第32話「豊穣竜」
大森林の深奥に竜が眠るという話はまことしやかに囁かれていたものの、その姿を実際に見たという者はいなかった。竜というのは強大すぎる力を持つが故に、人の近寄らない過酷な土地に棲むものも多い。
「ディオナ、逃げるぞ!」
魔樹の向こうからも見えるほどの巨体だ。動き出せば、その歩みが天災となる。俺は呆然としているディオナの腕を引き、来た道を引き返す。
魔獣たちが森の奥から現れたのは、やはり偶然ではなかった。彼らは俺たちよりも機敏に
「アラン、コイツはどこを目指してるんだ?」
「分からんが、知る必要もない。とりあえず距離を取らないと踏み潰されるぞ」
邪魔な草を蹴散らし掻き分けながら走る。魔獣たちもついに目覚めた
「走れ走れ!」
木々の間を必死になって走り抜ける。もはや魔獣もこちらを気にかけている余裕はなさそうだ。共通の災害から逃げるため、肩を並べて走っている。
「アラン、掴まって」
「うん? うおおおっ!?」
ディオナは俺の背中に手を回したかと思うと、そのまま横抱きに持ち上げる。そしてそのまま更に加速して魔獣たちを追い抜いていった。
「速ッ!?」
「舌噛むから、話さないで」
「お、おう」
彼女は力強く地面を蹴り、倒れた魔樹を軽やかに飛び越える。そのまま次々と現れる木々の幹を蹴って空中を駆け抜けていく。
「うおおおおっ!?」
こんな状況で黙っていられるはずがない。俺はこの時初めて、ディオナが俺に合わせて動いていてくれたことに気がついた。彼女の本来の実力は、あんなものではなかったのだ。魔境で生まれ、魔境で生きてきた彼女の身体能力は、俺のような人間のそれを遥かに凌駕する。その動きを解放させれば、もはやついていくことなどできない。
「うわああっ!」
俺たちはあっという間に復路を駆け抜け、大森林の外に出る。広大な草原には
「馬車が!」
キャンプを見れば、魔獣によってあっけなく踏み潰されている。馬たちもどこかへ逃げてしまったようだ。これではアルクシエラに伝えることができない。
「アラン、あのドラゴン、ここで抑える」
「は?」
「ワタシが抑えるから、アランは近くの村まで走って。そこで馬を借りて、町に戻って」
「何を言って……」
ディオナの目は本気だった。彼女は今できる最善の策を考えていた。
俺が
この状況を打開する最善の策として彼女が結論づけたのは、自分が
「いくらディオナでも無理だ。相手は二十人がかりでなんとか抑え込めるかもしれないってレベルの竜種だぞ!」
ワイバーンやサラマンダーなんかとは訳が違う。奴は下級とはいえ正真正銘の竜種なのだ。あれを倒すことができるのは、ドラゴンスレイヤーと呼ばれる一部の一流の傭兵だけ。ランクで言えば、一級や特級なんていう幻の存在だけだ。
しかし、ディオナは首を振る。その表情には笑みすらあった。
「ワタシ、ドラゴンスレイヤーになってみたかったんだ」
彼女が傭兵となった日の事を思い出す。無邪気にドラゴンを倒したいと言った、まだ小柄で痩せていた彼女のことを。
「走って!」
ディオナが俺の背中を強く押す。突き飛ばされた俺は、その勢いで走り出した。
「ディオナ、必ず応援を呼んでくるから! それまで持ち堪えろ!」
「任せて。ワタシ、強いから!」
彼女は巨大な棍棒を掲げて白い歯を見せる。
俺は彼女に一縷の希望を託して、力のかぎり走り出した。
━━━━━
「……」
草原を駆けて行くアランの背中を見送り、ディオナは大森林へと振り返る。鳥獣たちが悲鳴を上げながら飛び出してくる、異様な空気を帯びた魔境だ。その中では木々が薙ぎ倒され、強大な力が着実に近づいてくる。
「大丈夫」
彼女は震える手を握り締め、重たい棍棒で地面を突く。
アランを抱えて逃げられるほど、ディオナは走り続けられるわけではない。だからといって、アランと共に走るとすれば
アルクシエラへと確実に情報を伝える唯一の方法は、ディオナがここで
「お前は、ここから先へ行かせない!」
覚悟を決めて、心に炎を燃やす。彼女のツノが真紅に染まり、筋肉が隆起する。
臨戦体勢を整える彼女の眼前に、大樹を分けて巨竜が現れる。
悠久の眠りから醒めた竜は明確な敵意を持って立ち塞がる小さな存在に気が付いた。それが我が行く道を阻む者であると認識した。
『ォォオオオオオッ!』
故に竜は動き出す。
その姿を見て逃げ出すものを追うことはない。しかし、敵意を持って挑むならば、それを拒むこともない。竜種という世界に君臨する圧倒的な強者として、その魂に刻まれた本能と言う名の矜持である。
草原に響き渡る咆哮が、竜の力を活性させる。それは竜種にのみ許された強大で原始的な魔法の力を帯びていた。
「っ! 木が生えてッ!」
広大な草原に、次々と木々が生えてくる。自然の権化である
ディオナはおろか、アランやエイリアルですら知る由はない事実。大森林と呼ばれる王国屈指の魔境は、それそのものが
「うおおおおおおっ!」
メキメキと音を立てて生長する木々を蹴って、ディオナは勢いよく走り出す。棍棒で前に立ちはだかる枝を薙ぎ払い、強引に突破する。
「とりゃああっ!」
巨大なリクガメにも似たずんぐりとした姿の竜に、渾身の一撃を叩きつける。
魔練鋼の硬い金棒が竜の足に直撃した。
「硬――ッ!」
だが、苦悶の表情を浮かべたのはディオナだった。
まるで地面を殴ったかのような手応えのなさ。衝撃がそのまま金棒を通じて手に帰ってくる。ジンジンと痺れる痛みに耐えながら、彼女は
その姿は圧倒的だった。ディオナの渾身の一撃も、まるで意に介していない。
『オオオオオッ!』
「うわああっ!?」
ただの足踏み。たったそれだけの動きで、周囲に激甚な揺れが広がる。
ディオナは慌てて木々に掴まり地震に耐える。
「ま、待て――」
その先にあるのは、多くの民が暮らすアルクシエラだ。
「待てぇえええええっ!」
体の奥底から響く絶叫。その声はディオナ自身の心すら揺れ動かす。守りたいと思った存在のため、彼女は力を発揮する。屈強なるオーガの、眠っていた力を解放させる。
その咆哮は竜すら無視できぬ気迫に満ちていた。全身の過剰な活性化によって白い湯気を立たせ、肌を赤くさせたディオナに、
「お前の相手は、ワタシだ!」
そう叫ぶ彼女の牙が、鋭く尖っていた。
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