それぞれの、怖いものの話

※2年生くらい……?


 上崎先輩から引き継いだ学生会の手伝いを終えた午後五時半。帰寮するために歩いていた俺は、職員宿舎の並びまでたどり着くと、見上げた先にある光景に違和感を抱いた。


 男子寮は目の前の建物の二階の最奥、二〇一号室なのだが、なぜか扉が開いたままになっている。


 あ、先生帰ってきてたんだ。


 先生の方が帰りが早いことは稀にあることだが、こう長いことドアが開いたままなのは変だ。来客はそう滅多にあるものではない。ただ、先生はよく通販を利用する。


 宅配便に応対しているのだろうと結論し、『怖い映画でないといいな』と思ったその瞬間、


「ひいっ」


 ここから姿は伺えないが、先生のうわずった声がかすかに聞こえた。何だか様子がおかしいと直感して、目の前の階段を全速力で駆け上がった。


 先生はひとり。外廊下の手すりを背に、半分腰を抜かしたような格好でかろうじて立っている。


「先生!! どうしたんですか」


「環くっ!!」


 そばまで駆け寄ると、真っ青な顔をした先生が俺を突き飛ばすように玄関に押し込んだ。戸建ての玄関とは違い、靴を四足も横に並べればいっぱいになるほどの広さなので、勢いのまま上り框につんのめりそうになる。


「先生、なんですか一体!?」


 またお得意のサプライズか!? 顔を上げたが、特に部屋の様子に変わったところはない。


 まあ、俺の背中には、綺麗な大男がくっついているが。


「出たんだよ、環くん!!」


「で、出たって何が?」


 自分より七つも年上でましてや教師が、学生の肩をしかと掴んでガクガクと震えている。紺野先生がつまるところ怖いもの知らずという話はこの学校では有名なので、側から見るとちょっと妙な光景だろう。


 まるで幽霊でも見たような、と喩えるのが適切だが、先生はそんなものを恐れるような人間ではない。怖い映画は古今和洋問わずだいたい友達だと豪語する人である。


「あそこ……」


 しかし、先生の声は干上がっていてほとんどため息のようだった。俺の肩越しに伸びた震える指の先におそるおそる目線を滑らせると、そこには幽霊などではなく、テカテカと黒光りする平べったい昆虫がいた。


「お?」


 つまるところあの有名な害虫のことだが、名前はあえて言わないでおこう。


 ……まあ、『アイツ』的な表現にしとこうか、とりあえず。


 ヤツは怯える先生を嘲笑うかのようにキッチンの壁に我が物顔で張り付き、長い触覚を得意げに動かしている。


「い、いるだろう……?」


「あの、先生。もしかしてアイツ苦手なんですか?」


 肩の後ろを振り返ると、先生はどこかの赤い民芸品みたいにカクカクと頷いた。


「アイツが苦手じゃない人間なんてこの世にいるわけがないだろう!?」


 珍しく声を裏返した先生は、俺の両肩を掴む手にさらに力を込めた。女性と見紛うほどの顔をしていても、やっぱり男性なので力が強くてまあまあ痛い。うめき声が漏れそうになったのはギリギリのところで我慢した。


「いやあ……うーん」


 まあ、慣れてるしな、と声に出す代わりに息を吐く。


 ど田舎の古い家で育ったからか、これまでの人生はコイツと鉢合わせするなんてしょっちゅうだった。だからこうして遭遇したところで、『害虫だな』以上の感情を抱くことはない。


 個人的には、コイツはムカデと違って噛まない分まだマシだとと思う。とはいえ病原体を持ってると言うし、先生も怖がっているのでさっさと退治しておくべきだろう。


「まさか、こっちに飛んでは来ないよね!?」


「うーん、羽があるから飛ぶ時は飛びますね」


「ヴワアアアッ」


「うぐっげ」


 先生は聞いたこともない野太い悲鳴をあげ、俺の肩を掴む力をさらに強くした。痛い、さすがに耐えきれなくなって、変な声が漏れてしまった。


 そこまで苦手なのに、敵を知ろうとはしなかったのか。いや、わざわざそのために嫌なものを見たくはないか。俺も似たようなところがあるので気持ちはわかる。


 それはともかくとして。このままだと肩を潰されそうなのでとにかく早く殺虫剤かスリッパを……と思ったが、さらに動揺したらしい先生にがっちりとくっつかれて動けない。さてどうするか。


