第16話 居場所


 学校の最寄り駅の階段を下りていくと、いつもの位置に粋先輩の姿が見えて駆け寄った。



「粋先輩! おはようございます!」


「聖夜くん、おはようございます」



 高架下のコーヒー屋さんの石壁の前で真剣な顔でスマホを弄りながら立っているだけなのに、かっこよくて人目を引いていた粋先輩。そんな彼がボクが声を掛けた途端に破顔してくれることが嬉しい。


 それから、言葉遣い。付き合い始めてから崩れた言葉遣いが敬語に変わったことに最初は距離を感じたけれど、粋先輩の素がそっちだと知ってからは優越感を感じている。単純だとは自分でも思う。



「あれ? 今日は髪型が違いますね」



 そう言ってボクの髪にそっと触れた粋先輩は、1房持ち上げるとちょっと背伸びをして顔を近づけながらすんすんと香りを嗅いだ。さっきから自分で感じていた香りに、鼻先を擽る粋先輩の髪から香るはちみつの香りが混じって変な気分だ。



「はちみつの香りですか? 僕とおそろいですね」



 喧騒の中で少し高い甘みのある蕩けそうな声で囁かれて、顔に熱が集中するのを感じた。顔を手で隠しながら1歩、2歩と後ずさりしてしゃがみ込むと、静かな足音が近づいてた。頭を柔らかく撫でられた感触がして顔を覆っていた手を外した。ボクの前で中腰になっていた粋先輩の顔にはいたずらに成功した子どものような笑顔が浮かんでいた。



「もう! 先に行っちゃいますからね!」


「あははっ、ごめんなさい」



 立ち上がって粋先輩を置いて歩き出すと、後ろから駆け足に追いかけてくる足音が聞こえる。隣に並んだ粋先輩に笑いながら謝られて、ボクも拗ねていただけだからすぐに許した。


 あの日から、粋先輩と待ち合わせをして登校する3日に2日は通るようになった商店街を抜ける横道を並んで歩く。まばらになったとはいえ周りにいる人たちに注意しながら粋先輩の袖を引いた。



「でもああいうこと、あんまりしないでくださいね?」


「どうしてですか?」



 聞き返してくる粋先輩の顔には全てを見透かしたような笑みが浮かんでいて、その肩に軽くパンチした。



「分かってるくせに」


「残念、バレてしまいました」



 悪びれる様子もなく笑っている粋先輩の目に、建物と建物の間から差し込んだ太陽の光が反射してキラリと光る。漆黒の瞳にボクだけが映ると、捕らわれたような気持ちになって焦る。



「そうですよねぇ」



 ボクをその瞳に捕らえたまま、粋先輩はまたいたずらっ子のような笑みを浮かべながらボクの腕を引いて、身体ごとボクを引き寄せる。



「ドキドキしてしまいますからね?」



 またボクが苦手で大好きな声で囁くと、ボクの腕から手を離した。歩調を変えないまま先を歩く粋先輩に取り残されて、その背中を睨みつける。


 さっきのだって逃げられないくらいあっという間のことで、逃げる気にならないくらいボクは粋先輩に惚れている。それを痛いくらい実感させられるから、ボクばっかりと拗ねたくなる。もっともっと、粋先輩もボクに堕ちればいい。


 前を歩いていた粋先輩が足を止めて振り返る。首を傾げながらもニヤニヤ笑っているその余裕そうな顔を崩してみたくて、駆け寄った最後、粋先輩の手前で転んだふりをしてその首に抱き着いた。



「わっ、大丈夫ですか?」



 粋先輩の慌てた声が耳元で聞こえて、ちょっとやりすぎたかと反省しながらそのホッとする温もりを感じた。ゆっくり身体を離して少し低い位置にある目を覗き込むと、粋先輩が本気で心配しているのが伝わってきて心が痛む。



「ごめんなさい」


「気を付けてくださいね?」


「はい。でも、粋先輩にぎゅってできて、嬉しかったです」



 それだけ伝えて歩き出したボクの後ろから粋先輩の足音が聞こえることを確認しながら前を歩く。


 自分で仕掛けておきながら、ちょっと反省。だけど素直に嬉しくて、それだけは伝えたくなった。とはいえやっぱり気恥ずかしくて振り返ることもできない。


 角を曲がって横断歩道を渡った先、急な坂の下で手を繋ごうと振り返ると、粋先輩は目を合わせることもなく黙ってボクの手を取ると坂を駆け上り始めた。ボクの方が足が速いから置いて行かれないようにすることは容易いけど、バスケやサッカーを昔からやっていたらしくて体力は粋先輩の方がある。前にここから学校まで全力疾走するくらいなら余裕だと言っていたけど、ボクには無理だ。


