第4話「飲んだくれの医者」
「飯を食い終わったら、医者に行くぞ」
「……イシャ?」
勢いよくモシャモシャとパンに齧り付いていたディオナはきょとんとした顔をこちらに向ける。口元に付いていたパンクズがポロリと落ちるのを拾おうとしたのか身を捩り、腕がないためにバランスを崩す。
「よっと。その傷、たいした手当てもせずに放置されてるんだろ。医者に見せないと腐って死ぬぞ」
彼女の体を受け止めつつ、少し脅してみる。すると、彼女は血相を変えてぶるりと震えた。
「死ぬのか!? それはイヤだ! イシャにいく!」
「そうするんだよ。ほら、さっさと食べろ」
如実に怖がる彼女に少し強く言い過ぎたかと反省しつつ、食事を急かす。気がつけばもう日が暮れている。医者がドアに鍵を掛ける前に向かわなければ。
パンとハムを口の中に詰めてスープでそれを流し込み、ディオナは素早く食事を終える。喉を詰まらせないかとヒヤヒヤしたが、豪快な食べっぷりで完食してしまった。ぴょこんと椅子から立ち上がった彼女を連れて、俺は小さなアパートを出た。
「アラン、イシャはウマいのか?」
「美味い? 医者は食べもんじゃないぞ」
道すがら、的外れなことを言うディオナに首を傾げる。そんな俺の反応に彼女も驚いた様子で、ぱちくりと目を瞬かせた。
「お前の傷を診てもらうんだよ。薬でも何でも貰って、治すんだ」
「どうして傷を見るんだ?」
「逆に今まで、怪我したらどうしてたんだよ」
思うように進まないやり取りにやきもきしながら尋ねると、ディオナは白髪の下から伸びる小さなツノを上向かせてわずかに首を曲げる。
「怪我したら、肉を食べる! 食べて寝たら、治ってる!」
「オーガって奴は……」
なんとも単純明快な答えが返ってきて肩の力が抜けてしまった。それを聞いて思い出す。オーガ族というのは、自然治癒力が他の種族に比べてかなり高いのだ。多少の切り傷や骨折、指が切り落ちたとしても肉を食って十分な休養を取れば治ると聞いたことがある。
そんなだから薬草や医療といった概念そのものが縁遠い存在なのだろう。今までそれで生きてきたし、自然治癒力でカバーできない重症は死ぬ定めだったのだ。
「けど、ディオナの腕は生えてないよな」
「うん……」
肩から先のない彼女を見て指摘する。彼女には肉も食わせたしたっぷり寝かせたはずだが、その効果はあまり出ていない。それとも、ハムの塊ひとつ程度では到底足りないとでも言うのだろうか。
「穴掘りしてた時、肉食べられなかった。貰えたのは、豆を茹でたやつだけ。それで、力もあんまりでなかった」
ディオナは俯き、ぽつぽつと語る。やはり、彼女が捕まった奴隷商人はあまり品の良いものではなかったらしい。表沙汰にはできないような場所で過酷な労働を強制され、食事や休眠も満足には与えられなかった。その様子は、なによりも彼女の体が雄弁に語っていた。
一晩でかなり血色は良くなったとはいえ、まだ頬はこけているし、肌も荒れている。骨が浮くほどに痩せているし、とても逞しく豪腕なオーガ族とは思えない。彼女の種族の証となるのは、その額から伸びる二つのツノだけだ。
「傷を治すための栄養が取れなかったから、中途半端になったのか?」
袖口から垣間見える傷跡は、蝋を固めたように痛々しく癒着してしまっている。腕が潰れた彼女を見て、奴隷商人が強引に鉄で焼いた可能性も考えたが、そういうわけではないらしい。傷を癒すだけの栄養がなかったせいで、完全な治癒ができなかった、というのが真相のようだった。
「となると、医者に見せてどうにかなるかね……」
一抹の不安を抱きつつ、俺は路地奥にひっそりと佇むドアの前で立ち止まる。
「ここにイシャがあるのか?」
「一応もう一回言っとくが、医者は食いもんじゃねない。犬も食わねえような偏屈なジジイだよ」
好奇心に紅瞳を光らせる少女に釘を刺しつつ、ドアを強く叩く。
「メディッジ! 起きてんなら開けてくれ!」
ドンドン、ドンドンドンと何度も拳で殴る。そろそろドアノッカーでも付けておけと言いたくなるが、ここの主人は営業中も鍵を掛けている馬鹿野郎だ。薄っぺらいドアを開けたければ、奴が起き出すまでしつこく諦めないのが重要だ。
「うるせぇい! もう営業は終わった!」
「始まりも終わりもテメェの匙加減だろうが。酒代くらいは渡してやるから開けてくれ」
奥から響く苛立ちのこもった男の声にそう返すと、驚くほど呆気なく鍵が開く。軋むドアの隙間から顔を覗かせたのは、荒れ放題の髭面のひょろりとした老人だった。
メディッジという名のこの男は、この辺りでは一番の医者だ。四六時中酒を飲んで酔っ払っているのが玉に瑕だが。それでも、貴族街に店を構えるようなお医者様と比べても遜色はないはずだ。
「ドケチのアランがずいぶんと気風の良いこというじゃねぇか。どういう風のふきまわしだい」
「倹約家と言えよ。ちょっと診てもらいたい奴がいるんだ」