 何秒か思考し、自分は強力な武器を持っていることに気がついた。こういう時に、母親は魔術で退治していたことを思い出したのだ。


 そうと決めれば。魔術書タブレットは自室の机の中なので、頭の中を探って使えそうな術式を探す。


 父親直伝の魔術を使ってしまうことになるが仕方ない。魔力の循環の仕方が違うのでこちらの魔術師の前では使うことができないが、魔力を感知できない紺野先生の前なら問題ないだろう。


 今までに習った魔術を思い出し、術式を、圧縮した魔力を弾丸として射出する攻撃術に決めた。


 ごめんな、と手を合わせてから魔力を練る。監視センサーにかからないよう、出力は極限まで絞る。


 そのまま壁にくっついたままのアイツに狙いを定め、魔力を輪ゴムを飛ばすように一気に外に押し出した。


 空中を走った火花を食らったアイツはバチンと音を立てて吹っ飛び、天井にぶつかって床に落ちた。ダイニングの隅で、ひっくり返ってぴくりとも動かない。かわいそうだが、駆除には成功した。


「はい、やっつけました。もう大丈夫ですよ」


「ほっ、ほっ、本当はダメだけど、助かったから目を瞑ろう。はあ、僕は、本当に本当に虫がダメで」


 今のが魔術であることだけはわかったらしい紺野先生は、その場に力なくしゃがみ込むと、長距離を走り抜けた後のように肩で息をしている。


 顔は氷で冷やされたかのように青くも、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。よほどアイツが嫌いなのはわかったが、この様子を見ているとどうしても疑問が浮かんでしまう。


「……えっと、確か、虫がウワーって出てくる映画は平気でしたよね?」


「何を言うんだ!! 画面で見るのと現実にいるのとではずいぶん違うよ環くん!!!!」


 先生はらしくなく、顔を真っ赤に染めて声を荒らげた。いつもの様子からは想像できない取り乱した様子に、俺はちょっと戸惑った。


 そう以前、先生主催の映画鑑賞会で虫が画面を埋め尽くす系の映画を見せられたことがある。その時の先生は激辛のスナック菓子をバリバリ食べながら楽しそうに笑っていた。


 虫が平気な俺でも気分が悪くなるような絵面を楽しめるのに、たった一匹の黒いアイツにここまで恐れおののいているなんて不思議すぎる。


 とはいえ、だ。


「まあ、そうですよね。ゾンビや殺人鬼が本当に目の前に現れたら俺もビビります」


「だろう!? そういうことだよ!!」


 まあ、ちょっと違う気もするけど。そういうことにしておこう。


 込められた力が緩んだのでひと足先に部屋に入り、小さな亡骸をティッシュに包んでゴミ箱にそっと捨てた。その様子を半分開けた玄関ドアから覗いていた先生は、安心したのかようやく動き始める。


 先生は靴を脱ぐとそのままダイニングを横切り、自分の部屋へと入っていった。先に荷物を置きに行ったのだろう。俺は先に手を洗うために洗面所の扉を開けた。


「たまっ、たまきくうううん」


 いつもより念を入れて手を洗っていると、先生の部屋から再び情けない声が響いた。


「今度はなんですか」


「お、大きなクモが!! 手のひらくらいの!! もし、ど、毒グモだったら」


 今にも泣き出しそうな先生の部屋を覗くと、網戸に特大のクモがくっついていた。その大きさと、アイツを食べることで有名なあのクモだ。


「毒はないので大丈夫です、益虫なのでそっとしておいてあげてください」


「ひええっ」


 先生はさらに涙目になっているが、無駄な殺生はしたくない。あらかた、この部屋にアイツの気配を察知して食事にやってきたというところだろう。


 ◆


「あら、意外よね。紺野先生に怖いものなんてないのかと思ってたわ」


 ところ変わって雪寮の談話スペース。俺は夕食後のひと時を珠希さんと森戸さんの三人で過ごしていた。紺野先生は、今夜中にやらなければならない仕事があると言って一足先に帰寮している。