 どこまで走るつもりなのか不安になりながらも足を動かすと、粋先輩は案外早く足を止めた。坂の中腹、ほとんど2人だけの空間で立ち止まった粋先輩は、掴んでいたボクの腕を引いて自分の腕の中に招きいれた。



「す、粋先輩?」


「ほんっとうに、可愛いです」



 ため息とともに吐き出された言葉の処理ができなくて頭は固まるのに、身体はすぐに熱くなる。余裕のなさそうな声にドキドキして肩に頭を預けた。大きく呼吸するその音を間近で聞きながら、幸せを感じていた。



「あの」


「はい?」



 急に絞り出すような声を出した粋先輩は、顔が見える位置までボクの身体を引き離して視線を合わせてきた。どうしたのかは分からないけどボクも粋先輩の目をじっと見つめる。



「キスしても良いですか?」



 耐えきれない、とでもいうかのような切迫した面持ちの粋先輩にドキドキして頷きそうになってしまう。けど、鬼頭くんの知らないところでは嫌だという気持ちが何とか歯止めをかけて首をブンブンと横に振った。


 目の前で引き下がったのは確かに粋先輩にだったけど、突然その顔にかつての記憶が重なって顔を歪めた。


 きっと今もどこかの学校で教員を続けているだろうその顔は、現れたと思った次の瞬間には消えてしまったけど、背中を伝う嫌な汗は消えなくてゾクゾクする。粋先輩にはそのこともかつての記憶も知られたくなくて、咄嗟に粋先輩に抱き着いた。



「聖夜くん?」



 戸惑うようにボクを呼ぶ声には気が付かなかったふりをして作った笑顔を上げると、心配そうな顔。大丈夫、と思いを込めながら微笑んで手を繋ぎ直すと、その手を引いて歩き始めた。


 1度緩められた手は恋人つなぎに繋ぎ直されて、繋ぎ止めるように力が込められた。少し痛いけど、今のボクにはそれくらいの方がちょうどいい。


 坂を登り切る手前で静かに、名残惜しくも手は離される。坂を登りきると信号待ちで固まった集団と集団の間を抜けて、曲がることなく人通りがない道に入る。



「鬼頭くん! おはよう」



 甘ったるくも香ばしい香りを漂わせる、開店準備中のチョコレート屋さんの前に立つ電信柱に寄りかかりながら英単語帳を開いていた鬼頭くんに声を掛ける。顔を上げた鬼頭くんはいつものように軽く手を挙げて挨拶しようとしたはずだけど、途中で固まって動かなくなってしまった。



「鬼頭くん?」


「いてっ」



 ボクの声にも反応しない鬼頭くんの頭に、粋先輩が軽くチョップを食らわせた。それでようやくこっちの世界に戻ってきたらしい鬼頭くんは粋先輩の方ばかり見て、ボクの方は全く見ない。何か不味いところがあったのかと思ってポケットから取り出したスマホで顔と髪を確認したり、社会の窓が開いていないか確認したりしたけど、特に何もない。社会の窓が開いていたら穴を掘って埋まるところだったから、そこは安心した。


 表情が硬い鬼頭くんとキョロキョロしているボクを交互に見た粋先輩は、笑いながらため息を吐いて鬼頭くんの肩に両手を置いた。



「武蔵くん、気持ちは分かりますけど、ちゃんと現実と向き合いなさい」



 身体ごとグイッとボクの方に向けられた鬼頭くんは目を閉じていたけど、覚悟を決めたように深呼吸してから目を開いた。でも、ボクと目が合った瞬間に片手で顔を覆ってしまった。



「あの、鬼頭くん?」


「ごめん、聖夜。ちょっと、タイム」



 そう言って顔を覆っていた手で胸を抑えた鬼頭くんは、小さくありがとうございます、と呟いた。何に対してのありがとうかは分からないけど、きっと良い言葉だ。



「聖夜」


「ん?」


「可愛い」


「んなっ!」



 思ってもいないタイミングでドストレートに褒められて目を白黒させていると、鬼頭くんは手も足も出ないような値段の骨董品に触れるときみたいな丁寧な手つきでボクの髪に触れた。熱っぽい視線が照れ臭いけど、素直に嬉しくて堪らない。



「マジで可愛い。いつも可愛いけど、ふわふわさせてんのも可愛い。めちゃくちゃいい」


「あ、ありがとう」


「ほらほら、遅刻する前に学校行きますよ」



 粋先輩は突然、若干苛立ったような声で言うと鬼頭くんの肩を組んで前を歩いて行ってしまう。小声で何やら言い合っている2人はなんだかんだ仲が良い。



「待って」



 2人の背中を追いかけると、振り返った2人は自然と間を開けてボクを間に入れてくれる。ここが、ボクに幸せをくれる場所だ。



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