老人の気が変わらないうちに体を捩じ込み、部屋の中に入る。地味な立地と玄関に似合わず、中は割合しっかりとした診療所だ。患者用のベッドで寝ていた痕跡が見て取れるのはご愛嬌といったところだろう。
俺は後ろを振り返り、ディオナを呼ぶ。彼女の姿を認めたメディッジは、ほう、と小さな目を凝らした。
「オーガ族たぁ、珍しいな。この辺に里なんかあったのか?」
「どこの出身かは知らん。世間知らずのうえに警戒心もないみたいで、悪い奴に捕まってどっかの穴で働いてたらしい。その時に怪我して、腕がない」
「ほう? これはこれは……」
ディオナの着る服の右袖が頼りなく揺れているのを見せると、メディッジも興味をそそられたらしい。赤ら顔の酔っ払いが、真剣な医療者の表情に変わる。
「服を脱げ」
「いやだ!」
「別にオレと寝ろって言ってるわけじゃねぇ。傷口をよく見せてみな」
「ディオナ」
メディッジの指示に対して即座に拒絶の意を示すディオナ。俺が促すと、彼女は渋々といった様子で上着を脱いだ。肋の浮いた灰色の肌が顕になり、そこにも無数のアザや傷跡が残っているのがよく見える。
メディッジは机の上に投げられていたメガネを手に取り、傷口に顔を近づける。軽く指先で傷口に触れて、ディオナの様子を窺った。その動きに邪なものを感じなかったのか、彼女も少し気を緩ませる。
「傷口は完全に塞がってるな。骨が伸びようとした感じもあるが……」
「食って寝てれば治るらしいが、腕が潰れた時は食事も睡眠も取れなかったらしい」
「なるほど。腕一本を戻そうとするなら、かなりの肉が必要だろうしな。傷口を塞ぐだけで精一杯ってところか」
メディッジはオーガの身体にも精通しているらしく、ディオナの境遇を聞いて得心がいったように頷いた。彼は鋭いナイフを手にすると、その腹で傷口を軽く叩く。
「ちょっと痛むが、気にするな」
「ぎゃああっ!?」
「おぐっ!?」
ずぶり、と刃が肉を切り分けて奥へ入る。ドス黒い血が流れ、絶叫したディオナが左の拳を振り上げる。それが、ちょうど俺の鳩尾を強烈に叩いた。悶絶して膝から崩れ落ちる俺に一瞥もくれず、メディッジはナイフで肉を切る。
「無理に繋がってるところを切って、溜まってた古い血を取り除いた。とはいえ、これで元通り腕が生えるかは怪しいぜ」
「……とりあえず、ユガのところで義手は頼んである」
まだ胃の下に鈍い痛みが残っているが、ベッドを支えにして立ち上がる。流石はオーガ族だ。身体が衰弱しているというのに、その打撃は歴戦の傭兵に勝るとも劣らない。これは将来有望だな。
「ま、それが一番かもな。傷口が下手に塞がっちまってるせいで、腕を生やすのを諦めたんだろう。気持ちを切り替えてここからどうするか考えた方がいい」
メディッジがナイフを置き、眼鏡を外す。ディオナの傷口を見てみれば、すでに血は止まり、真新しい薄皮が傷を塞いでいた。この数秒でここまで回復するとは思わず、改めてオーガの生命力に目を見張る。
「痛みはあるかい?」
「……なくなった」
突然切りつけられたディオナは不服そうな顔をしつつも、メディッジの処置の成果を認める。余分な血が皮の下に溜まっていたせいで神経が圧迫され、痛みの元になっていたのだと医者は説明する。飲んだくれのどうしようもないジジイではあるが、やはり医者としては優秀だと認めざるを得ないのだ。
「よかったな」
何はともあれ、ディオナの苦痛が少しでも和らいだのならここに来た意味があった。
彼女の白い髪を撫でてやると、彼女はぶすっとした表情のままメディッジに険しい目を送る。
「ワタシ、イシャきらい!」
どうやら、予告なく切られたことがよほど腹に据えかねるらしい。
俺の後ろに隠れて顔だけを見せる彼女の様子に、メディッジがヒゲを震わせて笑う。
「なっはっは! 医者が好きな子供がいるかよ。ガキはガキらしくピーピー泣いてりゃいい!」
「ワタシは子供じゃない! 誇り高きオーガ族だぞ!」
「オーガ族の子供 じゃねえか」
ゲラゲラと笑うメディッジに、ディオナは牙を剥いて睨む。こうして見ていると、仲の良い祖父と孫のようにも見えてくる。
「ワタシはもう16だ! 立派な大人だ!」
「えっ?」
声を張り上げて叫ぶディオナに、俺とメディッジは揃って目を丸くする。そんな俺たちの反応は、彼女の怒りに更に油を注いだようだった。
「オーガってのは
「てっきり10歳くらいかと……」
「ワタシはちょっとだけ成長が遅いだけだ! たくさん肉を食ってたくさん寝れば、今にお前らの身長も追い越すんだからな!」
ぷりぷりと怒るディオナは、やはり年端もいかない子供のようにしか見えない。いくら奴隷としてひどい扱いを受けていたとはいえ、それまではオーガの里で普通に暮らしていたはずだ。それにしては、ずいぶんと成長が慎ましい。
彼女が見栄を張っているのか、もしくは何かしらの事情があるのか。俺とメディッジは目を見合わせ、肩をすくめた。
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