第46話『この世界の片隅に』

 まだ闇の中にある早朝に、僕は停留所で路面電車を待っていた。

 信号待ちの隙間を縫って、あらかじめ崩した小銭で運転士から一日乗車券を買い求める。少女たちの足跡を辿るのは、少女たちが青春を過ごした電車に乗るのが最も適している。


 己斐こい停留所で乗り換えて、終点の広電宮島口駅へ。牡蠣養殖で有名な地御前じごぜん辺りで瀬戸内海のそばに寄り、朝日を浴びる金色の海を横目に走る。

 資料によれば己斐までの市内線の話ばかりだが、彼女たちは宮島線に乗務していたのだろうか。


 たとえ乗務しなくとも、厳島やこの沿線にあった遊園地の楽々園は、少女たちが余暇を過ごした場所だというから、彼女たちも煌めく海に心を奪われたのではないだろうか。

 ほら、朝焼けみたいな声が聞こえる。


『見て! 海が見えるわ!』

『もうじき阿品あじなじゃね。宮島が近いんよ』

『海が好きなんて、さすが島のやね』

『うちら、ここで働けるんじゃね! うち、電車が好きになったわ!』


 広電宮島口駅で電車を降りると、薄口醤油ベースの煮汁の匂いが辺り一面に漂っていた、煮穴子だ。これは現地に赴かなければ経験出来ない、この旅行は正解だったと、鼻をヒクヒクさせている三人娘に感謝を告げた。


『美味しそう……何ね? これ』

『煮穴子ね、宮島の名物なんよ』

『ああ……お小遣いの少なさが恨めしいわ。しっかり働いて、ぎょうさん稼ぐで!』


 始発のフェリーで厳島に渡り、人気も鹿の気配もない参道を歩く。穏やかな波音と、玉砂利を踏む音だけが鳴っている。

 海に浮かぶ大鳥居の鮮やかな朱色が、僕の視界に飛び込んだ。いよいよ、という期待を高めつつ参道を更に進むと、入江に迫り出す極楽浄土が真っ赤な翼を広げて佇んでいた。


『見とれておらんと、お参りしよう』

 千秋の言うとおり、調査だけでは宗像むなかた三女神と、広島電鉄三女神に失礼だ。紅白の回廊をそろそろと歩き、めくるめく景色を楽しみながら拝殿の前まで進む。


『列車食堂』が書籍化しますように。そして、彼女たちに幸せをもたらせますように──。


 厳島神社をあとにして、三人娘がお弁当を食べたであろう片隅から鳥居を眺め、まだ眠りの中にある商店街を通り抜けた、その途中。妻が大好きだったクマのキャラクターの茶店に出くわして、その店先にひとりで立ち尽くしていた。


 行きたいって、言っていたな。

 僕ひとりで来てしまった──。


 せめてもの土産にと、ショーウィンドウを撮影しフェリー乗り場へと向かっていった。


 朝ラッシュ、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って、隙間を縫っては「すみません、すみません」と繰り返し、運転士に切符を見せて電車を降りた。

 一生に一度は訪れなければと思っていた平和記念資料館は、案外朝早くから開いているんだ。


 旧産業奨励館、慰霊碑の数々、平和記念資料館、七万柱もの身元不明の遺骨が眠る原爆供養塔──。


 言葉はなかった。


 これからこの惨劇を書き連ねようとしているが、果たして描き切れるのか。どれだけ文章を重ねても、すべてを書き切る自信はない。また、揺るぎない事実が明らかである中、フィクションを書き綴る意味とは何だ。虚構でなければ伝えられない物語とは、虚構にしてしまうことで失われてしまう真実とは何だろうか。

 そして、この中に彼女たちを投じるというのか。


 安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから


 原爆ドームをそっと抱きしめ、慈しみの涙を流す原爆死没者慰霊碑に手を合わせ、僕は未曾有の惨劇に苦しみ苦しめられた人々への誓いを新たにした。


 しかし僕には、制限時間があまりない。指定した今夜の新幹線に乗らなければ、猫たちが空腹という惨劇に見舞われてしまう。

 時間は昼どき。宮島で僕を誘惑した穴子めし弁当を八丁堀の百貨店で買い求め、これを車中での夕食とする。

 そして昼食は、もちろんお好み焼きだ。


 スマートフォンで調べた評価の高い店に入ると、ほろ酔いの広島弁が飛び交っていた。

 お好み焼きが普及したのは、確か戦後だ。女学生だった方々の記憶に残っているのは、福屋百貨店の地下にあった雑炊食堂のお好み盛り。それがどんなものだったのかは、わからない。

 僕が描いた少女たちに、是非とも味わってもらいたい。カウンターの隅でお好み焼きを食べている僕の脳裏に、ホクホク顔の少女たちが思い浮かんだ。


『都会には美味しいモンがあるんじゃねぇ』

『一銭洋食に似とるのやなぁ』

『美春ちゃん、慌てて食べたら火傷してしまうよ』


 さて、昼食が済んだら電車に乗って、少女たちの足跡を可能な限り回って見る。当時を知る人のつてがあればよいのだが、残念ながら僕にはないから、足を使うしかない。


 まず向かったのは江波えば。こうの史代先生の『この世界の片隅に』の主人公、すずさんの実家があった町だ。

 本心は、こうの先生に描いてもらいたかった物語だ。叶わなかった願いを込めて、この旅から帰ってから投稿するエピソードに、北條父子をほんの少しだけ登場させる。


『海軍さんが乗っとったのう、気づいたか?』

『そうじゃった、造船所に用事かね?』

『ありゃあ、嫁取りじゃ。親父さんもおったじゃろう』

 すずさんを嫁に欲しいと、北條父子が江波の浦野家に訪れた場面を、乗務員の視点から描いてみた。読者は気づいてくれるだろうか、こうの先生に届くだろうか。


 停留所の奥に広がる江波車庫を覗いて、僕は昭和をそこに見た。考えるより遥かに早く、車庫の側道へと導かれた。

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