ご. 2


「無理よ…——あんたには、届かない」


 その瞳に映ったのは、その場立ちに珠里じゅりを見くだしている十代なかばの少女。


「あんたみたいな負け犬に、男なんて、できない」


 軽快にすかれた不揃いな黒い髪の毛先が、さらりと肩の上で揺れる。

 その白いおもてに知的にまたたく黒い双眸…。

 日野原ひのはら夕姫ゆきの姿が、そこにあった。

 部外者という一線を維持しようとしていた青年——コウの表情に逡巡しゅんじゅんが生まれた。


(似ている…だけじゃないな、これは…。夕姫ゆきの隣人か、あるいは…)


 しばし、その場にたたずみ、行動を決めかねていた彼は、あるかなきか軽く息を吐き捨てることで迷いを退けると、その二人の方へ歩みだした。


 魔が差したのだといえば、それまでだが…。

 その時、彼は、普段なら回避すること…決してしないことをしようとしていた。


 ここは、そのひとの意識空間。

 コウの立場は少し特殊なので、へたな関わり方をすると、生き死にさえ決定づけられかねない場所だ。

 けれども…。

 そこにみつけた未熟な混迷。

 成長段階にありがちな複雑さ。つたなさ。

 適うものなら、その娘の意識を前向きな方向へ導ければ…と考えてしまった。

 進むほど増してゆく不快なしがらみから目を背け、意識しないようにしながら、夢の主が絶対的な流れを生みだす中央へ踏み込んでゆく。


「こんばんは」


 彼が声をかけると、この夢の主…珠里じゅりが、とまどいがちにふりかえった。


「こんなところにいたら凍えてしまうよ」


「ダメよ…逃がさない。そんなの許さない。こんなのはいや醜悪しゅうあくきらい…」


 その独白にも似た否定の言葉は、話しかけた珠里じゅりではなく、あらぬ方から投げられていた。


 言葉の抑揚に反して熱意もこだわりもなさそうな夕姫ゆきの偽物による発言だ。


「もういやなくせに…。あきらめられたら、楽だよ…。いや…わかりたくない。そんなの許せないもの…。おもしろくない。きらいだ…イヤ…なの」


 夢主である珠里じゅりの声なのか…。

 気まぐれに響きが変化して、聞き覚えのない声質こわしつでささやく存在を、コウは冷めた目で一瞥した。


「こんなのはまぼろしだ。もっと、ましな…明るい方へ行こう」


「ダ、ダメ! 逆らったら怖いんだよ…? このひと、病気! 躁病そうびょうなのっ!」


「弱虫が未練がましい。認めなさい。彼はあんたのこと、なんとも思ってない…思ってなんか、いないんだよ?」


 珠里じゅりのとまどいに反応して、指摘した夕姫ゆきのようすは、このうえもなく陰険だ。


「きれいじゃない。バカでチビ! 心だって、どろどろ。みにくいのバレバレ!

 こんなの隠せるわけない! 誰にも愛されない…みんな、みんな、あんたが嫌い」


 のびてきたその手が、珠里じゅりを突きとばそうとする。


 けれども、突き出された夕姫ゆきの手がはじいたのは、コウの右腕だった。


 彼の体が、珠里じゅり夕姫ゆきの間に移動したので、彼がつきとばされたのだ。

 どんっと、押しやられた彼は、珠里じゅりふところにかかえ、くるりと身をいれかえると、凍りついた壁面に背中からぶつかった。


 コウがしようと思ってした行動ではない。


 彼をとりまく位置関係が瞬時に入れ替わり、この夢の主を庇わされたのだ。

 突き飛ばされた先には、それまで存在しなかった氷の障壁(彼がいまぶつかったそれ)まで形成された。

 やりにくそうに顔をしかめるコウのかいなで、珠里じゅりが気づかわしげに彼を見あげている。


「だ、だいじょうぶ?」


(だいじょうぶじゃ…ないぞっ)


 珠里じゅりが彼に気をとられているあいだ、夕姫ゆきは、ぼんやり立ちつくしていた。

 その表情には、悪意も覇気もない。

 傀儡ぐぐつのそれだ。


 この空間の主は、ほかでもない。いま、彼を心配しているもうひとりの少女。

 珠里じゅりだ。


 この意識世界に存在するものは、コウをのぞけば、すべて夢を見ているその娘の創造物。

 確かともいえない記憶や意識の投影・表現にすぎず、そこに居る陰険な夕姫ゆきも、彼女が生みだした幻影・虚像なのだ。


 どこまでも我執エゴや望みが先行しがちなその視界は非常にせまく、すべてを理解し把握しているわけではなくても、すべて、その子が創りあげ、支配するものだったから、その彼女が硬いと思いこめば、硬くなり、飛べると思えば空も飛べる。


 当人のその目には、半分も見えていなくて、むしろ自覚していない部分の方が多いのだが…、

 そこで受けとれる情報量がどうあろうと、ほかならぬその少女が、こだわりを解いて、流れを良好な方向へ変えてくれなければ、状況は改善されないし、コウは不利になる。

 ここにあることを意識させてしまった以上、彼の自由度は、夢の主である珠里じゅりが定める枠にはめこまれてしまうのだ。


 故意だろうが無意識だろうが、そうなってしまう。

 相手が彼の存在を忘れるか、彼の自由な意思を尊重し認めない限り、動きを強制・制御される。


 さながら、糸に吊りあげられたマリオネット。

 気まぐれにこちらを見て、糸をあやつるそのひとの傀儡ぐぐつとなり、何をしたくても、何を考えていようと、思うようには動けない。


 どこまでも夢の主の関心の強さ、度合いに因るものなので、横槍を入れた見知らぬ個体……異物をいつまでも意識し、関わりを持とうとする者も多くないのだが、その現象は、侵入した彼が破滅しかねない危うさを秘めている。


 他人の夢空間。


 存在が築きあげる支配領域が自分にとって、どんなに危険かわかっていた。


 その現象がもたらす《破滅》や《最期》は、明確には《死》ではないのかもしれないが、さんざんな目にあって…。

 自分でも自我があやふやになるほど、くりかえし、遭遇し、その性質を理解し、こりていたはずなのに…――

 うかつにも彼は干渉した。


 ちょっと導けば、さほど手をかけさせられることもなく浮上して、彼を放してくれるだろうと…。

 いま、腕のなかにいる子の精神状態を、あまく見積もったのだ。


 気づけば、いつの間にか、珠里じゅりの創造物である夕姫ゆきの手に、なたがにぎられている。


 彼にすれば、なんで、いきなり刃物それなんだと思わないでもなかったが…。


 夢の中で抵抗を感じているものに自身を攻撃させるのは、自分のなかにみつけた嫌な部分を消したいという意識のあらわれだ。

 経験したこと・見て強く印象に残っている場面もの…端的な体験の複写、自虐的な予行反応である場合もあるので断定まではできなかったが、この段階では、いちがいに悪いともいいきれない流れである。


 ――しかし…

 それはあくまでも、夢の主にとってのこと。


(…。なにがどうしたら、そうそうなる…。

 趣味の悪いドウガとかいうやつでも見たんじゃないのか?

 素直に受けとめるような感じ・様相流れでもないし……嫌な予感がする…——)

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