3月15日 一生懸命生きるもの


 朝、テントウムシ(ナナホシテントウ)を見かけた。ちょっとつまんで手に乗せて、ちょこちょこっとした脚の感覚を楽しむ。(すぐに逃がしてあげた)

 今の時期に成虫でいるということは、恐らく成虫で越冬した個体だろう。寒さも和らいできたし、いよいよ活動再開というわけだ。


 テントウムシは可愛い。成虫も可愛いが、幼虫も可愛い。もう少し春が深くなり、アブラムシが飛びはじめると、それらを食べるナナホシテントウやナミテントウの幼虫が、いたるところにひしめき合うようになる。

 私の生活圏では、主にカラスノエンドウとギシギシがテントウムシの食事処になっている。



 あの、アブラムシという生きものは、いったいどこからわいて出てくるのだろうか。いつの間にか植物についていて、いつの間にか尋常じゃなく増えている。生物自然発生説を信じたくもなるというものである。


 春、カラスノエンドウやギシギシの葉という葉、茎という茎に取りついたアブラムシたちは、植物の体液をチュウチュウ吸い取る。まさに数の暴力だ。

 しかしそこに、ひとたびテントウムシの幼虫がやってくると、さあ大変だ。アブラムシたちは片っ端から食べられていく。(それでもアブラムシの数の方が圧倒的に多いため、すっかり食べきってしまったところは見たことがないのだが)


 大抵の生物には、生存本能がある。死に対する恐怖という「個を維持する」ための欲求である。自らの力で動くことのできる生きものは、ほとんどが、死に対する恐怖を持っているように思う。思うのだが、アブラムシにかんしてはちょっと自信がない。テントウムシに食べられているアブラムシを見ていると、どうにも危機感というものが感じられないのだ。

 テントウムシの幼虫がムシャムシャと食事をしているすぐ横、アブラムシは逃げるそぶりも見せずに平然とそこにいる。幼虫に踏まれているものもいる。すぐ目の前(アブラムシに視覚があるかどうかは分からないが)で仲間が食べられているのに、余裕綽綽だ。そして、言わんこっちゃない、食べられる。


 生きよう、とか死にたくない、とか、そういう欲求はないのだろうか。これだけ大量にいるんだし、自分が食べられても種の保存は余裕で達成できるぜ! ということなのだろうか。アブラムシ、達観している。

 一方で肉食テントウムシの幼虫は、食べるものがないと共食いを始める。同種を食ってでも生きる、死んでたまるか。という気概。こちらもこちらで、ある意味達観している。



 どんな生きものにとっても、基本的に、生きるということはつらく苦しい。この世に生まれ落ちた時点で、苦痛は始まっているのだ。それはもう、本当にどうしようもない。


 ゆえに私は、一生懸命食べたり成長したりして、生きようとしているものを見ると、たまらなく愛おしくなる。困難に立ち向かう勇気と努力は讃えられるべきだし、私は讃えたい。一生懸命アブラムシを食べて大きくなるテントウムシも、ごっそり食べられつつも増えに増えて、草花を覆いつくさんとするアブラムシも。(アブラムシは少し苦手だけれど)


 一生懸命食べるといえば、大型の芋虫だ。前述したとおり、スミレの花につくツマグロヒョウモンの幼虫は、驚くほどの大喰らいだ。

 ただ、彼らの姿を見るにはまだ少し早い。もう少し春が深くなるまで、もう少し、お預けだ。

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