俺は虎だ

管野月子

01 妙な胸騒ぎ

 遥か昔、世界は大地と空に分かれていた。

 大地は土や岩石でできた、ほとんど動くこと無いとても大きな乗り物だったという。更に大きいだけでなく、ひどく重たいために空を自由に飛ぶこともできない。

 ある日、大地はその重さのためにいつまでも沈み続け、やがて闇の果てに消えたのだと書物にはある。


「オレは未だに信じられない。大地で暮らしていた奴らはどこにも行けず、閉じ込められたまま世界を見てまわることもできなかったんだぜ?」

「だから人は自由を求めて飛空艇を作り、空に飛び立ったんだろ?」

「そういうことだ」


 耳と長い尻尾をピンと伸ばして僕の前を行くのは、背に淡い縞模様が浮かぶ明るいオレンジ色のトラ猫だ。本人……いや、本猫に「猫」と言うととても怒る。いわく、彼――アスランは、この飛空艇で旅しやすいように体を小さくした「虎」らしい。

 僕は実物の虎を見たことが無いから、彼の言葉に合わせている。


「動かないなら、船が来てくれないと暇だよね」


 この飛空艇エキンは、いにしえから受け継がれた膨大な本を乗せ、世界を旅している。その先々で巡り合った船と、物々交換をしながら暮らしているんだ。

 出会う人々はいつも、懐かしい思い出や新しいしげきを求めている。


市場マーケットにも行けなかったなら、食糧が底をついた時はどうしたんだろう」

「大地ってヤツはものすごくバカでかかったというから、樹や草を生えさせて、食い物も育てていたんだ。自立循環型の船と同じ。タネルも聞いたことあるだろ?」

「あぁ……本もあったね」


 僕はアスランに答えながら通路に落ちていた本を拾い、天井まで続く本棚の隙間に収める。

 新しい本が生成されて、古い本が棚から押し出されたんだ。それらを拾い整理するのは、副船長として暮らす僕の仕事。案内は前を行く船長のアスラン。彼はこの船に収められているすべての本を見知っているらしい。

 ならば、僕が拾われる前の記憶に係わる本も見つけてくれないかと思うのだけれど、どうやらこの船には無いらしい。こんなに途方もない数の本があるというのに。


「ん……あれ? アスラン、これ……」


 僕はもう一冊、落ちていた本を拾った拍子に開いた中を見た。

 かなり古い本で、古代人の道楽に関するもののようだ。その一部のページが掻き消えている。僕は通路に片膝をついて、開いた本を小さな顔の前に差し出した。

 たしっ、と前脚を本の端にのせて覗き込んだアスランが、長いひげをぴくぴくさせながら呟く。


「こいつは、やべぇかも知れないぜ」


 通路を照らす明かりが、不吉を知らせるように瞬いた。


     ◆


 静寂の夜。

 僕は一度ベッドに入ったものの、妙な胸騒ぎがして寝付けずにいた。いつもは、「三秒で夢の中かよ」と鼻で笑われるぐらい寝つきが良い。だというのに、今夜は一向に眠れる気がしない。

 冷たい水でも飲めば気持ちが落ち着くだろうか。

 僕は足元の毛布の上で丸くなっているアスランを起こさないように、そっとベッドから下りた。


 淡いオレンジの常夜灯が、居間を、小さなキッチンを照らしている。

 コップに水を注ぎ飲み干してから、ふぅ、と小さく息をついた。遠く船の機関部から響く音が、壁を伝って小さく部屋を震わせている。昼間は全く気にならないその音が、まるで呪詛のようにすら感じる。

 全身の感覚が、鋭敏になっているようだ。

 この船にあらざるものの気配を探るかのように……。気にすれば気にするほど、神経は冴え渡っていく。


 この手のトラブルは初めてではない。

 けれど昼間、出来るだけの対処をしながらこれといった成果が得られなかったため、僕の中の警戒心が解けずにいる。どちらにしろ、夜の間に出来ることは限られているんだ。

 もう一度、ため息のように息をついた。

 眠れなくてもベッドに潜っていよう。そう思い寝室の方に足を向けた瞬間、ごそ……と、何かを引きずるような音がした。


 息を止めて周囲を見渡す。


 さして広くもない、薄暗い夜の部屋に動くものの影はない。

 アスランは……と寝室に視線を向ければ、まだベッドの上で丸くなっているオレンジ色の毛玉がある。この船に乗っているは僕とアスランだけだ。今の微かな音は、きっと僕の気のせいだろう。

 そう自分に心の中で言い聞かせようとした時、ごそ、と音がした。

 重い物。

 けれど金属のように硬くはない物を引きずる音だ。例えるなら本、だろうか。


 誰か……。


 いや、何か、いる。


 僕は静かに息を吐き、身動きせずに耳を澄ませる。

 何も居ないはずの船だけれど、「居ない」と結論付けることはできない。僕らの他に音がするのなら、何ものかが入り込んだか発生した、ということなのだから。

 今度は音の源を探るようにしていると、もう一度、ごそ、と微かな音がした。この部屋の中ではない。ドアの外、通路の方だ。


 裸足のまま、静かにドアを開けて薄暗い通路に顔を出す。

 居間と同じように淡いオレンジ色の常夜灯が、通路の低い位置で点々と灯っている。左右に続く細い路の右を見てから左を見、もう一度右に視線を向けたその反対側の方で、ごそ、と微かな音を聞いた。

 相手が何であろうと、本にイタズラしているのなら許せない。


 足音を立てないよう、冷たいセラミックスの床を進む。

 船の造りは複雑だ。今でこそ迷うことは少なくなったが、先代の副船長に拾われた当時はよく迷子になっていた。そしていつも、元の場所に帰りつけずに泣き始めてからアスランは迎えに来た。

 迷っていると気づいたなら直ぐに迎えに来てくれればいいのに……と、ずいぶん恨みもしたけれど、それがあったから迷わなくなったともいえる。


 音は一定の間隔を置いて、ずる、ずる、と薄暗い通路に響いている。


 僕は息をつめるようにして背を壁につけ、曲がり角の手前で立ち止まる。

 この向こうはどこまでも続く本棚だ。誰がどんな趣味でこんな構造にしたのか知らないが、船は果てしなく続く書架の迷路と言っていい。一度見失ったなら、簡単には探し出せなくなる。

 更に余り奥まで入り込まれると、今の僕でも戻って来られなくなるかもしれない。


 意を決して、僕は角から飛び出した。







© 2023 Tsukiko Kanno.

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