3 鬼住む山
「高橋教授は、鬼が住むという山々を、巡っていました。」
鈴峰大学文化人類学研究科・准教授田中直樹さんは、そういった。
お尻のポケットから差し出されたしわくちゃの名刺を、目の前のテーブルに置いたお母さんの隣で、わたしはそれを聞いていた。
病院へ戻るところだったが、取り合えず居間に田中さんを招き入れ、わたしを隣に座らせたのだ。
昨日おばあちゃんと片付けに入ったあの家に、十年くらい住んでいた老人は以前、大学で田中さんの指導教授だったという。
高橋一教授。その人の指導で晴れて大学院を卒業し、それからすぐ退任した高橋さんの研究室にいるのだと。
「退任後は、鬼の伝承の残る地域の研究をなさっておられました。」
ライフワークにするといっていたらしい。
「は、はあ・・」「鬼って、あの漫画やアニメのやつ、ですよね。」
わたしは戸惑うお母さんの代わりに口を挟んだ。
「ええ、昔話、おとぎ話なんかで、よく耳にする、あの鬼です。
鬼って、歴史、古いんですよ。
聞いたことないですか。大江山の酒呑童子とか、一条戻り橋の茨木童子とか、
ここら辺も《《大嶽丸》おおたけまる》という鬼がいた山、ありますよ。
鬼といってもうんと昔は、頭にツノのある奴ばかりではなかったんですよ。
物の怪の類でしたから。
あ、今、いい年した大人が、鬼や物の怪なんて、って、そう思いませんでしたか。」
田中さんはわたしたちを交互に見て笑った。
「い、いいえその、・・・」「いいえ、・・・」
「こんな話、興味、ない、ですよねえ・・・」
「は?はあ・・」「そ、そんなこと、は、」わたしたちは戸惑うばかりだった。
「ごほんっ、えっと、」
話しを続けた。
今、僕はフィールドワークで、全国の山間部で古くから語り継がれている民間伝承の収集をしています。
特に林業関係者や狩猟従事者に伝わる話を集めているところです。
あちこちの山深い土地へ出かけていき、不思議なものや怖いものの話を聞いて回るのが今の僕の仕事というわけです。
昨日、山形の出羽三山から下りてきたばかりなのですが、すぐに高橋さんを訪ねようと思ったのです。
それは前日の夜、夢枕に立つ高橋さんの姿が、あまりにも鮮明だったから、無性に会わねばと思ったからです。
とそこまでひと息にいった。
「夢枕って?」お母さんに耳打ちしたけど。
お母さんは早く話を切り上げたいのだろう。わたしにちらりと目を向けただけで答えてくれなかった。
「その高橋さんとおっしゃる方は、先週亡くなったそうですよ。
昨日、この子が家主の私の母と、その方が借りていた家の片付けに行きました。」
わたしは無言でうなずいた。
「えっ、」田中さんはしばし絶句した。
「そう、でした、か。もしや、そんなことではないかと、思ってはいましたが、」
しばらくして
「高橋教授、いえ高橋さんは、こちらのお宅を拠点にして、近在の山々をもう一度
巡り直していると、手紙にありました。
探しているものが、見つからない、とそんな文面でした。
それはでも三年前のことですけど。
鬼の住む山に何があるのか、それを、最後まで教えてはいただけませんでした。
目当てのものを探し当てたのであれば、いいのですが。
そうでなければ、お力になれることもあったのではないかな。」
だんだん声に力がなくなってきた。
「三年前、職員から渡されたこれが、今となっては最後の手紙になってしまった。」
と田中さんは目を閉じた。
お母さんが出してきた箱は、昨日、いくつかのお札や白い着物ののようなものだけだったのに、開けると、大学ノートや手紙がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
帰ってきてからおばあちゃんが入れたのだろう。
もしかすると、これまでの記録なのかもしれない。
高橋さんから預かっている貴重品とはこれだったのかな。
「あの、これは高橋さんの持ち物だったのですよね。
