閑話 姫榊琴歌は失敗する

「洗い物は俺がやるよ」


 食べ終わった食器を持ってくると、依河よりかわくんはそう言って、腕捲くりをして流し台に向き合う。


「いいんですか?」

「いいもなにも、そもそも俺の家のことだしな」

「家のお手伝いとか出来る人だったんですね」

「馬鹿にしてるのか」

「あら、すみません」

「否定をしろよ……」


 思わずツッコミを入れる為に、依河くんは一度振り返って私の方を見てくる。再び流し台に向き合うと皿についたソース等を水で流して、その後でスポンジに洗剤をつけて洗い始める。慣れた手付き、普段からこういうことはしているのかもしれない。左手の人差し指に巻かれた絆創膏も、気に留めることなく食器を洗っていく。


「一応、怪我人に押し付けるのは申し訳ない気もしますが」

「だから大したことないって」


 そろそろしつこいかな? 流石にこれ以上誂うのはやめておこう。


「じゃあお言葉に甘えて、ゆっくりしてますね」

「ああ…………ん?」

「え?」


 流し台から離れようとした時、依河くんが何か不思議な反応をしたので足を止めた。振り返って依河くんを見ると、洗い物をしている手が止まっていた。でも、それも一瞬のうちで、すぐに洗い物を再開する。


「いや、そうだな。ゆっくりしててくれ」

「……? はい、そうさせてもらいます」


 少し気になるような反応をしてたけど……とりあえず、気にしないようにしてリビングのソファに座る。


「そうだ、コーヒーでも淹れようか?」

「そしたら、洗い物が増えてしまいますよ?」

「また洗えばいいだろ。父さんと母さんが帰ってきたら姫榊ひさかきの料理食べるだろうし、そん時にな」

「じゃあ……頂いていいですか?」

「ああ、ちょっと待っててくれ」


 …………甘えてしまうなぁ。

 椅子に座って、目を閉じる。コップを取り出す時のガラス同士が擦れる音、インスタントコーヒーのパックを開ける音、お湯を注ぐ音。静かに、ただただその音に耳を澄ませて、浸ってしまう。子供の頃とは違う、静かな時間の楽しみ方。コーヒーの香りが鼻をくすぐると、足音が聞こえてくる。


「眠いのか?」

「いいえ。ありがとうございます」


 依河くんはテーブルの上にコーヒーを置くとまた流し台の方に戻って行く。洗い終わった食器を片付けるのだろう。


 コップを持って、息を吹きかけてコーヒーを冷ます。口をつけて一口、熱を確かめるように少しだけ飲む。胸の奥が暖かくなるようなこの感じは、コーヒーのせいか、それとも……


「………………」

 

 ………………………帰るタイミングを逃しましたね。


 気づいた。

 時刻は18時手前。依河くんには料理を食べてもらうという目的は達成しました。食器は依河くんが片付けてくれる。もうすぐ依河くんのお父さんとお母さんも帰ってくるでしょう。


 そうか、依河くんの反応がおかしかったのはこれか。もう帰ってもよかったはずだけど、流石にこのコーヒーを飲みかけで帰るのも悪いですし……。

 

 間を潰すように、ただただ黙ってコーヒーを飲んでいると、ピコン。と、スマホの通知音が鳴った。私のかと思ったけど、どうやら依河くんのものらしく、依河くんはスマホの画面を眺めていた。


「は?」


 依河くんがなんだか困惑した様子で呟いた。


「どうかしたんですか?」

「いや、父さんと母さん帰るの遅れるって」

「え」


 じゃあ、どうしよう……ここまで来たら依河くんのお父さんとお母さんに挨拶して、そのタイミングで帰ろうと思ったけど……。


「何時ぐらいになりそうなんですか?」

「23時くらいとは書いてあるけど」

「23時……」


 流石にそこまでは居ることは出来ませんし。


「姫榊はどうする? いつまでこっちにいる?」

「へぇっ? そ、れは……」


 まるで私の思考を読み取られたような質問に少し驚い────って!?


「あっ!」

「姫榊?」


 ぼっーとしてたせいか、慌ててコーヒーの入ったコップを太腿の辺りに落としてしまう。


 なんとかコップは落ちないようにして、内心ほっとする。幸いなことに、中身は殆ど残っていなかったので、熱くても恐らく火傷するほどじゃないと思う。


「大丈夫か?」

「うぅ、すみません……床に少し溢れてしまいました。」

「別にそれはいいけど、火傷とかしてないか?」

「はい、それは大丈夫です。もう殆ど中身もありませんでしたし」


 とはいえ、服にコーヒーを溢してしまったのは結構ショックだ。


「それ脱いだ方がいいだろ」

「ぬっ!?」


 確かに染みになるからそうだけど! というか溢した場所が場所なだけにあまりジロジロ見られるのも困りますけど!!


「どうする? 代わりの服……ジャージでいいなら貸そうか?」


 生温い感覚が気持ち悪いし、確かに着替えたい気持ちもあるけど!


「い、いえ大丈夫です! 実は私の家は隣なので!」

「いや知ってるよ」

「だから! 今日のところ帰らせて……あっ、でも床を拭いてから……」

「それはこっちでやっておくから」

「でも……」


 依河くんがテッシュを持ってきて、私に立ち上がるように促してくる。立ち上がって、改めて自分の姿に恥ずかしくなる。


「早くしないとシミが残るだろ」

「っ……すみません」


 ここは依河くんの言葉に甘えさせて頂くことにする。罪悪感が込み上げてくるが、ここは言う通りに帰ることにする。玄関に向かうとしたところで、依河くんに呼ばれる。


「姫榊。今日はありがとな、美味しかったよ」

「あ、はい。またいつでも言って下さい……」

「ああ、またな。楽しみにしてる」


 そう言って、私は家を出る。「またな」と言われたのが、子供の頃に戻れたようでなんだか嬉しくて、思わずニヤけてしまいそうになるが……。


 完全にやらかしました!!


 人の家の床を汚して撤退するというのは、絶対にやりたくなかった。私は帰ってからもしばらく頭を抱えていた。

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