第2話
「はぁ!? あの十市が刀持って人殺しなんてありえないだろう!」
知らせを持って来た馴染みの老人は代官所の胃痛持ちだ。今日も酒をちびちび飲みながら懐手して腹をさすっている。そう言われてもなあ、と言うのは与力の兄ちゃんだ。夕方になり生えて来た髭をぼりぼり搔きながら眉をハの字にして見せる。花街で女に見せる顔ではないが、十五年も一緒に宴席を囲んでいる身なれば大した問題ではなかった。問題は十市だ。捕まって牢に入れられているらしいが、これと言った証拠が出ないのか御沙汰はまだらしい。
「大体あいつは針の使い方は知ってたって刀の使い方は知らないよ。切り付けられた異人の大将だって袈裟切りに綺麗に切られてたって瓦版には書いてたじゃないか。それとも別の瓦版で何か出たってのかい? 連れていた稚児が何か覚えていたとか?」
「牡丹ちゃんそこはおいら達も迷ってる所なんだよ。連れられてたぼうずが、これは牡丹ちゃんと同じで合いの子の餓鬼なんだがね、じゅーいち、じゅーいち、って言って聞かねえんだ。ここらでそんなとんちきな名前してる奴なんて、あいつしか知らねえんだよおいら達も」
「とんちきで悪かったねえ。稚児が? その子、連れて来られるかい?」
「花街に子供なんか連れて来られるもんかい! それにまだ堪えてるらしくって家で静養中だ。つってもお代官様の役宅でおかみさんつきっきりらしいけれどな。日本語が喋れない訳じゃあないらしいが、親父を目の前で殺されて見付かった時はぼうずも血まみれだったらしいからな」
「らしいらしいではっきりしないねえ。大体男の子なんて十歳にもなれば一人前だよ。書き付け送るから、長谷部の旦那に届けておくんな。緋牡丹が焼ける前にぼうずをこっちに送ってよこせってね」
「送ってって、何するつもりだい牡丹ちゃん」
胃痛持ちがまた胃を痛くしたらしい顔で私の肩にゆるく手を掛ける。そいつに振り向いて、私は持っていた盃を一杯干して口角泡飛ばしながら言ってやった。
「本当に十市が犯人か確かめるためだよ! 大方首実検もまだなんだろう!? 和蘭の役所に届けるにはまだ時間がある! 私はまだあいつに牡丹を染められてないんだ、用はありまくりなんだよ!」
もう一杯飲み干すと、お前が飲むなよう、とぶつくさ言われたが、素面で代官に書き付けなんて送れるはずもない。私は部屋の隅に形だけある文机に筆を真っ直ぐ立てて、本当なら指でも送りつけてやりたいけれど我慢して爪印を捺し、墨も乾かないうちに丸めて馴染みの与力の懐に突っ込んだ。長谷部の旦那は代官ながらも遊びは心得ている人で、女にも酌と唄、舞ぐらいしかさせない粋なお方だ。多分私の願いを聞いてくれるだろう。そして連れて来られるだろう合いの子。稚児ではなく息子だったのか。消沈していたって、一度咲いた花は枯れるまで咲き続けるのだ。手折られて堪るものか。ふんっと鼻息を荒くした私に、苦笑いを見せたのは芍薬の姉様と百合の姉様だ。ずっと他の衆にお酌をしていたのが終わったらしい。牡丹ちゃん、と呼ばれて私は一歩敷居をまたぐ。
そこからの私は、芸者だ。ちんとんしゃんと流れるお三味と唄に合わせて舞う。おお、と慣れない連中も息を呑むほどに、私達は美しさを売り物にしている。惜しまれるのはこの異人名残のある赤茶けた髪が黒でない事だ。姉さんたちみたいに真っ黒で真っ直ぐだったら良いのに。その方が色々便利なのだ。髪結いに頼むにも、風呂に入るにも、眠るにしても。
舞扇をひらめかせながらの流し目。眼だって綺麗な黒じゃない、緑色だ。それこそびいどろのような。ちぐはぐな身体にこれ以上中途半端な痕は付けたくない。だから十市は返してもらわなければならないのだ。唄が切れてお三味も止まる。私は正座して頭を下げた。ぱちぱちと座が盛り上がって、やんややんやと囃し立てられる。その中で懐に書き付けを突っ込まれた与力と胃痛持ちの爺ちゃんだけが薄暗い顔をしていた。
