第44話『やっぱり心の旅だよ』

 弟子たちは初入館だが、僕は一度だけ行ったことがある。まだ車掌として駆け出しの頃、先輩に誘われた旅行の一番最初の目的地が、秘宝館だった。

 もう何年ぶりになるだろう。昭和レトロな内外装はそのままだから、何も変わっていないはず。


 以前はバスとロープウェイで向かったが、今回は弟子が出してくれた車で向かう。山の上の崖っぷちに建っており、熱海の街が一望出来る。こんなに景色がいいところだと、はじめて知った。

「えっ? 会社の福利厚生、使えるの?」

「はい、これで少し安く入れるんです」

 マジかよ、凄いな秘宝館。これも福利厚生のうちに入るのか。


 遠い記憶を引き出して、マネキンやからくり人形の仕掛けを見ては反芻したが、知っているからこそ驚かされたこともあった。

「あれ? これ、仕掛けが変わってる」

「え? そうなんですか?」

「実はリニューアルしていたんだ……」

 小さな変化にほんの少しガッカリしつつ、新しくしながらレトロな雰囲気を残す展示物に、僕は感心させられた。


 展示物は人形ばかりではない。僕が楽しみにしていたのは、浮世絵技術の粋とも言える春画の数々。実物ではなくパネルだったが、これを展示する博物館は滅多にない。

「地下出版物だったから豪華に作ったんだよ。普通なら紙が駄目になる枚数の版木を使っているんだ」

「ふあ、凄え。どうしてこう描いたんですか?」

「それは、どこから話そうか。古くは信仰にも結びついていて──」


 春画にも、それを現代に受け継いだ作品にも、男のロマンが詰まっている。読者投稿のていでライターから依頼されたシナリオを「意味がわからない」と『やっぱり心の旅だよ』で福満しげゆき先生が漏らしていたが、現実にはあり得ない描写は夢と希望の具現化なのだ。

 と、大真面目に語ってみても、ここに陳列されている展示物は、笑ってしまうようなものばかりだ。冷笑さえも楽しめるなど、なかなか出来ない経験だろう。


 熱海の街に降りて海鮮丼を味わって、旅の最後に向かったのは伊豆長岡。前の会社の駅員時代、駅で旅行に行ったことが思い出される。


 行きの特急で助役の指示で酒盛りをやり、車掌にやんわりとがめられ、昔気質の助役の怒りをみんなでいさめ、宿でも浴びるほど呑ませ呑まされ、二日酔いで迎えた朝。

「朝飯を食べながらのビールは旨い!」

と、ご機嫌な助役にドン引きし

「誰も吐いていないのか!? 今の若い奴らは根性がない!」

と、叱られた。宴会で限界を突破した僕は、迷惑をかけないように始末をしたが、こう言われては何が正解かわからない。

 あのような旅行は、もう二度と出来ないだろう。


 失われた文化を惜しんで『列車食堂』を執筆したが、失われたからこそ今がある。こうして弟子たちと対等に過ごせているのは、歴史が行った取捨選択の結果なのだ。

 だからどれだけ怖がろうとも、葛城山かつらぎやまのテラスに上がるロープウェイを拒否する権限は、師匠である僕にはない。


「ごめん、地に足ついていないと無理だ」

「師匠、大丈夫ですか?」

「ケーブルカーならよかったのに……。ああ、崖があるのか、無理だ」

 ロープを支える鉄塔のたび、ほんの少しだけ安堵するが、支柱の車輪を乗り越える際の不安定な振動が、僕の背筋を下から上へ舐め回す。


「師匠、撮りまーす」

「えぇ……撮るの?」

 小さくなった町並みをバックにした僕は、面白いくらいに引きつっていた。熱海ロープウェイは距離が短かったから、我慢出来たのだろうか。


 這々ほうほうていでロープウェイから降りた僕は、逃げるように展望デッキへと向かった。

 緑に萌える鋸歯のこばの稜線、金青こんじょうに塗られた駿河湾、弓形ゆみなりの海岸線に突き出している沼津の港、愛鷹山あしたかやまを従えて裾野を広げる富士の山、すべてが視界に収まっており、ありふれた言い回しだが、まるで一服の絵であった。


 山頂のテラスにはオープンカフェと足湯、異形の水盤が築かれていた。その水盤は海に向かい富士に向かい、いびつな台形に広がっている。

 これが何かは、すぐわかった。山を背にして水盤のへりにカメラを置けば、水に浮かぶ逆さ富士が撮影出来る。そのための異形なのだと、フォトスポットで気づかされた。

 身体を屈めてカメラを構える家族や弟子と、画角を避けて足を止め、遠慮がちに横切っている観光客を遠巻きに眺める。


 この光景はステレオタイプの日本人そのものだ。カメラが好きで、何でも写真に収める。これで眼鏡に出っ歯なら、完璧な外国映画の日本人だ。

「師匠、撮らないんですか?」

 行く手を阻んでしまう申し訳なさと、昔の映画にからかわれるような気がして、僕はスマートフォンを鞄から取り出せなかった。

「いや、いいよ。ちょっと回ろうか?」


 山頂を回り、ロープウェイに身震いしながら山を降り、山麓駅に併設された土産物屋を見て回る。

 会社への土産に個包装のお菓子を、留守番をする猫たちにはなまり節を、そして僕自身には金目鯛の炊き込みご飯の素を買う。二合炊きの素だから近いうちの晩ご飯にして、残りを翌日昼のお弁当に入れよう。


 そうだ、また明日から仕事なんだ。しかも明後日の非番の夕方からは、翌朝までの仕事が入り、それを含めての十二連勤。金目鯛の力添えで乗り切らなければ、この旅行の名残がきっと力になってくれると、買い物かごをレジカウンターに置いた。

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