閑話 姫榊琴歌は困惑する

 私はとある部屋の前で立ち尽くしていた。手を伸ばし、ドアノブに触れる。それを回して扉を開ける勇気は私にはなくて、そっと手を離した。いや、勇気とはではなくて──


 流石に寝室に勝手に入るのは駄目だと思うのですが……。


 目の前にある部屋は依河よりかわくんの部屋だ。依河くんの家に来たら、依河くんのお母さんが出てきて家に上げてくれた。けど、お母さんもお父さんも出掛ける用事があったので、先程家を出たところ。


 流石に不用心ではないでしょうか……。


 確かに田舎の玄関は緩いとは言うけど、隣の家の息子の幼馴染とはいえ、殆ど無人と言ってもいい状態の家に上げるなんて、何より寝ている息子に何かあったらとかは──


 いや、別に私は何もしませんけど。


 そう、何もしない。

 ドアノブを指でなぞるけど、流石にその扉は開けられない。寝室は最もプライベートな空間だと思っている。だから、許可なく勝手に入るのはダメだと思う。起きて自分の部屋に私が居たら、流石に依河くんも驚くだろうし……。


 陽愛ひまなちゃんが言うには、幼馴染なら起こしてあげたり、ご飯作ってあげたりするらしいけど、それが普通なんだろうか。確かに、依河くんの両親も私が家に上がることに、何の抵抗も示さなかったし、全然気にしていませんでしたから、本当に幼馴染なら許されるんでしょうか……。


 私はそっとドアノブから手を離して、足音を立てないようにその場から離れることにする。そもそも日曜日ですし、わざわざ起こさなくてもいい気がしたので、階段を降りて、リビングで依河くんが起きるのを待つことにする。


「ふぅ……」


 と、息を吐いて、ソファに座る。依河くんのお母さんが淹れてくれたコーヒーを飲んでリラックスする。何故だか緊張している。子供の頃はよく来ていたのに……。


 ただ、子供の頃に来たときは、壁に掛けられた古い時計の、秒針を刻む音が大きく目立っていたのに、今はもうそれが聴こえない。あの古い時計は捨てられたのかな、今は真新しい白い電波時計が壁に掛けられている。

 

 昔との違いに、なんだか寂しさを覚えながら、リビングを見渡した。


「時の流れ……か」


 感傷に浸るように呟いた。そんな時、扉を開ける音が微かに聴こえた。ドキリと、胸の鼓動が一つ大きく鳴ったのを感じた。


 足音が少しずつ近づいてきて、妙に緊張してしまう。そうだ。思えばユキくんに誘われ来ることはあったけど、一人でこの家に来るのは初めてなんだ。


 それに気づくと、ますます緊張してきた。開口一番になんて言われるだろう。そんな不安が込み上げくる。


「────♪」


 階段の方から何か声が聞こえてきた。歌? 何を喋っているかはわからないけど、陽気な声が聴こえると、リビングの扉を開けて依河くんが姿を見せる。


「おはようございます。依河くん」

「え、あ、姫榊。おはよう」


 依河くんの反応は……至って普通のように見える。やはり幼馴染なら、知らずのうちに家に上がってても気にするようなことではないのだろうか。


「もうおそようですけどね」

「あ、うん」

「ほら、顔を洗ってきてください」

「うん、うん」


 ……なんだか、反応が心あらずなようにも見えるけど、多分寝起きだからかな。依河くんは特に物申すこともなく、洗面所の方へ向かって歩いていった。


 私もコーヒーを飲み干すと、立ち上がって、台所の流し台のところに空になったコップを持っていく。


「ご飯を作ったり……か」


 コップに水を入れて濯ぎながら呟いた。それは少し興味がある。子供の頃、あまり外出して遊ぶことがなく、お婆ちゃんやお母さんに料理を教わっていたことが多かった。 


 だから料理には自信がある方だから、依河くんにも食べてみてほしいという気持ちがある。自分で作った料理を他の人に食べてもらいたいという気持ちはある。


 昔、小学校の頃はバレンタインのチョコは作って食べてもらったけど、中学の時は渡す機会もなかったし……。


「子供の時に比べれば、上達したのを教えてあげたいんですけど。でも、勝手にやるのも流石に……」


 特に冷蔵庫を開けるのは失礼ですよね。そうだ。食材を持ってくればあとは────


「…………水の音?」


 耳を澄ませば、何やら洗面所の方から水の音が聴こえてきた。それと一緒に、給湯器の音も聴こえてきて、何をしているのかわかった。


「シャワーを浴びてるんですね」


 洗面所……風呂場の方から聴こえる音がシャワーのものだとわかったので、なるほどと呟いた。


 …………シャワーを浴びてるんですね?


「………………なんで?」


 いや、なんで?

 なんでシャワーを────なんでシャワーを浴びてるんですか!?

 

 いや、朝からシャワーを浴びる人はいると思いますし、依河くんがそういう人には思えなかったから驚いてるだけで、シャワーを浴びたから何か考えてるとか、深い意味があるわけでもないでしょうけど!


「き、き、着替えは……あるんですよね?」


 シャワーを浴びてるということは今の依河くんは、はだ──服を着ていない状態……。私がいるのに?


 むしろ私しかいないのに!?


 その状況で服を脱げるんですか!?

 

「だだだダイジョウブですよね?」


 時間にしてどれくら経っただろうか、もしかしたらそんなに経過していないかもしれない。ガチャリと風呂場の扉が開く音が聴こえた。


 反射的に背中が伸び上がってしまうと、顔が動かせなくなってしまった。妙に長い静けさのせいで、自分の心臓音がうるさい。耳を澄ませば布の擦れる音が────聴こえない! 聴きません! 


 頭を激しく振って雑念を払っていると、少しずつ近づく足音が聴こえて、そして彼が姿を表す。


「……なんでシャワーを浴びたんですか?」


 少し熱を持った赤い肌をした、依河くんを睨みつけながら聞いてみる。 


「なんか変な汗かいた」

「そう、ですか……まあ、昨日の夜は暖かかったですからね」


 ゆったりとした黒いTシャツ姿で、僅かに見える首元、少し赤くなって浮き出た鎖骨に目がいっ────て!?


「っ……」


 突然、依河くんが近づいてきて、反射的に避けてしまった。


「なんで避ける?」


 コップに水を汲みながら依河くんは聞く。その質問に他意はなく、ただ気になるほどに私の動きが不自然だったのだろう。


 ……なんだか私だけが意識しているようで腹が立ってきた。

 

「は? 避けてませんけど? は?」

「痛い痛い」


 落ち着かなくて肩をぶつけて体当たりすると、がっしりとした男の人の身体がわかる。さっぱりとしたシトラスの香りに、更に意識してしまうが、もう引くに引けなくて当たり続ける。

 そんな私のことも気にせず依河くんは気にせず水を飲む。


 何故、こんなにも意識してしまうのか。

 何故、こんなにも腹が立ってしまうのか。


 彼の前ではいつもと違う自分が出てきてしまう。

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