知った事かい。私の大事な掘り師を返しておくれでなければね。
翌日の夕暮れ時、遊女たちが化粧を直す頃に、長谷部の旦那は現れた。お直しされた着物に袖を通した子供を連れて。びくびく怯えるその子供は、柔らかい金色の髪に、青い眼をしていた。その美しさには慣れない他の芸妓達も盛り上がってきゃあきゃあ言っていたが、甲高いその声が逆に恐ろしくなったのか、子供は長谷部の旦那の後ろに隠れてしまう。その半端な弱さがまた母性をくすぐるのか、いつの間にかその子は金平糖の袋を持たされていた。御手付きの速さなら妓楼一だったかもしれない、思いながら私は二人を部屋に通し着物もきちんと着て正座をする。長谷部の旦那もその向かいに座り、子供を自分の膝に乗せた。おそらくは私から守るため、本当の所は子供が出来たようで嬉しいのだろう。四十路を前にしつつ、旦那には子供がいない。きりっとした知れ長の眼で私をちょっとだけ睨むのが何とも甘やかで可愛らしい。そんなことでこの牡丹が散るとでも思ったら大間違いだよ、旦那。
子供は私と旦那の間にあるぴりぴりしたものを感じたのか、肩を竦めて金平糖を一つ取って食べた。途端にホッとした顔になるのが、私だって可愛らしいと思う。こんな場所で対峙するんでなかったら私だって貝合わせやら双六やらでもてなしてやりたいと思うほど、子供は可愛らしかった。
「ぼうず、日本語は話せるのかい?」
こくん、と相槌。さらさらの短い髪が音を立てて動く。
「名前は? 私は牡丹って言うんだ。ピオン、の方が通じやすいかな。和蘭語じゃそう言う名前の花だと聞いたことがある」
「牡丹お姉さん?」
「おや賢い。おとッつぁんから日本語を習ったのかい?」
「生まれてからずっとこっちに住んでるから、和蘭語の方が解らない……」
「そりゃまた奇遇だね。私もそうだ。誰が父親かも知らない」
「父上は一人しか相手にしなかったから、僕が生まれてすぐに妓楼から押し付けられた。男は要らないって。だから母の顔は知らない」
「そっか。おとッつぁんは好きかい?」
じわ、っとその眼に涙がにじむ。長谷部の旦那がじろりと私を見た。いじめるな、と言いたいんだろうけれど別にこっちはいじめているつもりもないから知らんぷりしておく。互いの言葉の行き来に悪意はない。まだ。ちょっとした意地悪ではあったかもしれないけれど。
「好き。父上好き」
「どんなところが好きだった?」
「からくりの勉強をすごく真面目にしてた所。色んなものを作って見せてくれた。僕にはおもちゃをたくさん。いつか和蘭に帰る時の為に書き留めたくさん作ってた。時計の歯車まで自分で掘って作ってた。どこまで小さくできるかって」
「そうかい。ぼうず、名前は?」
「ヘンリー」
「名前だけはいっちょ前に和蘭語なんだねえ」
くす、と笑うと今度はぼうずに軽く睨まれた。だけどまた金平糖をぱくっと食べて緊張をほぐす。良い物を貰ったようだ、想定外とは言え。あの紙袋は百合姉さんを贔屓にしてくれいるお武家様のだろうな。時々私にも分けてくれるけれど、袋一つ丸ごと貰ったことはない。ニクイね、美丈夫は。
「ヘンリー、おとッつぁんが殺された時に誰か人の顔は見たかい?」
「みんな顔を隠してた」
「みんな。何人だったかは覚えてる?」
「三人……ぐらい、だと思う」
「おとッつぁんは今際の際に何か言っていた?」
「何も……」
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