第14話 貯古齢糖

 寿太郎じゅたろうは生温かい息遣いで目が覚めた。


「わっ……!」

 朝ごはんを催促する子犬を顔から引き剥がして起き上がる。


 そう言えば寝る前に名刺を眺めていたはずだ。どこに行ったのかとシーツに手を滑らせて探るとくしゃくしゃになった名刺が出てきた。慌ててよれよれの名刺を両手に挟んで叩いていると子犬が名刺に飛びついてきた。


「こら、これはオモチャじゃないって!」


 名刺は体の下に敷き込んでいたお陰で子犬にぼろぼろにされずに済んだが、いくら叩いてもそれ以上皺は伸びなかった。諦めてデスクのクリップに挟んでから伸びをする。ずっと子犬が乗っていたからか身体が痛い。


 両開き窓のカーテンを引くと、曇ってはいるが雨は降っていないようだ。低地のネーデルラントも雨は多いが日本の春に比べれば断然少ない。


 降り出す前に出かけた方がいいのだろうが、訪問を告げる電話をするには早すぎる時間だ。

「とりあえず風呂シャワーと朝飯だな」


 身支度を調え子犬の世話も一通り終わると、寿太郎は電話があるという一階の応接室へ向かった。


 卓上電話機は壁際のチェストに据え付けられていた。寿太郎は受話器を取ってハンドルを回し交換手を呼び出すと、名刺の番号を告げた。しばらくガチャガチャと耳障りな金属音がした後、女性が電話口に出た。


「ハロー……あ~もしもし高村と申しますが、信乃しの先生はいらっしゃいますか?」


 寿太郎が告げると女性は妙に甲高い作り声で「何のご用でございますか」と開口一番に言ってきた。寿太郎は言葉に含まれたとげとげしさを感じつつ、壁に掛かった油絵を眺めながら言った。


「先日のお礼に伺いたいと思いまし――あ!? ちょ、ちょっと!」


 全てを言い終わる前に通話は切れてしまった。慌てて通話終了のハンドルを回して一旦回線を切ると、もう一度ハンドルを回して交換手を呼び出す。


 再度出た交換手に切断の原因を尋ねたが「お掛け直しください」と壊れた蓄音機のように繰り返すだけだ。


 原因の追求は諦めてもう一度番号を伝えて電話を繋いでもらったが今度は「先方が出ないようです」と通話自体が始まらなかった。


 寿太郎は受話器を握りつぶす寸前で電話機に置いて、壁を殴りつけそうになったが何とかそれも思い止まった。

「行った方が絶対に早いなこりゃ」




 山手線と市電を乗り継いで、上野駅から東へ歩き住所を頼りに深山家を探す。あまり近づきすぎないよう手前の路地に入ると、二人の女性が溝に溜まった桜の花びらを浚えているのを見かけた。


「ちょっとお姉さんたち、少し話を聞かせて欲しいんだけどさ」

「お姉さんって、あたしらの事かい?」


 女中たちは寿太郎の顔を見て「異人さんかしら」と囁き合っている。寿太郎はできる限り愛想良く、斜向かいにある武家屋敷の方を指差して言った。


「向こうの大きなお屋敷に仕事で来たんだけど、電話が繋がらなくて。あそこのご主人っていつも留守なのかな?」


 二人の女中は訝しげな表情で顔を見合わせている。寿太郎は鴨井にもらった文部省名義の名刺を出して女中たちに見せた。途端に好意的な態度になった女中たちは早口で話し始めた。


「あそこのご主人は三年ほど前に亡くなられたわよ」

「え、おかしいな。有名な絵描きさんがいるって聞いて来たんだけど」


「絵描きだって? 聞いたことあるかい?」黄色の絣を着た女中がもう一人に訊いた。

「そら、大昔の事だわ。深山の爺様の代よ。私が来た時には代替わりしてたから細かいことは分からんさね」


 寿太郎はもう少し掘り下げて聞いてみることにした。

「じゃあ今は奥さんだけで切り盛りしてるのかな?」


「後妻よ、後妻。ご病気で亡くなった奥様に息子さんが一人いたけど、アレだからって後妻の子が町内会を仕切ってるわ」


 後妻の子とは美術館で信乃を迎えに来た頼次よりつぐという男のことだろう。寿太郎を睨んできた幼さを残す丸顔を思い出す。連れ子同士、道理で信乃とは似ていないはずだ。寿太郎は初めて聞いたかのように驚くと女中の言葉を繰り返した。


