従兄弟のマーヴィン・ベリーだ。お前、新しいサウンドを探してるって言ってただろ? こいつを聴いてみな!」

 琉夏さんも映画そのままに科白を諳んじ、そして右手を勢いよく持ち上げた。スマートフォンを昴に向けている。

 歌と演技がぱたりと中断した。昴は目を見開いて、「――電話で音を聴かせてた?」

「その通りです」

 琉夏さんがマイク越しに答えた。同時に曲がフェードアウトする。

「いや、待て待て」と昴がもとの席に腰を下ろしながら反論する。「それこそ目的が分からないよ。ライヴを誰かに聴かせたいなら、撮ったやつを送るほうが普通じゃないか?」

「もちろん、普通ならそうです。でも石垣さんには、リアルタイムの声を、生の声を、そのまま届けなければならない理由があった。昴さん。ここに来る前、レポートを書いていたと仰いましたね」

 彼は少し不思議そうに、「ああ。倫理学概論のね」

「石垣さんも同じ講義を受け、医療倫理を題材にしたレポートを早々に書き上げて提出していた。彼にとっては切実なテーマだったからでしょう。昴さん、こういう話をご存じじゃないですか。人間の五感で最後の最後まで残るのは、聴覚である」

 あ、と昴は口を開いた。そして絞り出すように、「ある。まさにその講義で、教授が言ってたよ。あいつ、それで――」

「はい。昏睡していたのは、おそらく石垣さんのお祖父さんでしょう。とうとう危篤だという連絡を、石垣さんはライヴの前日に受けた。そして悩んだ。今から大急ぎで島に帰っても、間に合うという保証はない。なにより尊敬するお祖父さん自身の教えが、彼の胸中にはあった。ミュージシャンはどんなときでも、舞台裏を悟らせてはならない」

「――だから声か」昴は視線を下げ、つぶやいた。私と琉夏さんから表情を隠している。「声か。声だな。聞かせるとしたらそう、声に決まってる」

 彼はしばらくそうしてテーブルを見つめていたが、やがて顔を上げた。自分自身の言葉を確かめるように、ゆっくりと、

「届けたんだな、みんなで」

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コンフォート・イン・サウンド 下村アンダーソン @simonmoulin

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