第45話『あれよ星屑』

 猫たちに『ごはん』をたっぷりあげて「いってきます」と妻に告げ、夕方ラッシュを控える新横浜駅へ向かっていった。改札機に切符を投じて、売店で弁当とお茶を買い、喫煙所で煙草をくゆらせ指定した列車を待つ。


 発車の十分ほど前にプラットホームへと上がり、乗車位置を確かめて並ぶ。指定席を取ったのだから並ぶ必要はないのだが、はやる気持ちがそうさせていた。


 行き先は、広島。執筆している小説の、現地調査に向かうのだ。それも在住県内で収まる『稲荷狐となまくら侍』ならばまだしも、新幹線で三時間半の移動をして始発から行動しようなど、たかが趣味の小説でやることか、と人によっては嘲笑するだろう。

 むしろ『稲荷狐となまくら侍』で行った現地調査が活きたからこそ、僕は旅行に導かれた。


 小説の舞台は、出征による乗務員不足を補うため昭和十八年に開校した広島電鉄家政女学校。半分は授業、半分はバスか路面電車に乗務する。給料から学費が支払えて、実家への仕送りも出来たそうだ。事情があって進学を諦めかけた少女たちには、夢のような学校だった。


 しかし、戦時中の広島だ。


 昭和二十年八月六日、八時十五分。


 たったひとつの爆弾が、少女たちの青春を一瞬にして吹き飛ばした。


 直後に襲った枕崎台風と男性社員の復員により、学校再建は断念されて、少女たちは反物を渡されただけでそれぞれの家へと帰された。

 原爆関連の話では比較的有名で、過去にはドラマや舞台にされている。


 本音を言えば、こうの史代先生のコミカライズを待ち望んでいた。しかし、こうの先生は原爆の話が苦手だとエッセイで知り、ならば僕が書くしかないと決心したが、実際に筆を執るまで迷いがあった。


 まずひとつは『ヒロシマ』を描いた作品は、どの作品も広島に縁のある作家が筆を執っている。東京生まれ神奈川育ちで父は信州、母は滋賀、広島に縁がない僕に書く資格があるのだろうか。

 だからせめて広島を学んで筆を執る、もう書いてしまっているが資料だけではわからない調査結果を反映させて改稿し、エンディングまで駆け抜けようと旅に出た。


 もうひとつ、この小説『椰子の実ひとつ ─電車の女学校─』は、公募向けに検討していた。資料を調べ設定を練るうち、どうしても描かなければならない禁忌が、僕の行く手に立ちはだかった。


 主人公は、三人の少女。

 生まれも育ちも小さな島で、電車を知らなかった小柄な頑張り屋、妹ポジションの美春。

 大阪生まれで、親の仕事の都合で尾道に越した、電車に詳しい、軍国少女で牽引役の夏子。

 生まれも育ちも広島市内だったが、家庭の事情で島根に越した、地理に詳しいお姉さん役の千秋。


 その三人のうち、原爆の惨禍を伝えるために夏子を在日朝鮮人とした。

 市内全域を蹂躙した被害の中、差別を受けた人々から目を背けるなど、僕にはとても出来なかった。


 夏子のモデルは、山田参助先生の『あれよ星屑』に登場する、朝鮮人の特攻兵だ。日本人であろうとし、日本に生命を捧げると誓いながら、出撃せずに終戦を迎えた。朝鮮と日本の間で揺れ動く感情に、僕は強く心を打たれた。


 二国間は長らく難しい関係にあるが、感情に流されず思考しろ、それが未来に踏み出す一歩になると夏子を通して訴えたかった。

 が、あまりにデリケートなテーマなので、僕だけが責任を取ればいいウェブ投稿に切り替えた。


 僕は言葉にならば殺されていいと、僕を殺すのは妻の生命を奪った言葉だと、言葉よ僕を殺してくれと、強く願った。


 そしてまだひとつ、個人的な懸念があった。


 書き進めるうち、路面電車の乗務に青春を捧げる少女たちが、家族のように愛おしくなっていった。

 戸惑い、乗り越え、恋をして、たくさんの出会いと別れを経験し、殻を破ってはねを伸ばす蝶のように成長していく少女たちに、生み出した僕自身が魅了された。


 この彼女らの頭上に、僕は原爆を落とせるのか。


 炸裂の瞬間を如何に描くか、それは書くと決めたときからイメージが固まっていた。

 その瞬間を今すぐ書けと命ぜられたら、僕はすぐさま書けるだろうが、それは何万字もかけて育てた少女たちを、地獄絵図の叩き落とすということだ。

 幸せでいて欲しい、生命だけでも助かって欲しいと、僕自身が願わずにはいられない。


 彼女たちの運命を定めた僕には、彼女たちに生を謳歌させる宿命がある。それが、創作者の責任だ。


 チャイムが鳴って、まもなく広島駅に到着すると自動放送が遠慮がちに流れ、続けて車掌が乗換案内を行った。小さな窓から眺めれば、投光器が照らしつける貨物ターミナルが広がっている。広大な貨物ヤードが細く絞られたその先では山陽、呉、芸備の各線が束ねられ、整然と並ぶプラットホームに吸い込まれていく。

 線路の向こうに広がる街には、住宅やビルが建ち並び、夜空の星が霞むほどの明かりが灯る。かつての惨禍が嘘みたいだが、嘘なんかじゃない。確かにここは、一瞬にして地獄絵図に塗り替えられた土地なんだ。


 人波に乗ってドアへ、ホームへ、改札口へと歩みを進めて建設中の駅ビルをくぐり、駅前に据えつけられた停留所で、並ぶべきポールを探す。

 これだ、宿のほうに向かう電停は。


 やがて入れ換えてきた電車に乗って、線路を踏み鳴らしている振動を身体全体で受け止める。道路の真ん中を走る電車は、抗いようのないかつての悲劇は物語の中での出来事なのかと、そう疑ってしまいそうな光の洪水の中にあった。


 目的の停留所で降り、ホテルへ向かう道すがら。ギリシア風の銀行建築が目に止まり、そのすぐそばにある案内板に、僕は言葉を失った。


[爆心地から約380メートル]


 紛れもない真実だ、と短い一文が語っていた。

 明日は朝から、路面電車に青春を乗せた少女たちの足跡を追う。

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