妖魔

愛崎アリサ

前編

 僕は、人間が理解できるもの、認識できるものなんて、この広大な世界全体のごく一部に過ぎないと知っている。だからその夜、奇妙な生物が僕の胸にくっついていても、別に大した問題じゃなかった。僕はその生物を胸元にくっつけたまま、家路をのんびりと歩いて帰ったのである。


 僕の名は田宮レオナ。画家をしている。と言っても、作品は全然売れず、デザイン事務所でアルバイトをしながら倹しく生活している。いつか、何か大きな作品を生み出したいという希望はあれど、なかなかそんな題材に恵まれない。僕は日夜、美を求めて、美しさの表現の在り方を模索して、この薄汚い現実を生きている。


 そんなある日、勤務先のデザイン事務所の帰り道、通勤路の河原を歩いていた僕は、土手に生い茂る草の中に、見慣れない花を見つけた。リンドウに似て非なるもの。黒もしくは紫、いや見ようによっては黄金にも見える、奇妙で麗しい花。六枚の黒い花弁は夜闇の如く密やかで、中央には真珠のような花芯が輝いている。


「なんだろう、これ。初めて見る花だけど」


 僕は立ち止まって、座り込んだ。薄暮のことである。風もないのに揺れるその花に、何とも言えぬ胸のざわめきを感じて見つめていると、大型犬を連れたおじさんが、すぐ脇の散歩道を通りかかった。すると、急に犬が暴れ出し、僕の見ていた花を目掛けて、今にも飛びかかって来ようとしているではないか。


 踏みつぶされる!僕は、咄嗟に花の上に覆いかぶさった。噛みつかれませんように、と祈りながら。おじさんは大声を上げて犬を制止し、必死にリードを引いた。寸でのところで、僕は難を逃れた。おじさんは平身低頭謝りつつ、犬を引きずり去って行った。ほっとして身を起こすと、僕の胸元で、何か小さなものが、ごそごそ動いた。


「わわっ、虫?」


 違った。焦って払おうとした僕の目に映ったのは、虫ではなく、見たこともない小さな生き物だったのである。


 妖魔(本来の名は不明だが、僕は凡その特徴から推測して、こう呼ぶことにした。便宜上、名が無いのは不便だ)は、身長十五センチ弱の、大層美しい生き物だった。正直言って、僕は二十三年生きて来て、これほど胸ざわめかせる美麗な存在を目にしたことはない。


 そいつの肌は琥珀色で、その全身は蜂蜜のように輝いている。小さな頭部は人間のそれとほぼ同じで、目、鼻、口は完全なる黄金律の配置にあり、僅かに尖った耳はひくひくと絶えまなく動き、遠い異界の音に耳を澄ましてでもいるように見えた。アーモンド形の瞳は赤銅色に燃え、頭部に巻き付けられた頭髪は、夜の神秘を映して黒々と輝いている。頭頂部から幾本も垂れ下がる髪飾りは腰まで優美に流れ落ちていて、星の瞬きをそのまま身に纏っているようだ。妖魔は小さな腰布を巻いていたが、その、紫、或いは黒に輝く衣が何で出来ているのかさえ、僕には分からない。アメジストなどの鉱石を砕いて、その粒を織り上げているのではないか、と思えるほど輝く衣。背には感動するほど透明な羽が一対生えていて、羽ばたくたびに月光に似た光を撒き散らしている。妖魔は音もなく軽やかに飛び回り、ひとときもじっとしていない。


 妖魔の体には、性別を示す身体的特徴はなかった。両性具有なのか、そもそも性という概念が存在しないのか。また食事に関しては、あの奇妙な花の蜜だけを吸っているようだった。陽光を嫌い、日中は陽の光を避けるように部屋の隅の暗がりを飛び回っているが、夜になると出て来て、あの花目指して飛んでいく。最初は窓から飛び出ていく妖魔を慌てて追いかけたものだが、最近ではすっかり慣れて、懐に妖魔を入れて夜の散歩に出るのが、僕の日課になった。夜の川辺で、風のように舞い踊る妖魔を見るのは楽しかった。闇を棲み処とし、夜を遊ぶ。僕は、すっかり妖魔の虜となった。この気まぐれで美しい、魔性のもの。妖魔をこの筆で描いてみたい。これこそ僕が追い求めていた、究極の美だ。


 妖魔はすっかり僕の生活に馴染んだ。こいつは、他の人間には見えないらしい。と言っても、日中は家の暗がりにいるし、夜だって、川べりの散歩中に行き交う者もそうはいない。いたとしても、こいつは街灯の光すら届かない暗闇をふらついているので、見つかることもなさそうだが。


 僕はこいつを「ヨーマ」と名付けた。我ながらセンスのないネーミングだ。僕らはいい友達になった気がしていたが、その実、僕は本当のところは理解していなかったのかもしれない。妖魔が、人間とは交わらぬ、気まぐれな存在であることを。その体に流れているのが、夜の冷たい魔性の血であることを。

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