第6話

 後日。

 約束通り取り計らってくれた璨希さんき殿下のおかげで、私と桂蓮姐さんは蒼玉宮に踏み入れることに成功した。

 同時に汀淑妃ていしゅくひ様ともようやく顔を合わせられたのだが――。


「出ていってちょうだい! あなたも私を笑いに来たのでしょう!」


 むわっと匂いがこもった部屋に入るなり、私の顔めがけて壺が飛んできたのだ。


「うわっ!」


 幸い運動神経はよかったのでサッと交わすと、壺はガチャンという音を立てながら壁にぶつかって砕けた。


 驚いて見ると、普段物静かな汀淑妃ていしゅくひ様は髪を振り乱し、ぎょろりとした目でぶるぶると震えていた。

 淑妃様付きの侍女が、急いで前に滑り出る。


「淑妃様、落ち着いてください! あの方は宝玉治癒師ですよ、淑妃様を助けに来てくださったんですよ!」

「うるさいっ! おまえも夜中にこそこそと抜け出して、他宮の侍女たちと私の悪口を言っていたでしょう! 見ていたのですよ!」

「そんなことはしていません……きゃあっ!」


 なだめようとした侍女をも、汀淑妃ていしゅくひ様は振り払った。それから部屋の調度品を、次々と投げ始める。


「みんなみんな、わたくしが若さを失ったからって、笑っているんだわ! 緋貴妃ひきひ黍徳妃しょとくひ萌賢妃ほうけんひだって、ずっとあの隙間から私を覗いて、笑っている!」


 そう叫んだかと思うと、汀淑妃ていしゅくひ様が今度は顔を覆ってワッと泣き出した。


汀淑妃ていしゅくひ様……」


 私と桂蓮姐さんは、その様子をじっと見つめていた。


 ……激しい息遣いに、充血した目。唇は渇いてかさかさ。普段は深い青を湛えた額玉は濁りきって、ほとんど黒色かと見まごうような色に変貌している。


 それに、部屋にこもるこの匂いはなんだろう?


 私はくんくんと辺りの匂いを嗅いだ。

 部屋に焚かれた香は、白梅香だろう。甘く上品な匂いは高価ではあるものの、妃が焚く香としては決して珍しいものではない。けれど……。


 他にも何か、混じっているよね?


 白梅香の強い匂いの後ろに、ほのかに違う匂いを感じ取ったのだ。


 匂いの源を探りながら、私は口を開く。


「……とりあえず汀淑妃ていしゅくひ様には、早急に安定薬を処方した方がよさそうですね。錯乱に、恐らく幻覚も見えているようです」


 言いながら、私は汀淑妃ていしゅくひ様が指していた窓の隙間をちらりと見る。


 確かに窓には少しだけ隙間が空いているが、だからといってあの隙間から各宮の主である四夫人が覗いていたとは、とてもじゃないが考えにくい。


 私は飛んでくる調度品を避けながら、地べたに座り込んでいる侍女に歩み寄った。


「最近、何か周りで変わったことは? 普段食べないようなものや飲まないようなものを口にしたことは?」

「そ、そういえば……最近見たことのないお茶をよく飲んでいたような」

「お茶?」

「はい、薬湯のような見た目の……」


 けれど、侍女が説明しようとした直後だった。

 ぐるりとこちらを向いた汀淑妃ていしゅくひ様が、カッと目を見開いて叫んだのだ。


「おまえ! またわたくしの悪口を言いふらす気ですか!」

「ち、違います淑妃様!」


 そのまま逆上した汀淑妃ていしゅくひ様が立ち上がる。侍女に掴みかかる気なのかもしれない。


 そばにいた桂蓮姐さんが、サッと私に耳打ちした。


「……一緒に押さえつけようか?」

「いえ、大丈夫です」


 時々、病気などでこういう風に錯乱する妃が現れる。

 女性と言えど本気で暴れられると力では敵わなくなるので、そういう時のために、私と桂蓮姐さんは二人組で行動することが多いのだ。場合によっては、ふたりがかりで押さえて診療することもある。


 けれど今回は、その必要はないと思っていた。


 私はすばやく進み出ると、侍女に掴みかかろうとしている汀淑妃ていしゅくひ様に向かって、サッと両手を伸ばす。


「――汀淑妃ていしゅくひ様」

「あっ……!」


 次の瞬間、汀淑妃ていしゅくひ様は私の両腕の中にいた。


 というよりも、私が腕を伸ばして汀淑妃ていしゅくひ様を抱きしめたのだ。


 ぎゅっと、子を産んでもなお細い体に力強く腕を回し、小さな頭を自分の肩口に押し付けながら私は囁いた。――甘く低く、そして優しい声で、恋人に囁くように。


 汀淑妃ていしゅくひ様の、心の奥底を撫でるように。


様。あなたはずっと、変わらず美しいですよ」


 瑠瑠るる。それは、汀淑妃ていしゅくひ様の幼名だ。


 その名で呼ばれた汀淑妃ていしゅくひ様が、ぴくりと腕の中で震える。

 間髪入れずに、私は頭の中にある数多の記憶を手繰り寄せながら続けた。


瑠瑠るる様の御父君が、いつも幼い瑠瑠るる様を肩に乗せながら褒めていたじゃありませんか。こんなにすばらしい額玉を持つ子は、都のどこを探してもいないと」

「あ……」

「それに、入内の前夜をお忘れですか? 御父君は涙をながしながら瑠瑠るる様に言ったはずです。『瑠瑠、お前の武器は額玉よりも何よりも、その心の美しさだ。それだけは一生変わらないことを忘れてはいけないよ』と」