「アレってなんのこと?」

「ええ、まあほら……なんていうのかしら……ねえ」「ええ……ふふふ」


 二人の女中は恥ずかしそうにしながらも、くすくす笑っている。寿太郎が耳を寄せると年嵩の方がこっそり耳打ちをしてきた。


「種なしなんだってさ」

「あらやだ私は衆道だって聞いたわよ」


 ただ面白いかどうかだけで伝播していく謎情報に寿太郎は頭を抱えた。中には本当の事もあるのだろうが、世界中どこの国でもおばちゃんの拡散力というものは恐ろしい。


「いやいや、それ本当なの?」と寿太郎。


「本当かどうかは分からないけど、小さい頃に熱病にかかったってのは本当よ。実際、あそこの長男は滅多に外に出てこないもの、ねえ」


「病弱だからって家督は後妻の息子が継ぐとか継がないとか。まあ噂よ噂」

「あんなに綺麗なのにねえ、もったいないわ。お兄さん、どう?」


 ――どうって、よく分からない情報を元に薦めるなよ……。


 ネーデルラントはかなり柔軟な考え方をするお国柄だが、それでもまだまだ信仰による縛りは厳しい。

 しかし、一番そういった事に口うるさそうなおばちゃん連中が普通に同性をお勧めする所を鑑みるに、この国ではそういった忌避はとても少ないのかもしれない。


 唖然としている寿太郎に二人は「お似合いよと」口を揃えて囃し立てる。そろそろ軌道修正しないと話がどんどん脱線していきそうだ。


「それは会ってみないとなんとも。ちょうど今から行くつもりだったから――」

「あ、それは無理じゃないかしら。あそこの後妻さんは紹介がないと箒で追い返すわよ」


 女中は両手の人差し指を頭の横にやる。何のジェスチャーか分からなかったが、奥の手を出すなら今だろう。


「じゃあ行っても無理そうか……持ってきた土産も無駄になりそうだ」


 寿太郎はポケットから貯古齢糖ちよこれいとと描かれた箱を二つ取り出す。鮮やかな赤い色の舶来菓子の箱をチラつかせ、釘付けになっている二人に寿太郎はにっこりと笑った。


「お姉さんたち最後にもう一つだけ聞いていいかな。深山の本宅ってこの近くなの?」


 二人はまたも顔を見合わせた。

「あそこが本宅よ。どこかの藩のお抱え絵師だったとかで、昔は地方に親戚もいたらしいけど秩禄処分で散り散りになって、一族はあの一家しかいないってうちのお婆ちゃんが言ってたわ」


 後で調べるため寿太郎が難しい言葉を口内で繰り返していると、黄色い絣の女中がそれに気付いて説明を付け加えた。


「お殿様からお給料が出なくなったってことね。先々代の時に家財や田畑をお上に売り払ったりしてやりくりしたみたいだから、あのお屋敷が最後の財産じゃないかしら」

「後妻さんは金遣いが荒いのかもねえ」


 ――本宅しか残ってないのなら、白茲はくじは信乃の父親で決まりか。


 それにしても両親は他界し親戚もおらず義母と義弟だけなら、信乃は本家筋最後の一人ということになる。信乃はなぜ「一門」などと回りくどい言い方をしたのだろうか。


 どこかで雨戸が開く音がした。女中たちが急にそわそわし出したので寿太郎は潮時だと思い手に持った貯古齢糖を一つずつ渡す。


「いやー、お姉さんたちのお陰で助かった。また出直すかな。溶けないうちに早めに食べちゃって」


 女中たちは寿太郎の渾身の笑顔に頬を染めながら、いそいそと袂に菓子をしまう。


「お兄さん。さっきの話、私たちが言ったって誰にも言わないでおくれよ」

「もちろん。お姉さんたちも俺から貰ったこと内緒にしてよね」


 女中たちは頷くと、そそくさと自分の持ち場へと戻って行った。


「ま、取りあえず乗り込んでみないと分からないよな」

 ぽつりと足元に雨が落ちてきた。見上げれば分厚い雲が西に見える。


 寿太郎はポケットの中から銀時計を取り出すと時刻を確認し、深山家に向かって歩き出した。

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