 さて、向かいに座る森戸さんの言葉は、おそらくこの学校の学生共通の認識だろう。そして一年と少しの間、先生と一緒に暮らしている俺でも本気でそう思っていた。


「俺もびっくりした。本気で怖がってて、なんか女の子みたいだって思った」


 麦茶のボトルのキャップを捻りながら言うと、森戸さんが口を尖らせる。


「やだ、女の子はこうなんて決めつけないで欲しいわ。別に虫は得意ではないけれど、大声を出したり腰を抜かすほどではないわよ」


「あれ、意外だな」


「私も。出会ったらびっくりはするけど、泣いたり叫んだりはしないかな。ここにもたまに出るしね」


 珠希さんは笑いながら言って、森戸さんも「そうそう」と頷いた。


 正直、女の子はもれなく虫を怖がるものだとばかり思っていた……が、確かに母親も嫌がりはしつつもそこまで騒ぐことはなかったし、人によるのだろう。


 思えば山を切り拓いて建てられたこの学校は、隅々まで自然にあふれている。見かける虫も心なしか大ぶりなものが多い気がするし、トカゲやヤモリ、カエルやヘビもよく見かける。


 それらをいちいち怖がっているようでは、ここではやってけないのだろう。


 森戸さんはうーん、と言って水の入ったボトルに口をつけ、目線を少し上に置いた。


「まあ、私は虫よりも雷の方がずーっと怖いわね。音も大きいし、万が一落ちて当たったりしたら死んじゃうでしょ。あとはね、ああ、怒ったお母さんとかね」


 人差し指で頭にツノを立て、くすくすとイタズラっぽく笑った森戸さんに、頷いてみせた。そこに、うちの母親の怒り顔がうっすらと重なる。


「ああ、うちの母さんも怒ったらめちゃくちゃ怖いな……そうだ珠希さんは、怖いものってある?」


「私? えっと……うーん」


 珠希さんが丸い目を寄せ、指をもじもじと組んでいる様子をじっと見つめた。


 彼女は肝試しで作り物のお化けを可愛らしく怖がる一方で、俺を助けるためにと自らの命を張れる胆力も持ち合わせている。


 だから、その口からいったいどんな答えが出てくるのか、全く予想ができなかった。


 珠希さんが、ゆっくりと桜色の唇を開く。


「強いて言うなら……ひとりが怖い、かも」


 ころりと落ちてきた言葉に、俺は、なるほどな、と思った。そういう『怖い』も確かにあると思うし、気持ちはなんとなくわかる。


 かつて、『たったひとり』である自分が何者なのかよく分からなかった時、俺も恐怖に似た冷たい感情を抱いていたからだ。


「的外れだったかな」と小さくつぶやいてどこか恥ずかしそうに、寂しそうに俯いた珠希さんに、隣に座っていた森戸さんがつかみかかる勢いで抱きついた。


「きゃっ」


 そのままぐりぐりと頭を撫でられ、珠希さんが小さな悲鳴をあげた。顔がほんのり赤いので、首が締まったのかと心配になったが。


「大丈夫。ひとりになんかしないわよ……ねっ、香坂くん」


「お、おう」


 森戸さんから急に振られたので反射的に頷くと、珠希さんはもとから丸い目をさらに目を丸くし、そして、とろけるように目尻を下げた。


「えへへ。ふたりとも、ありがとう」


 愛しい笑顔に、なんだか飴玉でも放り込まれたように甘く幸せな気持ちになった。


「おう」


「はーい、どういたしまして」


「えへへ」


 そこからしばらくの間、女の子同士のじゃれ合い楽しい気持ちで見守ってから、雪寮を後にした。


 ふたりはこれから風呂に入って、それから部屋で雑談するのだという。俺もこの後にやるべきことをひとつずつ頭に浮かべながら、男子寮までの短い道のりを歩いた。


 そういえば、ひとつ気づいたことがある。俺が恐れるものをうひとつ挙げるとしたら、珠希さんのことだと思う。


