第9話

 シフォニアとライモントがその場を離れると、若い人々が寄ってきた。シフォニアとダヴロスの一件はあまねく知れ渡っているということで、誰も彼もが心配の気配を漂わせている。しかし、嫌な感じはしない。隣国の話やライモントとの日々を尋ねてくる振る舞いには、春の空気のような暖かさがある。

「クルエ辺境伯は、ずっとヴィリーズ令嬢のことしか見ていませんでしたから……」

「ちょっと!」

「何ですか、言っていないんですか?」

「い、言ったけれど、その、困らせてしまうから、余計なことは言わないで」

 尤も、このようなやり取りをされた際には、シフォニアはどう反応したらいいのか分からなかったが。

 ほのかに赤い顔をしたライモントが手を振ると、人々は笑い声を響かせながら去っていった。息を吐き出したライモントはテーブルからグラスを取り、一つをシフォニアに手渡した。もし不快にさせたなら申し訳無かったとライモントが謝るので、そのようなことはないとシフォニアは返す。皆が故郷を愛しているのがよく分かったと穏やかな心地で述べれば、シフォニアの故郷はどのような場所だったのかとライモントは問うた。それに対し、あまり覚えていないとシフォニアは苦笑する。

「十歳のときには第一王子殿下と婚約させていただいていたから、ほとんど王都に留まっていたわ。旅行も他の保養地に行ってばかりで、領地には帰っていないの」

 言いつつ、思う。我ながら驚くほど、ダヴロスの名前を自然と口に出さなかった。そこには郷愁に似たわずかな感慨があるだけで、かつての絶望と悲しみは全く無い。

 己は本当に変わったと、シフォニアはしみじみとした。いつからか、ダヴロスのことは大して思い出さなくなっている。代わりに考えているのはクルエ辺境伯爵領での暮らしについてであり、ライモントと交わした会話や、新たに知った自然のこと。ダヴロスの笑顔は記憶としてあるだけで、今はライモントの微笑のほうが印象強い。自分でも気づかぬうちに、心の傷は過去の残り香となっている。むしろ、先程心配されたことに恐縮したほどだ。現在のシフォニアは、胸を張って大丈夫だと言える。

 シフォニアの答えに、ライモントは表情を崩さなかった。いつもの柔らかい微笑みで、手紙で聞いてみればいいと助言した。シフォニアも、それはいい案だと笑う。両親に手紙で尋ねれば、色鮮やかな思い出話と写真を送ってくれるだろう。

 二人は、ぼうっとホールを眺めた。楽団がワルツを奏で、数組のカップルが踊っている。そこへ、ジャッツ伯爵一家の末娘であるリンディーがやって来た。父親と同じ焦げ茶色の髪を一本の三つ編みにして垂らし、黄色のドレスを身にまとっている。

「お二人共、もう踊られましたか?」

「いや、踊っていないよ」

 ライモントは、まだとは言わなかった。シフォニアと参加するのは初めてのパーティーであるし、屋敷で練習したこともない。踊りたいかと言われるとはっきりとしないところだが、シフォニアは少しだけ残念に思った。

 するとどういうわけか、リンディーはもったいないと大仰に驚いた。

「ヴィリーズ令嬢、ライ兄様と踊られるべきですよ!ライ兄様のダンスは、気持ち良く踊れると評判なんです。女性を引き立てるリードをなさるんですよ」

 リンディーの表情には迫力があった。踊ってほしいというよりは、己が踊りたい様子だ。そうなの、とシフォニアは半歩後ずさりながら相槌を打った。踊りたいなら踊ればいいと言うよりも早く、婚約者が踊らなければ他の人はできないと訴えられる。尤もなことだと、シフォニアはライモントを見上げた。

 果たして、ライモントはぎこちない笑顔でシフォニアを見下ろした。

「──一曲、踊ってくれるかい?」

「ええ、喜んで」

 ちょうど曲が始まるところだったので、シフォニアとライモントはホールの中央へと向かう。緊張で上手くできないかもしれないとライモントが肩をすくめるものだから、シフォニアはお互い様だと笑いかけた。触れた両手の温もりに、心臓は軽やかな音を立てる。

 ライモントに導かれ、シフォニアはステップを踏み始めた。後ろへ、横へ、横へ、後ろへ。くるりと回り、同じ足運びを繰り返す。今までに何度も踊った、貴族なら誰でも知っているダンスだ。されど、これまでとは劇的に違った。ライモントに手を引かれると、まるで背中に翼があるかのような気持ちになる。体の強張りや気恥ずかしさを忘れてしまうほど、シフォニアはダンスに夢中になる。リンディーの言う通りだとシフォニアが称賛すると、ライモントははにかみながら謙遜した。その眼差しがシフォニアの心にまた熱を生み、脈を速くする。

 結局、二人は続けて二曲踊った。踊り終えた頃にはシフォニアの息は上がり、扇が欲しいくらいだった。迎えたリンディーは、素晴らしい踊りだったと二人を称える。そして、案の定ライモントに相手をねだった。ところが、ライモントは首を横に振った。

「シフォニアも疲れてしまったから、今日はお暇させてもらうよ。リンディーと踊るのはまた今度にさせて」

「あら、残念。約束ですからね」

 食い下がるかとシフォニアは思っていたが、意外にもリンディーはぱっと引き下がった。トールを呼び寄せ、ライモントたちは帰るのだと伝える。シフォニアとライモントが礼を述べると、トールは次回も来てほしいと玄関まで見送ってくれた。

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