02 虎になるんだぁ!

「……うっ!」


 思わず足を止め息を飲んだ。

 この船には無いはずの物。僕とアスランしかいない船で、どちらも置くはずのない物。薄暗い通路の真ん中に、虚ろな瞳のままに転がり落ちていたのは……。


「ぬい……ぐるみ?」


 手のひらサイズの、灰色の四つ足の動物だ。

 妖しく輝く赤黒い目に、二つ並んだ小さな皿のようなものは耳だろうか。いずれかの本で見たような気もするが名前は思い出せない。ずんぐりとした形状は、とても俊敏性があるように見えなかった。

 拾い、手に取ってから僕は顔をあげる。

 これが動いていた物の元凶……には見えない。そして再び、ずる、と通路の向こうから響くものがある。


 アスランを、置いてこなければよかったと思い始めている。けれど今更戻っては、音の元を見失ってしまう。


 僕は灰色のぬいぐるみを手に進む。

 音の主は迷っているように、通路の右を、左をと折れ曲がり進んでいる。その道なりに、ひとつ、またひとつとぬいぐるみが転がり落ちている。

 気づかず落としているのだろうか。それとも……僕を誘い込む罠、だろうか。


「だとしても、捕まえるまでは戻らない」


 通路の両壁にそびえる本棚の間、進む足を速めていく。

 対処できる相手であることを願いながら。進み、駆けて、曲がった通路の先に――。


「いない?」


 しん、とした暗闇だけが続いている。

 ただ少し先に落ちていたのは……。


「ぬいぐるみだ」


 近づいて行って身を屈め、拾う……その背後に――。


 巨大な影。


 振り向く僕。


 目の前に、爛々らんらんと輝く瞳があった。


 大きな牙と太い前脚。ぽとり、ぽとり、と零れ落ちるのは……ぬいぐるみ、か?

 そして見下ろす影も……。

 

「タネル!!」


 声が響いた。

 巨大な影の向こうから飛んで来た本を、僕は咄嗟とっさに受け止める。


 風のように駆けて来たのはオレンジ色の虎猫、アスランだ。

 しなやかな動きで大きな相手を踏みつけ、飛び越え、僕との間に着地する。ぴんと立った耳に毛は逆立ち、尻尾が三倍ぐらいに膨れている。牙を剥き出し、滅多に出さない「きしゃぁぁあ!」という声で、大きな影はわずかに後退った。


「くっそ重たかったぞ!」

「あぁぁ……本に噛み痕がついてる」

「修繕は後だ、下がってろ!」


 のそり、と一歩前に出たのは、アスランと似た縞模様の体だ。似てはいても、模様は赤茶と黒でハッキリ分かれている。

 これは以前、本で見た……。


「本物の……虎……」

「んなわけあるか! あいつは本から抜け出したぬいぐるみだ!」


 緩慢な動きで前脚を振り上げる。それをアスランはひらりと交わし相手の鼻先に噛み付いた。ぐわ、と後ろ足で起き上がり通路の天井にぶつかる。左右の本棚から本が崩れ落ちる。

 アスランはそれをもひらりとかわして床を蹴り、再び鼻先に噛み付いた。

 ぬいぐるみが呻く。


「おれ……は、とら……」

「うるせぇ! ここはオレ様の縄張りだ。てめぇはただの、ぬいぐるみなんだよ!」


 叫んで「タネル!」と呼ぶ声に、ハッとして本を開く。

 ページは文字や図が消えてしまった所。僕は虎のぬいぐるみに、開いたページを大きく向けた。


「がるぉおおおおおん!」


 アスランが首元にかぶりと噛みつき、ぬいぐるみが咆えた。

 咆えて暴れながら、僕の方へと倒れ込んでくる。受け止めるのは見開かれた本のページだ。僕は衝撃に備えて両足に力を込めた。


「大人しく本の中に戻りやがれ!」


 アスランの声に合わせてぬいぐるみが本の中に吸い込まれていく。その最後の瞬間、ぬいぐるみの声が僕に届いた。「……大地を、駆けたい」と。

 ぬいぐるみだろうと何だろうと、彼には夢があったんだ。


「ふぅ、てこずらせやがって……」


 巨体の全てが本の中に吸い込まれ、辺りには、いつもと変わらない静寂が戻っていた。


     ◆


 未だに発生条件が不明なその現象は、新しい書物が生成されるのと同じく、記載されている内容が具現化するというものだ。

 今回の事件のような、まだ対処可能な物ならいい。けれど人知れず具現化したまま、発見が遅れた時には大変な後始末をすることになる。

 まだ先代の副船長がいた僕が子供の頃、「本日の献立」という本の内容が具現化していて、発見した時には得体の知れないカビやらキノコに辺り一帯が覆われていたことがあった。


「可愛いぬいぐるみの作り方……完成したぬいぐるみたちを外に連れ出して、一緒に遊んでみよう、か……」


 廊下に転がっていた幾つものぬいぐるみは、虎のぬいぐるみに怯えて動けなくなっていただけだった。それらも全部本の中に戻し終え、僕はやっと息をつく。いつもの尻尾の太さに戻ったアスランは、涼しい顔で毛づくろいをしていた。

 あの尻尾、埃取りのモップにちょうど良さそうだったのにな。


「そういえば、僕が居ないっていつ気づいたのさ」

「お前が水を飲みに起きた時」

「最初から!? だったら声をかけてくれれば良かったのに」


 起こしては悪いと思ったから、一人で探りに行ったんだ。


「助けてあすらぁーん、って、戻ってくるかと思ってたのにな」

「僕はそんなふうに逃げたりしないよ」

「逞しくなったにゃぁ~」


 アスランが猫っぽい語尾で笑う。機嫌がいい証拠だ。

 猫って言ったら怒るから黙っているけれどね。そして僕は、本に戻った虎のぬいぐるみを想う。


「ねぇ、アスランも大地があったら駆けてみたい?」

「はぁ? んな見たこともない、どこにも行けねぇ場所なんか知るか。オレはこの本の迷路がある飛行艇が住処すみかなんだよ」


 そうだ、彼は船長だ。どこまでもこの船と共にある。

 僕は笑いながら頷いた。


 いろんな人と出会い、時々思いがけないことが起こる。やっぱり本があるって、刺激的デンジャラスだね。







© 2023 Tsukiko Kanno.

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俺は虎だ 管野月子 @tsukiko528

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