第15話 格子戸の外

 鳴り続ける電話に布団から這い出そうとして音が途切れた。義母か頼次よりつぐが電話に出たのだろう。目を擦って薄めを開けて見ると、数年張り替えていない黄ばんだ障子が明るくなっている。もう少し寝るかと布団に潜り込むと部屋の外から声が掛けられた。


義兄にいさん、起きてます?」

「ん――……寝てる」


 襖が開く音がしたので布団の隙間から見上げると、朝食の箱膳を持った頼次が廊下に立っていた。


「もう昼前です。また行灯の明かりで絵を描いていたんですか。いくら節約してるからって電気くらいは付けて下さいよ。火事になるじゃないですか」


 頼次は箱膳を廊下に置き、部屋一杯に広げられた麻紙ましを踏まぬよう慎重に入ってくると行灯の火を吹き消した。


 それから障子を開け外廊下に出ると硝子障子も開けてしまう。ひやりとした空気が忍び込んできて、信乃しのは裸足の足を重ねて一層背中を丸めた。文句の一つも言おうかと思ったが、布団を引き剥がされる前に起き上がることにした。


「まだ骨書きだから行灯の明かりでも十分だよ」

 頼次は散らばった紙を拾い集めて部屋の隅に寄せ、作業台になっている座卓に置き場がないのを確かめると箱膳を畳の上に置いた。


「――義兄にいさん。やはり母屋で食べませんか?」

「私がいると義母かあさんの機嫌が悪い」


 毎朝のお定まりのやり取りだ。信乃がばつが悪そうに目を逸らすのはいつものことだが、今日は少し様子が違った。室内を見廻すと頼次は書棚に立てかけてある外しかけの額縁を見つけた。


「これ、どうしたんですか?」

「描き直さないといけなくなってね」


 信乃が額縁を裏返して外すと、上塗りがひび割れてしまった油絵の下から酷く撚れた日本画が現れた。

 丈夫な和紙で描かれたそれは、破れてはいないものの放射状に何か重い物を押し付けたような皺が入っている。


「これは酷い――もしかしてあの黒トンビ野郎の仕業?」

 今にも飛び出していきそうな剣幕の頼次に、信乃は慌てて首を振った。


「事故だよ。ぶつかって落とした絵の上にたまたま彼が座ってしまったんだ。蕎麦か団子でもと思って桜を見ながら寄り道していた私が悪いんだ。幸い納品日が延びたから描き直す時間はあるし」


 あの日、信乃は久々の自由な外出に浮かれて少し寄り道をしていた。屋台には少し早く、どうしようか迷っているとあの男が飛び出してきた。道の真ん中でぼうっとしていた自分も悪いが、まさか真っ直ぐ突っ込んでくるとは思わなかったのだ。


 蕎麦と団子は台無しになったが、代わりにカステイラを食べたことは頼次には黙っておく。


「またそんな簡単に言って。時間だけが問題じゃないでしょ。描くのにどれだけの労力がかかると――まさかそれで徹夜を?」


「二作同時は今までもあったから大丈夫だよ。幸い仕事も辞めて使える時間も増えたし」

「まったく、用事さえなければ義兄さんを質屋になんて行かせなかったのに」


「お前は顔役の集まりがあったし、義母かあさんも来客で手が離せなかっただろ。納品延期の連絡が行き違いで受け取れなかったのだって、運悪くたまたまが重なっただけだ。今更嘆いても仕方がないよ」


 信乃は昨夜から着たままになっていた作務衣さむえから淡色のあわせに着替えると、裏葉色の羽織を肩に引っかけた。


 半ば寝ぼけながら引っ張り寄せた座布団に座ると大あくびが出る。

 信乃は頼次が持ってきた箱膳の蓋を開けて中身を取り出すと、蓋を箱の上に置いた。出来上がった簡易のお膳に茶碗を載せ替え箸を持って手を合わせれば、頼次がふくれっ面をしながらもどうぞと手を差し出した。


「僕から母さんにもっと日にちを遅らせるように言おうか?」

「そんなことをすればお前にまでとばっちりがいく。お前は大人しく表向きの用事だけしてればいい」


 信乃は半ば冷めた味噌汁をかき混ぜる。飲まずとも具が透けて見え、味噌が薄いのは丸わかりだ。


 ――今日はまかないいさんの出勤日ではなかったのか。


 住み込みの女中を雇うほどの財力も残っておらず、日帰りで賄いさんを頼んでいるが、それ以外の日は義母が自分で料理を作っている。


 作ってもらっている以上文句は言えないが、問題は義母は信乃の分だけ残った汁に湯を足し増したり、おかずを一品減らしたりする。義母は決定的な事こそしないが、こういった外からは見えない下らない嫌がらせをしてくる。


 理由は明白だ。

 今の状況では頼次は深山家を相続することができないからだ。嫡男の信乃が生きている限り日本国内どこに行こうが家督を放棄できない。

 それが彼女は気にくわないのだ。


「頼次、新しい絵を用意しておいてくれないか。この油絵は人に見せてしまったから使えなくなった」

「そんなのまた自分で描けばいいじゃないか。義兄にいさんがこっそり油絵も描いてるの知ってるんだよ。展覧会にだって出せば一等だってとれるはずだろ」


 頼次は両手の指先を合わせると子どものように口を尖らせた。


「そんな時間はないし、これは隠すために仕方なく描いた絵だ。私の絵を外に持ち出す危険はやはり避けるべきだった」


「でも!」

「主客を転倒してはだめだ。私とお前がやるべきことは何をおいても家を守ることだ」


 頼次が黙らざるを得ない言葉を使ってしまい、信乃の中で長年堆積した泥の表面が掻き乱されて舞い上がる。信乃は泥が沈み終えるまで、黙々と箸を口に運び続けることにした。


 食べ終えた茶碗を箱膳に片付けると、信乃は押し入れの天袋から小ぶりの折鞄おりかばんを引っ張り出した。察した頼次が慌てて腰を浮かす。


「寝不足でどこに行くつもりだよ」

「白絵の具が無くなってしまったから買い足しに。近くにあればいいんだけど」


「それくらい僕が行くから!」

 息巻いた頼次の肩を押さえて座らせると信乃は諭すように言った。


「できる限り同じ店に行くなと言われただろう。絵を描かないお前が画材屋に行くのは目立つ。それに私が出かける理由まで取り上げないでくれ」


「……母さんには僕から言っておくよ。でもあまりうろうろしないで。また閉じ込められてしまう」


「絵を描いてれば、どこにいようがあまり変わらないよ」


 この部屋には襖や障子の内側にもう一つ敷居があり、戸袋に格子戸が格納されている。引き出して鍵を掛ければ牢のように使うことができるのだ。


 そんなものがいつ作られたのかは分からないが、作られた理由の察しはつく。隣接して小部屋もあるのだが、入り口を隠すように長いのれんが掛けてあり、気味悪がって頼次も入ろうとはしない。


「だから、そうならないようにって言ってるんだよ!」

 頼次は箱膳を掴むと床板が抜けそうな足音をさせながら母屋へと戻って行った。


「そういう所が義母かあさんに似てるって言ったら、あいつは怒るだろうな」


 ぽつぽつと濡れ縁を叩く音が聞こえてきた。硝子障子を開けると蒸れた土と濡れた葉の匂いがする。


 振り仰ぐと西に分厚い雲が見え、昼頃には本格的に降り出しそうだ。


 買い物を延ばすことも考えたが、一日納品が遅れる毎に義母に難詰されるより、雨に濡れる方がまだしも良いはずだと信乃は重い腰を上げた。

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