第19話「冬が明けて」

 血と肉の腐臭に引き寄せられて、晩冬の森の中から魔獣が現れる。大きな鼻をフゴフゴと動かし、木々を薙ぎ倒しながら。それは眼前に倒れた六角鹿の雌を見つけると、歓喜の声を上げる。白い腹側の毛皮が切り裂かれ、流れ出した血液が黒く変色している。彼らにとってはちょうどよく熟成されている死肉であった。

 蹄で土を蹴り上げ、それは一目散に鹿の屍へと向かう。冷たい冬を乗り越え、空腹だった獣に理性は残っていなかった。都合よく自分の巣穴の近くで倒れている食料を見つけて、警戒することも忘れていた。

 その鋭い牙が、ひと季節ぶりの肉に食らいつこうとした、その時。


「いまだ!」

「うぉおおおおおおっ!」


 茂みの陰から飛び出してきた、体格の良い女傭兵が雄叫びをあげる。太く引き締まった腕に血管が深々と浮かび、猛烈な力が漲っている。彼女はひと束に結んだ白い髪を振り回し、黒鉄の右腕に握った棍棒を振り上げる。


「せぇい!」


 芯まで鉛の詰まった規格外の重量を誇る金棒が暴力の名を体現して振り下ろされた。表面に並ぶ鈍い突起が、よりその破壊力を高めている。

 その重量に似つかわしくない速度で動いた黒色の暴力は、一撃で冬眠明けのアーマーベアの腕骨を粉砕した。


「ちっ」


 しかし、ディオナは不満足そうに眉を寄せる。彼女は一撃で仕留めるため、頭蓋骨の粉砕を狙っていた。しかしアーマーベアはその身体能力を存分に発揮し、寝ぼけ眼にも関わらず咄嗟に腕を振り上げて頭部を守ったのだ。


「大丈夫だ!」


 ディオナの一撃は決まらなかったが、熊を狙っているのは彼女だけではない。

 俺は遅れて茂みから飛び出し、槍を勢いよく突き込む。

 アーマーベアはその名の通り、全身に鎧のような外骨格を持つ巨大熊だ。心臓や首といった急所はもちろん、四肢や腹部にいたるまで、あらゆる場所が分厚い骨によって守られているため、非常に戦いにくい。

 ディオナのように怪力に物を言わせた打撃で骨ごと粉砕できれば問題はないが、俺にそのような力はない。


「せやぁっ!」


 だが、こっちには十年以上の知識と経験と技術があるのだ。

 研ぎ澄まされた槍の穂先は、小さな点を貫く。骨と骨との間、生物として動く以上、どうしても埋めきれないわずかな隙間。そこを狙う一刺し。ディオナに注意を向けていた熊の膝裏がガラ空きだ。

 ずぶりと肉を刺す生々しい感触が柄に伝わる。ほぼ同時に熊は激痛に打ち震え、絶叫をあげた。大きくのけぞり、腕を広げる。痛みという耐え難い衝撃を受けたものの、正しい反応だ。


「やれ!」

「任せて!」


 だがそれは、致命的な隙だった。

 一瞬だけアーマーベアの意識からディオナの姿が消える。彼女は巧みにその瞬間を認識して、動き出した。振り下ろされた棍棒を、勢いを殺さず振り上げる。自身の太い足を軸にした回転で、再び武器を高く掲げる。


「砕けろぉお!」


 硬いものが粉砕される、凄まじい音が枯れた森の中に響き渡る。彼女の棍棒がアーマーベアの頭部を覆う分厚い外殻を粉々に砕いていた。血がとめどなく流れ、ディオナの体を赤く濡らす。


「ディオナ、まだだ!」

「うわっ!?」


 熊の背後から戦いを見ていた俺は、まだアーマーベアの四肢に力が宿っていることに気付く。咄嗟に声を上げるが、仕留めたと思い込んでいたディオナはわずかに反応が遅れる。

 目を見開くディオナに、巨熊が渾身の力を振り絞って激突する。ここ最近で急激に成長したディオナといえど、不意を突かれた突進を避けることはできず、また受け止めきれない。


「うわああっ!?」


 バランスを崩し、倒れこむディオナ。彼女の手から棍棒が離れる。

 武器を取り落としたのを好機と見たのか、アーマーベアは死力を振り絞って牙を剥く。己の血に濡れた顎がディオナの首元へ喰らいつく。


「させるか!」


 その僅かな隙間に槍を突き込む。いかに頑丈な鎧を纏うアーマーベアといえど、口腔は柔らかい。槍の刃が頬を裂き、歯茎を抉る。文字通りの横槍に、アーマーベアが忌々しげにこちらを見て吠える。

