とある関係の名は



 記憶喪失になったらしい。


 どこかの記憶がごっそり抜けてるわけじゃなくて、なにか特定のものの記憶がなくなっている、と説明を受けた。


 知らない人たちに囲まれているのは不安だったけど、病院だし私どもがサポートしますので安心してください、って表情の読みきれない顔で言った医者からの説明だ。


 どこの高校を出てどこの大学に行ったかも、会社での立ち位置も、過去の生活だって覚えてる。


 なのに、医者がいうには『特定の記憶』がぬけてる?


 その特定の記憶が思い出せないから記憶喪失なのはわかってるけど、でも僕が持ちうる記憶はこれ以外にないのに。


 いったい、なにがぬけてるんだろう。


 僕は5日眠っていたみたいで、僕の目覚めをずっと待っていた家族やら友人やらがあとでお見舞いにくるよと一番乗りで見舞いにきてくれた母が話していた。


 心配かけただろうな。みんなになんて謝ればいいかな。それよりも前にただいまかな、なんて考える。


 テレビでは、平凡な毎日を切り取った映像がいかにも楽しそうに放送されている。


 ――どんなことが起きたって、最悪の気分だって、明日は平等に訪れる。


 仕事、誰かが代わりにしてくれてたかな、それだったら後で謝りにいかないとな、なんて思う。今日という奇跡の重さを噛みしめながら、そっとベッドにもたれた。




一真かずま!」


 息を切らして病室に走ってきた、その人の顔には見覚えがある。あれ。あと少しで思い出せそうなのに名前が出てこない。


「起きたんですね!」


 そのあとからくるのは大学時代の後輩で今の友人、それから妹、そして家族。全員わかるのに、なんで最初にきた子が分からないんだろう。


 ――いや、ちがう。


 知ってる。知ってるのに名前だけが出てこないんだ。友人で、あともうひとつ特別な関係があった気がする。その人と歩んだ記憶、一緒にでかけている姿。ぜんぶ覚えてるのに、なんで、まったく分からない。


 記憶がなくなると、こんなにも弱くて脆いものしか残らないんだ。


「……かずま」


 うさぎのような、くりんとした目が潤んだその子が声をだす。


「……なに?」

「わたしの名前、分かる?」


 泣きそうな顔で問われた。ほかの人たちをみると、半分泣いている顔で僕をみている。


「……ううん」


 小さく首を振る。そうしてその子は泣き崩れる。でも決して膝をつけようとしない。ゆっくり僕のもとにきて、そして手をとって額をベッドにつける。


 涙を見せたくないように。


「……かずま」

「うん」

「特定の記憶がないって話、聞いた?」

「……うん」

「……それ、わたしのことだったのかな」

「……たぶん、そうかもね」


 小刻みに揺れる髪の毛をぎこちなく宙にあげた手でなでる。


「……なんで、変わらないの。なんで一真は! ……なんで、そんなに普通なの」


 ぽろぽろ涙をこぼすその子の頭をゆっくりなでることしかできない。


 友人たちからただひとりだけ忘れ去られたのだから、動揺しているだろう。果てしない不安に襲われているかもしれない。


 でも、ごめん。


 僕はどうにもできないんだ。


「……ごめんね」


 震える体に腕をまわして、熱くてしっとり湿っている背中をさする。


 糸が切れたみたいにわっと泣き出すその子を、何度もなだめた。


 ごめんね。もう少しで分かりそうなんだ。


 君の名前、あと僕たちの関係についた名前も。



      了

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