第28話「魔境の獣たち」
魔の境をひとたび越えると、途端に空気が一変する。麗らかな春の陽気は凍てつき、錆びたナイフのような気味の悪さが首筋を伝う。そして、この変化をディオナはより敏感に捉えていた。
荷馬車で夜を越した明朝。俺たちは再三準備に抜かりがないか確認したのちに、いよいよ大森林へと踏み込んだ。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
振り返ってディオナの様子を窺うと、彼女はツノの間にじっとりと汗を滲ませていた。肌寒いほどの気温だというのに、まるで空気が粘ついているかのような、異様な感覚を覚えるのだ。
太く背の高い魔樹の足元には、俺たちの腰ほどまでもある草が鬱蒼と茂っている。光など樹冠によってほとんど遮られているだろうに。ここ魔境では、あらゆる常識が歪んでしまっている。
「進むぞ。はぐれないように注意しろ」
「うん」
硬い表情をしたディオナを連れて、森の奥へと藪を漕ぎながら進む。ここはまだ大森林の玄関口に過ぎない。こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
「伏せろ!」
「ひゃあっ!?」
遠くで風切り音を聞き、咄嗟に身を屈める。ディオナの腕を引いて、彼女も草むらの影へと促す。次の瞬間、魔樹の太い枝を折りながら巨大な鳥が頭上を通り過ぎていった。
パラパラと落ちてくるのは、強引に粉砕されたような木のチップだ。ただ鳥が枝葉を蹴散らしただけではこうならない。何か強い力が加えられた証左だ。
「アラン、あれは?」
「
どうやらディオナはあの鳥を見たことがないようで、呆気に取られた様子だった。
とはいえ、
「とりあえず、今日のところは中層まで入るのが目的だ。もう少し歩くぞ」
「うん!」
大森林は長年の調査の結果、ある程度の地図が完成されている。時折
基本的に生息する魔獣も最深層へ向かうほどに強くなる。今日のところはディオナが大森林に慣れるのを目標にしているため、比較的危険度も低い中層のあたりを軽く巡るつもりだった。
「アラン、ワタシが前に出た方がいいんじゃないか?」
「えっ?」
「ほら、こっちの方がアランは歩きやすいでしょ」
ディオナはそう言って、俺を追い越す。そうして、生い茂った雑草を棍棒で薙ぎ払い、分厚いオーク革のブーツで踏み倒しながらずんずんと進む。その突破力は流石の一言で、道なき道を進んでいた俺とは違って、彼女の背後にはくっきりと広い道が出来上がっている。
「ディオナはすごいな」
「ふふん」
得意げに鼻を鳴らし、ディオナは更に奥へと進んでいく。その後ろをついていけば、俺はほとんど体力を消費せずに済んだ。
「しかし、警戒は怠るなよ」
「うん。――前の方に魔獣がいるね」
そう言って彼女は足を止め、腰を低く下げる。やはりオーガのツノは鋭敏な感覚器なのか、周囲の状況をよく捉えている。
前方の魔樹、なんの変哲もないように見えるが、そこには樹皮に擬態した大蛇が絡みついている。
「アレは知ってるのか?」
「そこそこ美味しいけど、皮を使うことが多い蛇」
「まあ、だいたい合ってるか」
じっと目を凝らし、注意深く観察すればその姿が浮き上がってくる。体を木の幹に絡めて虎視眈々と獲物が近づいてくるのを待つ、
ディオナの言うように、食用にできないこともないが、主にその皮が丈夫で森の景色に溶け込むため、迷彩の防具として使用される。というか、オーガは魔獣に名前を付けたりしていないのだろうか。
「
「うんっ」
俺とディオナが近くの魔樹に身を隠した次の瞬間、木々の隙間から颯爽と大きな翼を広げた鳥が現れる。それは我が物顔で森の中を悠々と飛翔し、そして――。
『シャアアアアッ!』
『ピギィッ!?』
樹皮に擬態していた
あっという間に身動きがとれなくなった
「よし、通るか」
そして、そんな魔境に踏み込んだ俺たちもまた、そんな生態系の傍観者のままではいられない。
「アラン」
「来てるな。完全に見つかってる」
前を歩いていたディオナが止まる。俺もまた、槍を構えて彼女と同じ方向を向いていた。
その先から、魔樹を薙ぎ倒しながら獣が迫ってくる。強大な魔力を宿した、凶暴な獣だ。
「チッ、厄介だな。
現れたのは業火で身を包んだ巨大な猪だ。赤熱した鉄の大牙で木々を薙ぎ倒し、周囲に炎を燃え広がらせながらこちら迫る。普通の猪とは何もかもが乖離した、いかにも魔獣といった風貌の魔猪である。
「知ってる! 美味いやつだ!」
「えっ?」
ディオナの言動に一抹の不安を覚えるが、その間にも向こうは猪突猛進の言葉通り猛烈な勢いで距離を詰めてくる。
「ディオナ、避けろ!」
「大丈夫!」
「は? おい――」
俺は咄嗟に魔樹を駆け上って回避を試みるが、ディオナはその場から動かない。むしろ金棒すら足元に投げ捨て、両腕を広げて大猪を迎えている。
「何を――」
「どりゃあああっ!」
俺の目の前で、ディオナは真正面から燃え盛る猪と衝突した。森に響くような大声をあげて、両者が重なり合う。そして、ディオナはそのまま
「どっせーーーいっ!」
ディオナの気炎万丈の大声。その直後、大地を強い衝撃が駆け巡る。
魔樹の枝に登っていた俺は、眼下で繰り広げられる光景に唖然としていた。
「ディオナ……
彼女は生身である左腕に大きな火傷の痕を残しながらも、泰然として立っている。彼女は自分の体が焼けるのにも構わず、あの巨体を持ち上げ、投げ飛ばし、その硬い背骨を折ったのだ。
「アラン、今日はこいつの肉を食べよう!」
せっかくの一張羅をあっという間にボロボロにしてしまったディオナは朗らかな笑みでこちらを見上げる。そんな彼女に、俺は改めてオーガという種族の規格外さを思い知った。
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