第8話

 鏡の中の己を見て、シフォニアは微かな緊張を覚えた。身にまとっているのは、えんじ色のパーティードレス。金糸の刺繍が裾を飾っているだけなので、派手さは抑えられているし、苦手となってしまった色も無い。しかし、その表情は久々の表舞台に強張ってしまっていた。

 夏が本格的に始まってすぐ、ライモントはシフォニアに一通の招待状を見せた。ジャッツ伯爵からライモントに対して送られたそれは、夜会の誘いだった。親しい人のみを呼んでこぢんまりと楽しむつもりだから、ライモントとその婚約者であるシフォニアもぜひ来てほしいと記されていた。

 ライモントは、共に行ってほしいとは決して言わなかった。それでも、シフォニアは参加を決心した。いつまでも姿を見せなければ己にやましいことがあると公言しているようなものだし、ライモントの汚点になると分かっているからだ。この先も生きていくと覚悟できたシフォニアにとって、社交界というのはどうしても足を踏み入れなくてはいけない場だった。

 不意に、ノックの音が空気を揺らした。開いたドアから現れたのはクルエ辺境伯爵邸の侍女で、小箱を丁寧に持って歩み寄ってきた。

「旦那様より、よろしければお召しになっていただきたいと仰せつかっております」

 シフォニアは、箱を開けた。――そこには、金色に輝く耳飾りがあった。取り出せば、花びらの膨らみさえ表現された繊細な小花が、朝露と並んでゆらゆらと揺れる。きれい、と思わず息を漏らすと、ライモントはたいそう悩んでそれに決めたのだと侍女が告げ口する。何が似合うか、果たして贈っていいものか何日も迷っていたと聞かされれば、シフォニアは黙るしかない。ただし嫌なわけでは断じてなく、しばしばライモントによってもたらされる照れ臭さによる閉口だった。

 ライモントは控えめな性格をしている。木の葉が自ら風を呼び込みはしないように、シフォニアに対して積極的に出ることはない。しかし、その素直な眼差しや何気無い褒め言葉は、シフォニアの心にじんと染み渡る。そのうえで、ほのかな熱を生む。

 そして、それは今日も。

「お待たせしてごめんなさい」

「!」

 シフォニアが歩み寄ると、ライモントは目を見開いた。

「……き、きれいだね。よく似合っているよ、その……世界で一番」

「……!」

 陳腐な言葉だ。そのようなセリフは、家族からもダヴロスからも言われたことがある。だが、なぜだろうか、ライモントが言うと何かが違う。家族が口にしたときのような安心感とも、ダヴロスが囁いたときのような高揚感とも異なる。とくとくと脈拍が少しだけ早くなる、こそばゆいのに穏やかな気持ちが広がる。

 続けて、ライモントは耳飾りについて言及した。着けてもらえて嬉しいと、はにかみながら礼を述べる。シフォニアは、感謝するのはこちらだと慌てて言った。また、ライモントの佇まいも素敵だとも。

 今宵のライモントは、暗い灰色のタキシードに銀色のエナメル靴を合わせている。かき上げられた前髪のおかげで、その和やかな顔立ちは普段よりもはっきりと見えた。辺境伯爵本人と言うには頼りなさがある一方で、未来ある若者の瑞々しさも感じさせる。すらりと高い背丈もあってか、あどけなさは少しだけ息を潜めていた。

 ライモントが左手を差し出したので、シフォニアは右手を乗せた。流れるようにエスコートの姿勢を取り、外へ出る。数ヶ月を経て、二人は触れ合う機会が増えた。わずかな気恥ずかしさはあるものの、シフォニアはそれを幸せなこととして受け止めている。

 ところが、今日のライモントはやけに動作が硬い。車が走り出したところで、ぴしりと固まってしまっているライモントに、緊張しているのかとシフォニアは問うた。すると、曖昧な肯定が返される。振り向いたその双眸に熱が籠もっている気がして、シフォニアはどきりとした。

「――あなたがあまりに美しいものだから、その隣を歩けるのかと思うと……」

「……!」

「いや、緊張のせいかな、変なことを口走ってしまった。気にしないで」

「あ、ええ……」

 そう言われても、とシフォニアは内心で強く思う。体温は上がり、心臓はまるで何かを気づかせようとしているかのように騒ぎ立てている。今日のライモントは、いつもよりも口が軽いらしい。非日常な雰囲気に、シフォニアは当初とは違う意味合いで緊張を覚えた。

 ジャッツ伯爵邸に着くと、招待状を提示して中に入る。小振りのホールは、すでに色とりどりの人で賑わっていた。――一つ、二つ、と己に注がれる視線に、シフォニアの足はすくむ。

「!」

 そっと、ライモントの腕に掛けた手に触れられた。はっとして見上げれば、案じている眼と目が合う。それを見ると勇気が出て、シフォニアは大丈夫だという気持ちを込めて頷いた。それを信じただろうライモントは、慎重な足取りで前に進んでいった。シフォニアも堂々と歩む。

 招待客から挨拶を受けていたジャッツ伯爵一家は、二人の姿を認めると破顔した。

「クルエ辺境伯、ヴィリーズ令嬢、ようこそいらっしゃいました!お似合いですね」

「ありがとう。先日はどうも」

 先日、というのは、初夏にあったブルーベリーの収穫に関してだ。ライモントとシフォニアは予定通り果樹園にお邪魔し、採れ立ての実を摘まみながら仕事を手伝った。その際にトールの妻子とも顔を合わせ、シフォニアは無理なく親交を築いていた。

 シフォニアとライモントがジャッツ伯爵一家と歓談していると、一組の老夫婦が話しかけてきた。二人は先代のジャッツ伯爵と旧知の仲であるグリー夫妻だと、トールに紹介される。話に割り込むとはどういう了見かとシフォニアは思ったものの、ライモントは気にしていない風だから、ここではそういうものなのだろうと納得した。田舎と言うと聞こえは悪いが、王都の人々よりも気軽で温和な付き合いをしているようだ。

 グリー夫妻はまずライモントに挨拶をし、シフォニアにも顔を向ける。その目に懐疑的な色は無く、心の底からの優しさをもって言葉を紡ぐ、この辺りには王都のような華々しさは無いが、雄大な自然が身も心も癒やしてくれると。また、ライモントは愛情深い善良な人だと。知っているとシフォニアが応えれば、夫妻は安心した様子で笑った。どうやら、心配したのはシフォニアのことだけではなかったらしい。

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