よかったら、僕に引き取らせてもらえないでしょうか。」
当然そういうだろうと思った。
そのとき電話が鳴り、「ちょっと失礼」。お母さんは隣の部屋へ行った。
戻ってくると、
「すいません。さっき話した私の母が、昨日入院して、今精密検査の途中なんです。
病院から、戻ってくるようにいわれましたので、今日のところはこれで失礼させていただけませんか。
これは母が管理していたものですので、母の許可を取ってからお返事したいのですが、それでよろしいでしょうか。」
「そう、ですよね。そりゃあそうです。
お母様と高橋さんとの取り決めも、何かおありかもしれませんし。
わかりました。
それから、あの、亡くなった後どちらに埋葬されたのか、それも教えていただけると有難いのですが。
亡くなられたこと、職員からは連絡がありませんでした。
もしかしたら大学の関係者は誰も、今度のことは知らないのではないかと思いまして。」
「わかりました。こちらからご連絡いたします。」
田中さんは当分大学にいるということだった。お母さんと連絡先を交換しあい帰って行った。
亡くなった高橋さんが訪ね歩いたという鬼の住む山。
何年もかけて、そんな山を巡って何を探していたのだろう。
お母さんは、田中さんの話しを疑わしげに聞いていた。始終「はあ、」と気のない返事で、田中さんのこと、きっと胡散臭い人だと思っていたのだ。
だけどわたしは、その楽しそうに話す鬼のことをもっと聞きたくなった。
「鬼住む山」の話しを。
「明日香、ちょっとおばあちゃん、また具合悪くなったみたいなの、あんたどうする?」
「そうなの?わたしも一緒に行っていい?」
何だか付いて行きたくなった。わたしも行かなくちゃいけない気がした。
部屋が移動していた。
看護師さんたちの詰めているカウンターの真ん前になっている。
お母さんの顔色が曇った。
「木下さんのご家族の方ですか、ちょっとこちらへ」
担当のお医者さんの部屋へ案内された。
「実は・・・」
検査の結果は特に悪くはなかったのだが、終わると容体が急変した。
何度か意識を失うこともあり、苦しそうな様子だという。
「結果が悪くなければ二三日で帰れるところでしたが、しばらくこのまま入院していただき、様子を見たいです」とお医者さんはいう。
「不思議なんですよね・・・」
首を傾げて、ためらう様子だった。
「何か、大きなストレスでも抱えていた、ということはありませんでしたか。」
お母さんは言葉に詰まった。
「この頃、特に変わった様子は・・・
一緒に暮らしているわけではありませんが、定期的に顔を見には行ってました。
明日香、あなた、昨日、何か気が付いたことあった?」
「わたしも、特に何も」首を振るしかなかった。
休みに入ってからは、度々おばあちゃんとこに行ってたけど、疲れている様子もなかったし、愚痴さえ聞くこともなかった。いつもの元気なおばあちゃんだった。
車の中で、途方に暮れた顔をお母さんはちょっと見せたけれど、
「大丈夫、大丈夫、おばあちゃんは、大丈夫。」
わたしにというより、自分にいい聞かせるように声を張った。
夜中また、電話が鳴った。病院からだ。嫌な予感がした。
連絡を受けたわたしたちは、お医者さんや看護師さんたちが忙しく動いている中、おばあちゃんの、ひときわ大きなため息を聞いた。
そのとき一瞬、時間が止まったような気がした。
意識が戻ることもなく、誰かの名前を呼ぶこともなく、おばあちゃんはまた、ため息をついて、そしてそれが最期だった。
何だかとても安らかで、本当に心底ほっとしたような顔をしていた。
「よう頑張ったね、明日香、おめでとう。」
あの声がまだ耳に残っている。
来週の入学式の夜には、一緒にお祝いの食事をすることになっていたのに。
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