第7話 ワクチン

「一体全体、どういう意味ですか?」

「手令くんはアクフスワクチンが全然効果がないって知っているわよね」

「はい」


 各国の製薬企業が総力をあげて開発したワクチンは、高齢者や医療関係者を中心に第一回接種が行われたものの、皆が期待する以上の成果はあげられなかった。このワクチンに対する疑心暗鬼が人々を覆うなか、各国の政府は臭いものに蓋をするように第二回、第三回と摂取を推奨し、その度にウィルスは変異を繰り返した。そして、あろうことか逆に接種した人間に対して、爆発的な感染を引き起こした。


 そこで得られた結論は、アクフスウィルスはワクチンを接種すればするほど、変異するという絶望的なものだった。変異ウィルスは弱毒化することなく、人々が集団免疫を獲得することもできず、もうすでに世界中で死者10億人を超えた未曾有の大惨事となっている。


 この結論に、様々な陰謀説が巻き起こった。


 これは人類滅亡を企てた殺人ウィルスなんだ。

 イルミナティの仕業なんだ。

 核に変わる貧者の生物兵器なんだ。

 挙句の果てには――

 世界を裏で支配する謎の勢力が、故意にウィルスを作り出し、漏洩させて、その解決策となるワクチンすらあえて効かないようにコントロールしているんだ。

 と、陰謀論ここに極まりといった具合だ。


「わたしはね、以前からあるルートを通じて、組織からコンタクトを受けていたの。ちなみに、そのルートは特殊なルートだから組織同様教えられないわよ」


 いい、と念を押されて、


「わかりました。続けてください」

「その組織が言うにはね、どうやらわたしとあなたが人類の救世主だったみたいなの」

「俺たちがですか?」思わず自分自身を指差す。

 恩羅さんは遠い目をしながら、「そうみたいね」とつぶやいた。

「その組織は、定期的にわたしにコンタクトを取ってきたわ。ある時はメール、ある時は社内便で」


「社内便ですか?」俺は引っかかった。


「そうよ。もしかしたらうちの会社にも組織の人間がいるかもしれない。組織はあまりにも巨大で、わたしも全容を知らないからわからないの。ただ、常に誰かに監視されている。そんな気がするわ」


 彼女はきょろきょろと身を屈めて周囲を窺った。

 まさか、そんなことって。


「テレワークになってから、コンタクトの頻度は増したわ。今まで日中はわたしもオフィスで働いてたから、彼らもへたにコンタクトを取れなかったんだと思う。今のテレワークの状況は、彼らにとっては好都合ってわけね。だって、わたしが仕事なんかしないで、裏で組織と綿密な計画を企てても、上司はわからないもの」


 確かに。

 俺も仕事中はずっとパジャマのままだ。起きたと同時にパソコンを立ち上げて、ひげも剃らずそのまま。今日、恩羅さんと会うから、久しぶりにシェービングした体たらく。


「彼らは言ったわ。今日、決行しろって」


「何をですか?」


 恩羅さんは、ごくりとつばを飲み込む。

 同様に俺も喉を鳴らす。


「手令くんを誘惑しろって」

「俺を誘惑……。なぜですか?」

「それは……」彼女はかあああっと顔を赤らめた。「い、遺伝子……」


 なにそれと俺は目を細めた。


「その……、わたしと手令くんが合わさったら、遺伝子ができるんだって」


 ん? いまいち理解できない。

 つまりと、食い気味に追い打ちをかけた。

 恩羅さんは俺の訝しんだ目にたじろぎながらも、意を決したように叫んだ。


「つまり、わたしと手令くんがやって、子供ができるってことよっ!」


「えっと、それって」

「そうよ。やるってことよ。そうすると自然に遺伝子が結合して、それを元にワクチンが作られるんだって」


 一気に言い切ると、彼女は「ふん」と鼻を鳴らして腕を組んだ。


「俺が、恩羅さんと、やるってことですか?」

「そうよ。なに? ダメなの? さっきまで『やらせてください』って、言ってたくせに」

「いや、それはそうなんですが……。さっき恩羅さんは『最低!』って、俺にビンタしたじゃないですか」

「それは……」

「ちなみに、恩羅さんはいいとして、何で俺の遺伝子がそんな凄い遺伝子ってわかったんですか? 俺は恩羅さんの言う、謎の組織とやらに、なんのコンタクトも受けてませんよ」

「……健康診断受けたでしょ」

「はい、つい最近受けました」

「会社の近くの財宅検診病院。どうやらあそこがグルになっていたみたい。手令くんの生体情報は、あの検診病院から組織へと全部筒抜けだったのよ」


 恩羅さんは、あたふたしながら答える。


「でも……。健康診断は最近受けたばかりですよ。それより前から、恩羅さんは俺を誘惑していた気がするんですが。だって、以前から俺のデスクに恩羅さんの文具入れを、わざと置いてましたよね。文具を取ろうとして毎回接近してましたよ。しょっちゅう。キスでもするんじゃないかってぐらいに」


 真実に迫ろうとじっと恩羅さんを見つめる。

 こんなにまじまじ彼女を見つめるのは初めてだ。

 可愛らしい一重で大きく丸い瞳。

 悲しいぐらいにはっきりと、彼女の目が泳いでいるのがわかった。


 嘘をついて、引くに引けない人間の目をしている。


――部長の指導力、管理能力不足です。


 あの時を思い出す。

 自分が100%悪いミスをした時だって、恩羅さんはいつも強引な嘘で俺をフォローしてくれたっけ。


 彼女は――そういうところが可愛いんだよな。


 もう、言っちゃっていいよね。


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