 俺とアーマーベアは、体格も力も、何もかもが違う。仮に一人で対峙することになれば、俺は一目散に逃げるだろう。今も恐怖に足が震え、動きが鈍い。だが――。


「うがああああっ!」


 こちらへ体を向けたアーマーベアの首を、大きな黒鉄の手が掴む。驚き、抵抗するアーマーベアだが、立ち上がったディオナは全身の筋肉を隆起させてそれを封じる。

 毎日十分な肉を食べてきた彼女は、ここ数ヶ月のうちに急激な成長を遂げた。その体格は俺を超え、今や2メルドに迫ろうとしている。しかも、彼女はただ大きくなったわけではない。胸当ての下に覗く腹筋は厳しく割れ、踏み込まれた大腿は血管が浮いている。

 凄まじい血流によって赤みを増しながら、彼女はただの腕力で熊を封じていた。


「があああっ!」


 獣のような雄叫びを上げながら、ディオナは右腕の出力を上げる。ユガが幾度となく試作を重ねた末に完成させた、ディオナ専用の戦闘義手だ。頑丈なブラックスチール製で、内部にはミスリルワイヤーが仕込まれている。ただひたむきに硬さを追求したそれは、たとえ熊に噛みつかれようとも傷ひとつ付かない。それどころか。


「あああああっ!」


 黒い鉄拳が熊の顎を打ち砕く。

 ディオナはツノを淡く赤に染めながら、次々と拳を繰り出す。一撃が破城槌のごとき破壊力で、アーマーベアの積み上げてきた鎧を砕く。

 外骨を壊す硬い音が森の中に響く。やがてそれは体内の骨を砕く鈍い音へと変わり、最後には肉を潰す水っぽい音となる。


「ディオナ」


 それでも拳を振り続けるディオナの名前を呼ぶ。だが、興奮した彼女の耳には届かない。

 俺は彼女の肩に手を置く。その耳元に口を寄せてもう一度名前を呼ぶと、彼女は肩を跳ね上げてようやく動きを止める。


「――良くやったな。アーマーベア、討伐完了だ」


 ちょっとやりすぎたけどな、と目の前に広がるグロテスクな惨状を見下ろして苦笑する。

 かなり高い値段がつくアーマーベアの外骨格や毛皮なんかが、ほとんどミンチみたいになってしまっている。まあ、討伐報酬は貰えるから、別にいいか。


「ごめん、アラン……」

「大丈夫。それよりも、強くなったな」


 ディオナが傭兵となってから半年ほど。その間に彼女は大きく成長した。

 とても16歳とは思えないほどの幼かった彼女は、今では別の意味で16歳とは思えない。背丈は俺を随分前に追い抜いて、今や組合のドアを潜る時に身を屈めなければならなくなった。

 とはいえ全身筋骨隆々の巨人族と同じというわけでもなく、女性らしい丸みも帯びている。それなのに中身はほとんど変わっておらず、こちらが反応に困ることも増えてきた。

 また、急激に成長する体に合わせて、義手も何度も作りかえた。その結果、いま彼女が装着している先頭義手は、彼女の戦い方に最適化されている。

 そして、彼女の足元に転がる巨大な金棒。俺はもはや持ち上げることすらできないそれを、彼女は軽々と扱う。その怪力と重量から繰り出される破壊力は、まさに暴力の権化だ。


「おめでとう、ディオナ」


 血まみれになった彼女の頬を拭いながら言う。それを聞いて、ディオナははっとした。今頃気づいたのかと苦笑すると、彼女は恥ずかしそうに俯く。


「ついに追いつかれちまったな」


 この半年間、破竹の勢いで成長し実績を積み重ねてきたディオナは、このアーマーベアの討伐によって第三級傭兵として認められることとなる。ついに彼女は、俺と同じところまでやってきたのだ。


「ありがとう、アラン。ワタシ、やっとここまで来れた!」

「うぉわっ!? 待て、血まみれだろお前!」


 破顔したディオナは思い切り俺に飛びついてくる。背中に回された腕がギリギリとこちらを締め付けてきて、絞られそうだ。慌てて腕を叩くが、義手だからか夢中になっているからかなかなか気付いてくれない。

 結局、俺は全身にアーマーベアの血を塗りたくられて、ボロボロになってしまうのだった。

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