ご. 合縁奇縁 ~誰かが誰かのところに迷いこみました~

ご. 1


 土、岩…木…


 そこにあるものに、これという色はない。

 すべてが透きとおっていて、冷たかった。


 てつく極寒の氷原ではなく、あらゆるものが氷でできた世界だ。


 どこかもわからない氷の林と、氷の原っぱ。


 珠里じゅりの足もとには、靴下ごし、ぱりぱりと砕ける雑草の形をした氷の感触があった。


 寒さで吐く息が、白い蒸気もやになる。


 珠里じゅりが見あげた天空は寒々とした淡い水色で…。そこでは、太陽までがこごえる水の結晶でできていた。


 そんな世界を彼女は、目的もなく、さまよっていた。


 体の奥底まで冷えきってしまっているようなのに、身を縮めることなく、ふつうに動くこと、歩くことができて…


 そうあることを不思議とも思わない。


 ただ、無性にさびしくて…。わびしくて…。


 だぁれもいない。しょせん、ひとは孤独…。

 わたしはひとり…――というようなことを思い起こしては呟いた。


 そうしている彼女は気づいていないが、五〇メートルほども離れた氷木ひょうぼくの陰に、一帯のようすを観察している人物がまぎれていた。


 背の高い細身の男で、そのしなやかな物腰には、さらに成長してもおかしくない中高生めいた若さ、未成熟さが見てとれる。


 さらと揺れるのは、いくぶん長めかげんの栗色の頭髪。


 顔立ちは、無国籍な印象に整い、ほどよいの彫りの深さをみせていたが、アジア系の範囲に収まるものだ。

 けれども…。

 そうありながら、日焼けも雪焼けも知らなそうなその肌は、日照時間の少ない地方の白い人々を思わせた。


 無私にも思える表情かおで、珠里じゅりの動きを目で追っていたその彼が、おもむろに口をひらく。


 そこに生じ、その唇からこぼれだしたのは、人の声でありながら、そのかぎりとも思えない神秘的な旋律。


 明瞭な意味をなさない――それでいて、異国の言語のようにも聞こえる摩訶不思議なメロディだった。


 やわらかく、のびのびと空間になじんでゆく伴奏のない詩歌。


 天上、地上、大地の深いところ…深淵しんえんまで浸透しんとうし、あまねく奇跡の歌声だ。


 その咽喉のどは、ひとつでありながら、いちどに複数の音色をあみだしていた。


 高音、低音とも溶けあい、人体が生みだせる音域の限界を、はるかに超えた妙音みょうおんの羅列…――奏でかなで…。


 あくまでも、人の声帯が生みだす音なのに、比類なき楽曲のようでもある。


 そんな彼の歌に応えるように、一帯の氷が、生命を宿しはじめた。


 透明だった草木が、緑、茶、紅など…、その形にふさわしい色と材質をとりもどす。


 いま、芽吹きだしたように、活き活きと…。シャンシャン、サンサン……優雅なまでに。


 あたえられた旋律にうながされ、歓びひたり、酔いで華やぎながら、音色にそまりゆく…――それは、まさに復活の情景。


 音に催促されてひろがる景観の変貌は、外側から輪をえがくように進行した。


 玻璃のごとき面影を残す太陽にオレンジや黄色の暖色がひらめきだしたが、しかし…。


 珠里じゅりがいる中央には、とどかなかった。


 外部や天空で起きた変化に、気づいてもいないようで…。

 さすらっている少女のまわりの素材やその天頂てんちょうは、いまもすべてが凍りついていた。


 彼女の足もと。


 踏み砕かれて、ガラス片のようになった氷の破片はへんが、ぱらぱらと舞いあがる。


 きらきら…ぎらぎら…ざりざり…


 冷たくきらめく気流が生まれ、砕けた部分に渦を巻きはじめていた。


 そうして、形成された複数の渦が合わさり混ざったところに生じたのは、くるくるくるくる旋回しながらたちのぼる上昇気流。


 一帯の氷が、次々にひび割れてこわれ、くだけて飛び散り、その地面までもが粉々に崩れだす。そして、


 ふわっと。


 氷の破片といっしょに空にもち上げられた珠里じゅりは、声をあげることもできないまま、ちゅうにほうりだされた。


 地面にあいた穴に、落ちてゆく——


 彼女がいたその場所にできた暗くふかい裂け目に呑まれてゆく。


(これは、けっこう、な…)


 奇跡の声韻せいいん…声と響きをふりまいていた彼は、ふいに歌うのをやめた。


 たえなる旋律が途絶とだえ…


 その視線の先には、ごつごつした岩がそそり立つ谷底に倒れこむ珠里じゅりの姿がある。


 彼女が見あげているアイスブルーの高空に、蜃気楼のような影が現れた。


 輪郭のあやふやな緑…。

 植物を豊かにやしなうその公園には、ふたりの少年がいた。


 いっぽうが駆けだし、薄れて消えたので、そこにいる少年はひとりになる。


 珠里じゅりは、手の届かない高みに立つそのひとの幻影を、一心に見あげていた。


(聞く耳もたず、か)


 こうゆう寒々とした空域――夢は、形成が曖昧あいまいはしっこに避難していようと、かなり居心地が悪い。


(…。あいつ、さっさとねや、築かないかな…。

 あの安穏あんのん知ってしまったから、どこ行っても、おちつけないんだけど…)


 見きりをつけた白皙はくせきの男子は、捨てどころのない不服を胸に、その場からたち去ろうとした。

 だが、その時、

 珠里じゅりのかたわらに出現した人影があって…。


 その形容が彼の注意をひいた。


 えっ? と。


 彼の紫紺の瞳が大きく見開かれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る