 もちろん彼女自体が怖いというわけではない。彼女の平穏を脅かされるのが怖いのだ。さらに突き詰めていうと、失ってしまうのが怖い。


 ずっと恋人のままでいたい、というのとはまた違う、もっと根本的な意味で。


 彼女はいつも朗らかに笑っているようで、まるで深淵に臨んでいるかのように、瞳に暗い影がさして見えることがある。それは強い諦観の念、とでもいうのだろうか、うまく言葉にまとめて表すことはできないのだが。


 とにかく、彼女はいつかふっと幻のように消えてしまうのではと、悪い予感が顔を覗かせるのだ。


 いや、それは俺もか。


 立ち止まり、足元に落ちた影を見る。夜を照らすためのいくつかの光源が重なって生み出した影は、陽の光が生むものに比べるとはるかに薄く、輪郭がぼやけて、揺れているように見える。


 俺もまた、この影のように曖昧で危うい存在だ。得体が知れないもの、世界を壊すものと恐れる人間もいることを知る機会もあった。それはおそらく、実直に誠実に生きていても拭うことができないもの。


 それでも、恐くても、立ち向かうしかないのだが。


 階段を上がって男子寮のドアを開け、キッチンで珍しくコーヒーメーカーを動かしていた最中の紺野先生に、戻りました、と挨拶をした。


 先生はすでに入浴を終えたらしく寝衣に身を包んでいた。洗濯機の回る音が規則的に響いている。


「環くん。おかえり、ずっと待ってたんだよ」


「アイツが出たときにひとりだと怖いからって意味ですか?」


「あはは……そうとも言うね。ああ、君も飲むかい? 多めに淹れたから」


 先生が自分のカップに並々とコーヒーを注ぎながら笑う。たちのぼる香りを吸い込むと、先ほどまでの不安が鎮まっていくような気がする。


「ありがとうございます、でも遠慮しときます。間違いなく眠れなくなるんで」


 コーヒーを好む父親の影響もあってか、近頃はこの匂いが心地いいと思うようになった。やっぱり牛乳と砂糖はたっぷり欲しいが、好物にもなっている。


 昼間なら喜んでご相伴に預かっていたところ。しかし今は午後八時過ぎなので、カフェインのせいで眠れなくなってしまうと困る。甘くしたら平気かと思っていた頃もあったが、ダメだった。先生みたいな玄人はともかくとして、素人が夜飲むものではない。間違いなく明日に響いてしまう。


「ああ、それもそうだね。たっぷりと寝て、健やかでいてもらわないと」


「先生も、ほどほどにしてちゃんと寝てください」


「肝に銘じるよ。ああそうだ、スマホが何度か鳴っていたように思うから、机の上に置いてあるよ」


「ああ、ありがとうございます」


 個人所有のスマホは寮の規則によって、普段は先生に預けている。部屋に引っ込むとまず、机上のスマホを手に取る。


 メッセージアプリの新着通知。地元の友達と、それから。


『さっきは、ありがとう。怖いってそういうことじゃないって笑われるかと思っちゃったから、ちょっと安心』


 花冠をかぶったピンクのうさぎのスタンプがくるりと踊る。


 椅子に腰を下ろしてから、キーボードの上で指を滑らせていく。近頃は入力するのがずいぶん早くなった。


 ……なんだこれ?


 思ったままに綴った言葉に、いったい何を言っているんだろうと気恥ずかしくなりながらも、思い切って送信してしまった。


『俺もひとりは怖いから、ずっと一緒にいて欲しいな』

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インコンプリート・マギ〜余録/ひとひらの物語 霖しのぐ @nagame_shinogu

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