後編

 妖魔を題材に描いた僕の作品は、美術界で大変高い評価を受けた。新進気鋭の若手作家と騒がれて、僕は鼻が高かった。その絵がきっかけで、有名な画商からも声をかけてもらえるようになり、収入も跳ね上がった。僕は、自分の絵描きとしての成功に有頂天になった。


 ある日僕は、次の作品に取り掛かろうと、意気揚々とキャンバスの前に座った。その時、開いた窓から、妖魔が夜の闇に飛び立とうとした。僕は思わずその体を両手でつかんでいた。


「待てよ、ヨーマ!どこに行くんだ」


 あの花の蜜を吸おうとしただけかもしれない。だが、僕は、自分でも驚くほどに焦っていた。冷たいものを背筋に感じた。妖魔が、どこかへ行ってしまったら?もう二度と、僕の所へ戻って来なかったら?僕は、これまで感じたことのない不安に、目の前がくらくらした。


 妖魔を見ると、僕の気持ちなどお構いなしで、ルビー色の瞳で夜の闇を見つめている。僕の言葉など聞いているはずもなかった。これまでだって、意思疎通が出来たことなどない。そうだ、こいつは、僕らの世界に属しているものではない魔性の存在。来た時同様、去る時だって、気ままに消えて行くに違いない。家のどんな隙間からだって、こいつならふらりと出て行ける。こいつはただ、本能の命ずるままに、自由気ままに飛び回っているだけなのだ。


 僕は思わず、本当に、今考えると、なぜそんな残酷なことをしたのか理解に苦しむのだが、妖魔を片手に捕まえたまま台所へ駆け込み、一番大きな鍋を逆さにかぶせた。


「これでよし!」


 そして、急いで閉店間際のホームセンターに行き、一番大きな虫の飼育ケースを買って来ると、妖魔をそこに移した。妖魔はあちこちに体をぶっつけながら、ケースの中を飛び回る。僕はほっと息を吐き、心底申し訳ない気持ちで、ケースに語り掛けた。


「ごめんよ、ヨーマ。でももう、お前なしではやっていけないんだよ」


 女に別れを切り出された、未練がましい男のような台詞を吐いた。我ながら情けない。僕はそれから、急いで川べりに走って行き、例の花を、根ごと小さな植木鉢に移して持ち帰った。それを、飼育ケースの蓋を少しずらして中に入れてやる。妖魔はいつも通り、優雅にその花弁に腰を下ろした。その美しい姿は、ケース越しでも変わらなかった。僕は満足し、ケースをキャンバスの前に置いて、絵を描き始めた。


 翌朝目覚めた僕は、異変に気付いて飼育ケースに駆け寄った。花が枯れている!僕は慌てて植木鉢を覗き込んだ。土は渇いていない、肥料もさしてある。だが、あれほど瑞々しく輝いていた黒い花弁は、一晩のうちに見る影もなく乾燥し、茶褐色に変色している。真珠のようだった花芯も、薄汚い灰色になって無残に零れ落ち、麗しく伸びていた黄金の茎は、茶色く節くれだって今にも折れそうだった。


「まさか……場所を移したから?」


 この花は、あるべき場所に咲かせておくべきだったのかもしれない。僕は、自分が何か、とんでもない過ちを犯したのではないかとの思いに、呆然と立ち尽くす。妖魔は、枯れた花には目もくれず、一心不乱に蓋に向かって羽ばたいている。スマートフォンが鳴った。


「は、はい、田宮です」


「あ、田宮先生?庄司です。画商の。絵ですけど、もうちょっと早く納品出来ます?代金は一部前払いでどうですか」


 妖魔がしきりと羽ばたいている。僕は掠れる声を絞り出した。


「あ、はい……分かりました」


 画商は「じゃあ宜しく」とだけ言って電話を切った。僕は飼育ケースの蓋に手をかけた。だが、もし妖魔をここで放したら、二度と帰って来ないのではないか。そうしたら、もう二度と、僕はこの美しき姿を描けなくなるのではないか。僕の画家生命も、ここまでになってしまうのではないか……。そんな不安が次々にせりあがって来て、どうしても、蓋を外すことが出来ない。


 蓋に手をかけたまま、どのくらいそうしていたか分からない。雷の音が鳴って、はっと顔を上げる。その時、妖魔と初めて目が合った。そのルビー色の瞳が僕の瞳を見つめた。妖魔の表情はいつもと同じ。喜びも悲しみも、そこには現れない。でも。


「……お前は、僕のものじゃないよな……」


 僕はぽつりと呟いて、そっと蓋を取った。ついでに、窓も全開にする。今日は幸い、朝から雷雨だ。ごろごろと鳴る雷鳴と大粒の雨が、街をどんよりと覆っている。こいつの旅立ちには、最高の日じゃないか。


「ほら、行きなよ。お前と会えて、本当に良かった」


 女と別れる際の捨て台詞のようになってしまった。僕は涙をこらえていたが、妖魔は表情も変えず、いつも通り優美に羽ばたいて、空に向かって軽やかに飛び立った。月の雫のような銀色の光が、暗い室内に舞い落ちる。妖魔は一度も振り返らず、あっという間に暗い空に消えて行った。


 僕のそれからの絵画の評判は、散々だった。そもそも、仕事に身が入らない。心にぽっかり穴が開いてしまって、何もやる気がしなかった。声をかけてもらえた仕事の大半はキャンセルになってしまったけど、僕はそれで構わなかった。もとより何も持たないこの身。あいつみたいに、軽やかに生きるのも悪くはない。


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 あれから二十年。僕は画家としては大成しなかったが、幸運にもアルバイトをしていたデザイン事務所に引き続き雇ってもらえることになって、今ではそこの役員をしている。妻と一人の娘にも恵まれて、ささやかながらも幸せな生活だ。


 妖魔には、あれから二度と会うことはなかった。あの不思議な花にも、もう二度とお目にかかれない。今思えば、あれは何かの幸運、美を求めて、肉体的にも精神的にも彷徨っていた僕に美の神様がくれた、気まぐれなギフトだったのかもしれない。あの美しい花も、妖魔も、もう正確に思い出すことは出来ないけれど、僕の心の片隅に、確かにしまい込まれている。きっとあの美しき妖魔は、今もどこかの闇の中を、何ものにも縛られず、自由気ままに放浪しているに違いない。


「パパぁー、あのね、聞いて」


 庭先で、珍しくビール片手にそんな感傷に耽っていると、今年六歳になる娘のはなが、花火を片手に顔を突き出した。


「わっ、驚いた。なあに?はなちゃん」


 僕が問いかけると、彼女は、ずり落ちた浴衣を気にもせず、興奮に顔を紅潮させて笑った。


「あのね、綺麗な妖精さん、見つけたの!あっちのね、綺麗な花の上を飛んでたよ」


                                    Fin

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妖魔 愛崎アリサ @arisa_aisaki

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