「あ……あ……」

「あそこに飾ってある水芭蕉みずばしょうの絵も覚えておられるでしょう。皇帝陛下が、『汀淑妃ていしゅくひは、後宮を静かに見守る月のように、たおやかで美しい女人だ』と言って貴方様に授けたものです。水芭蕉みずばしょうの花言葉は“変わらぬ美しさ”。……そこには外見だけではなく、心の美しさも含まれていると私に教えてくださったのは、汀淑妃ていしゅくひ様自身ではございませんか」


 私がひとことひとこと囁くごとに、それになだめられるように汀淑妃ていしゅくひ様の体から力が抜けていく。

 私は汀淑妃ていしゅくひ様の頭を押さえていた手を緩め、穏やかに微笑みながら年を取ってもなお美しい顔を見つめた。


 ……瞳孔は、少し開き気味? でもこれぐらいじゃ異常があるとは言えないな。


 それからかさかさに乾いた汀淑妃ていしゅくひ様の口元に顔を寄せ、くん、と匂いを嗅いでみた。


 途端に、もわっとしたなんとも言えない匂いが鼻を満たす。


 私は目を見開いた。


 なんだ、この匂い。


 臓腑を悪くしていれば、生臭かったりどぶ臭かったり、それにともなった様々な悪臭が口から漂い始める。

 けれど汀淑妃ていしゅくひ様から香ったのは、それらとは違う独特の匂いだった。生薬のような癖のある香りの中に、どこか苦い、煙っぽさもある。


 頭の中で目まぐるしく考えながら、私は優しく語り掛けた。


「だから心配しないでください。瑠瑠様は少し疲れているだけなのですよ。私が薬湯と、それから額玉用の軟膏も処方すればすぐによくなります。今は何も考えず、ただゆっくりとお眠りなさい……」


 言って、私は桂蓮姐さんに目配せした。

 すぐさま察した姉さんが駆け寄ってきて、私たちはふたりがかりで汀淑妃ていしゅくひ様を寝台に横たえる。……さすがにいくら男っぽいとは言っても、腕力には残念ながら自信はないのだ。


 汀淑妃ていしゅくひ様はまだ呆然としているものの、少し落ち着きを取り戻したようで、言われるがままじっと寝台に横たわっている。


 私はまだ震えている侍女を呼び寄せると、そっと囁いた。


「これから、宝玉治癒師が用意した粥と薬湯、水以外は何も食べさせないように。何か異変があれば、すぐに教えてください」

「は、はい……!」

「それから、これは汀淑妃ていしゅくひ様の軟膏です。毎日朝夕に塗れば、額玉の輝きは少し戻るでしょう。ただし、他の人の額玉には決して塗ってはいけませんよ」


 言って、私は軟膏を握らせた。

 これは蓖麻子油ひましゆに、砕いた蒼玉サファイアの粉、すりつぶした茉莉花の実などを混ぜたもので、汀淑妃ていしゅくひ様――もとい、蒼玉の額玉専用の軟膏になっている。


 一般的な鉱物に脂は厳禁とされているが、人体についている額玉は別だ。むしろ人の肌同様、脂を混ぜた軟膏を塗ることで輝きを取り戻したりする。


 この軟膏は額玉の種類によって全く違ったものとなり、調合方法は何百、何千通りにも渡る。それを全部覚えるのも、宝玉治癒師の仕事だ。


 やがて汀淑妃ていしゅくひ様が少し落ち着いたのを確認すると、私たちはいったんその場を離れた。


 房間を出てすぐさま、桂蓮姐さんが囁いてくる。


「あんた……よく汀淑妃ていしゅくひ様の幼名を覚えていたね。それに、御父君との思い出は、あの場でのでっちあげかい?」

「でっちあげたりなんかしないですよ」


 私は笑った。


「淑妃様ぐらいの方ともなれば、あちこちから色々な情報が入ってくるんです。それに煌珠こうじゅ宮にいる妃嬪は全員、名前と家族構成、生い立ちぐらい覚えていますよ」

「妃全員!?」


 桂蓮姐さんがぎょっとしたように言う。


煌珠こうじゅ宮には、二百五十八人もの妃がいるんだよ!? それを全員覚えているのかい!?」


 私は首をかしげた。


「何故そんな驚くんです? 軟膏の種類に比べればずっと少ないじゃないですか」

「まあそうだけども……! あんたって子は……!」


 桂蓮姐さんはしばらく絶句していたようだった。けれど気を取り直したのか、はぁと大きくため息をついて続ける。


「まあいい。それより、抱きしめた時にこっそり臭いを嗅いでいただろう。どうだった、臭いはしたかい?」


 私は首を横に振った。


「いえ、青臭い匂いや甘い匂いはしませんでしたよ」

「おや、そうなのかい。あたしはてっきり……」


 そこまで言って桂蓮姐さんは言葉を切った。

 きっと姐さんも私と同じように、錯乱作用があって禁止されている実や花を煎じたのかと思っただろう。


 けれど、それらの匂いは嗅ぎ取れなかったんだよね……。重要な部分だから、匂いは頭の中に叩き込まれていて間違えるはずがない。


 私は思い出しながら、次の目的地の方を見た。


「さっき、侍女に茶房の位置も聞きました。次はそこを調べましょう」

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